1108/10000 3月17日(金)2023
◆シリーズ 3/14~24 山形・宮城行報告その②
今日は、結城登美雄さんへの手紙 です。
結城さんは、地元学の創始者のひとりでその第一人者であり、東北を中心に全国の農漁村を回り地元の受け継がれてきた生業の文化を今とこれからに生かすいくつものプロジェクトを成功させ、結城さんと私たちが次の世代に伝えるべきものを伝え続けています。結城さんと私は山形大学の同期で、心から誇りに思っています。結城さんは満州生まれ、私より二つほど先輩になります。
結城登美雄様 美枝子様
お時間作って下さり本当にありがとうございました。
お会いできて本当によかったです。私たちが次の世代につたえるべきものがある、
このことをじっくりとごっつく示して頂きました。
私たちがこのあとに伝えるべきこととは何でしょう。
お話を伺いご本を拝読して私なりに今言葉になることは、
一つに、消費脳から生産脳へと舵を切り直すこと
二つに、『じかに身をもっての感受性』のよみがえり
三つめは、一言でいうと『畏れ多い』、この生命カンを取り戻すこと
それぞれ、手もと足もとから
どこにいても今すぐできることがある
ハタと自身で気づくこと
このことを、私なりの表現でできることはないかと、呻いております。
自分たちの後続の子どもたち、孫たち、その後の世代が大丈夫であるようにと気になるようになったのは、一つ年齢のこともあるでしょう。トシをとると脳内ホルモンがそのように変化するとか。もう一つはこのままでは『国も破れて山河もなし』の近未来がみえる現況への危機感です。
結城さんの足で歩かれた自分ごととしての聞き取りの数には圧倒されます。結城さんの前では何をいっても口幅ったい、この事実は否めません。それを承知で私の自分史を振り返りますと、いくつか結城さんと共通のものがあると感じます。
・豪雪地大石田のメインストリートに初めてブルトーザーが入って来たときの違和感と屈辱感
とは何だったのか?
・『ざいごくさい』=在郷くさい は劣っていることでコンプレックスを持つのが当然と思っていました。
・山の畑。大石田の今宿のはずれの山の中に戦時中の開墾?畑がありました。大八車に肥桶,かます、鍬を積んでお母さんが近所のおばさんと一緒に通って、イモ、豆、サツマイモ、ゴマなど作っていました。昼休みには握り飯にお菜、水は傍らの林の中に掘った泉から汲んできました。家の前の南側にお天道様の光をあびているゴマの木にうようよと巨大なゴマ虫が蠢いていました。
・『イナムシカンカラカン』、夏に農家の子供たちが柳?の枝を持ってメイン・ストリートを練り歩き、❝今年はイネに悪い虫がつかないように❞と唱え歌いながら豊年満作を祈り願う、それが「農薬」でした。
・ 最上川の水上がりで毎年一番最初に床上浸水するのが我が家。堤防工事のため立ち退いて県庁所在地に引っ越したのが1960年、高度経済成長真っ盛りとなったころでした。
一学年100人2クラスから、400人8クラスの学校へ。その生きることの影の薄さに呼吸困難に、後で『疎外』という言葉を知ることになります。女子は、自分のことを、オレからワタシに変える練習をしていました。山形市で人並みにスーパーマーケット経済に巻き込まれた10年を過ごし、お母さんのつくるお菜は全部茶色だ、ざいごクサいと文句をたれていました。
・ 優秀な先輩が『期待される人間像』の読み合わせをやってくれましたが感度がイマイチ鈍い私でした 。ベトナム反戦と大学闘争の時代、山大のキャンパスに連日繰り広げられるジグザグデモを、学生会館の前から見下ろしながら、これはいったい何なんだ?と考え続てきました。(遅まきながら、そのジグソー・パズルのピースがピタッとはまったのは2015年秋、臍を嚙みました。)
これはいったいなんなんだ?封鎖がとかれた大学に戻らず蔵王山系の山小屋に居続けていると、結城さんたちが心配して迎えに来てくれました。(ありがとうございました)まあ、あのころは、暗中模索と言ってもサマにならず親の心配はいかばかりかなど今ごろ言っても始まりません。普通の就職をする気がなくなって、なんとか卒業にこぎつけてワンシーズン天童の果樹農家に出面に行って
・1971年11月末リュックひとつで東京に出て、『食養』に出会って、食は生きることの基本と目覚めて人生が一変したのが1972年、以来自然食玄米食自然療法50年。もともと大石田では、お母さんがゲンノショウコ、ドクダミ、オトギリソウに梅肉エキス、富山の薬でなおしてくれて、医者にいったことなくそれが当たり前の時代でした。
・断食にはまっていた時、結城さんにたのんで左沢の田代?のご実家にお世話になりました。
・1974年、数百人のなかまとともにまるごとひとつのいのちで生きる生き方を求めて沖縄の読谷村から北海道の知床半島まで主にヒッチハイクで列島を縦断、
(昔語りをしてもしょうがないですね、しかも過酷な自然の中で生きるために必死の人々とは已む無い必死さのレベルがそもそも違います)
・30代信州の山の中の一軒家で電気ガス水道ナシの8年半の暮らしの中で二人の息子を育てました。
すでに過疎となった入山部落の入り口の蛇行する入山川の内側に立つ百姓さんの元屋敷でした。すでに村人が入山を下りてから10年当時残っていたのは2軒、そのうちの一軒池田さんは文字通りの百姓で、木曽の山仕事仕込みの大きな手鋸で直径3尺の木を見事に水平に切って見せてくれました。池田さんともう一軒日向のおばさんにはほんとうによくしてもらいました。GIVE&GIVE、文字通りおかげさまでそこで暮らすことができました。。
ままごとでしたけれど、稗、黍、高黍、粟、小豆、大豆、えごま、となんでも作り、覚束ない手つきで、池田さんたちに教えてもらい、農文協刊のバイブル片手に、麹、味噌、醤油、どぶろくとなんでもつくりました。
生坂村の何かの記念に全戸配布された村の航空写真、山襞に埋もれて生きていた人々、今の言葉ではエコロジカルではあろう、しかし、『生きることで精いっぱいだった』『お前たちは本当の貧乏を知らない』と土地の人にいわれました。
そこ清水平の地母神に与えられたのは、三つの言葉、『うむ・はぐくむ・わかちあう』でした。
今回の山形行では、押切さんにお願いして大石田の役場に寄ってもらい、図書館のスタッフさんが用意して下さった昭和30年代の資料を10冊ほどめくることができました。
『写真で見る大石田町史』には生まれ故郷の川端の冬、最上川の洪水の写真もあり、ヤッターと快哉、更に鉄道開通以前の大石田の街並みの一軒一軒の調査の冊子には驚きました。きっともう一度訪れることになると思います。
何も知らず生意気盛りだったころには歯牙にもかけなかったことがあれこれと気になりだし、自分が出現した時空の歴史はどうなっていたのかと姉、弟と一緒に荒木家のファミリー・ヒストリー秘話で一晩盛り上がりました。
文字通りの百姓だった池田の爺さん、明治39年生まれの父(建築大工)、明治43年生まれの母(お嬢様育ちの婿取り)の世代と比べたらなんと生命力のダウンした私、国も敗れて山河もなしの危機にさらされて衰退にひた走るかに見えるこの列島で、それでも何かを子供たち、孫たち、その次の未来の世代に伝えたい、子供たちを信じて。経験も浅く非力な自分に何かできることはあるだろうか?いまその言葉をさがしています。
『この国がこの50年に失ったものを取り戻すには千年かかるだろう』10年前尊敬する先生がオープン・セミナーでふともらした一言です。太平洋戦争を身をもって知る世代に続いて、私たち高度経済成長以前の世の中を知る世代があの世に引っ越します。いつの時代にも変わらないものはあるはず、これをアップデートしたカタチで今様によみがえらせる試みをせめて見守ることのできるおばばでいられたらと願っています。
今度の東北行きでは、何人もの『大丈夫な』頼もしい人々、いくつものシーンに出会わせてもらいました。それは、never give upな人々というよりも、雑草のごとく❝自然発生❞してくるいのちの息吹とも見えます。『この列島の資源は放っておいたらどこにでも雑草が生えること』(藤井平司さん)なのですから。
中でも結城さんにリアルで会えたことはこの先のシニア人生のごっつい骨となってくれるとビビッときています。
どうか御身御大切に(お互いさま)、再会にかさねて感謝します。
関根さん、女同士で盛り上がる機会がありますように、再会のときを胸に、トシなりにですけど がんばりますね。
⤵ 結城登美雄さんの著書のひとつです。統計、数字もバッチリ。(押切さん蔵書)
私には生まれ故郷山形の大石田の 記憶と当時の人々の生命力がよみがえります。