『2011.3.11から12年』

1102/10000 3月11日(土)2023

今日は、3.11 東日本大震災から満12年になります。
慎んで亡くなられた方々のご冥福をお祈り申し上げます。
未だ復興途中の方々、避難生活の方々にお見舞い申し上げます。
福島原発の後始末の作業に従事なさっておられる方々に敬意を表します。


市役所のテレビに映る津波の実況中継はCGにしか見えなかった。
東京にいた能登の息子三郎は即荷物をまとめてお父さんに迎えに来てもらって能登に返った。
二郎は飯田橋のビルの何階かのコンピューター専門学校から歩いて板橋のアパートに帰った.。4月から行く会社が決まっているのでそのまま東京にとどまった。

テレビに釘付けになりながら引っ越しの片付けは捗らなかった。お隣の親切なおばあちゃんが
大量の本を町内会の資源庫の運び、ガラスを洗い、台所を掃除して下さった。

一番古い友達の実家は浜通りで網元をしていた。遠洋漁船団は乗組員ともどもばらばらになり気仙沼の事業所は壊滅した。
山形の姉は名取まで大石田時代の近所の仲良しの見舞いに行った。
ここ十勝のなかまたちはすぐ子供たちの保養運動を始めた。(私たちはチェルノブイリの子供たちの保養運動をしていた)親御さんたちが必至のの思いで送り出したであろうお子たちのなりが小さい、胸がぎゅっと締め付けられる。
古い友達夫婦が福島 から移住してきた。孫たちが遊びに来れるようになった。
十勝に移住してきた人と友達になった
山形の甥が突然首の動脈瘤が破裂して亡くなって3年になる。会社の現場が仙台方面にもあり、ICの会長もしていたから支援のためたびたび現地に赴いていた。家族は、放射能の害についてほんとに何も知らない、知らされていない様子で何も言わず黙って帰ってきた
北海道から毎月南三陸町まで炊き出しトラックに支物資を満載して支援に行っていた友達は去年コロナ下 病院で亡くなった



脱原発を訴える声はアクションをやめていない。
一方政府は、再稼働、運転期間の延期、あろうことか新設迄言い出している。破滅に向かってまっしぐら、洪水よ、我が後に来たれ、今だけ 金だけ 自分だけ。脳が思考を停止している。南海トラフ地震も眼中になさそう。
巻き添えはまっぴらごめんだ、私たちの子どもたち、孫たち、大切な友達、一般庶民みなみな。


さてこの15日から山形に行ってきます。
そのとき石巻迄連れて行ってもらいます。友達が石巻でプラスチックの海洋汚染を減らす超地味な活動をコツコツやっているので、その見学と実習です。
その友達はもうひとつ、地元遺産を次の世代に伝える活動も長くやっています、その見学もあります。

原発新設、とかの声はでかく見えるけれども、思考と思いやりの欠如した、まもなく剥がれ落ちる瘡蓋に見えます。その下に、この列島中あちこちで、自然発生的に(当事者はご苦労多いかとお察し申します)キミドリ色の息吹きがツンツンと芽を出しています。
『この列島はどこでもほっておいたら雑草が生える、これがこのクニの資源』、とおっしゃたのは、農芸家の藤井平司さん。この言葉を胸に、飛び跳ねるお子たちに目を細めながら、
あくまで希望にフォーカス、新生日本起死回生プロジェクトの基礎の基礎の礎を担って、次の世代に手渡そうとしています。雲をつかむようですけれど仮説検証を繰り返していきましょう。

『高度経済成長以来、この国が失ったものを取り戻すには1000年はかかるだろう』尊敬する総合栄養療法のドクターの言葉です。+今朝SNSに入ってきた二つの言葉、
「足元を見ろ」。まず自分の靴を揃えなさい。加速主義の正反対ですね。「まず立ち止まれ」ですから。百年河清を俟つ」「真理は歴史を通じて顕現する」』(内田樹さんonTWITTER 縮めております)
『インチキ先進国だからこそ世界に解決策の先例を示すことができる可能性がある』(宮台真司さん)

なんか肩が軽くなりますね。今できることを一歩一歩積みかさねていきましょう。
子どもたちに あきらめていなかった背中が伝わったらありがたいことです。
3.11満12年の日のメモ書きでした。


⤵2年前の3.11の夕日@帯広です。