『忘れていない初心~50年以上前のこと』

1080~1086/10000  2022 4月28日 木曜日
 今日は、久しぶりに、◆子供らに寄せてのうち、私の自分史で、私の大学時代のことを
書きましょう。

 というのも、応援してもらっているFACEBOOKの友達Tさんから「Yさんに相談してみたら」とメッセージがあって、思いがけない案に、お!いいかも、と反応して、Yさんとはもう50年以上会っていないので、挨拶から書き始めたわけです。
 Yさんは山形大学の同級生で国文科、学費を貯めてから大学に入ったので私より三つくらい先輩です。長く広告会社をやった後、地元の東北を中心に、地元伝統の 農林水産の生業 と文化の 継承と創造 、『地元学』を立ち上げた、その道の第一人者です。
 あ、そうそう、何の相談かというと、私のミニ起業『自分史探検サークル』の内容と情報宣伝の相談なのです。Yさんは、国文科・広告宣伝業・地元学の実践と何十倍も人生の大先輩なのです。
 こちらが、Yさんへの手紙です。  

Yさん           2022 4月28日~

ご無沙汰です。突然ごめんなさい。
❝Sさん❞もお元気ですよね。
 Sさん(パートナーさんです。同級生でした)、ご無沙汰です。しうこです、私も75歳ですよ。北海道は十勝地方帯広に住んで37年になります。町じゅうコブシ、サクラ、ウメ、モモ、レンギョウが満開、今日はサクラも強風で散り始めています。
 Yさんのことは、農文協通しで、チラチラ拝見しておりました。御意でございます。そうそう、八百屋をやっていた時、25年くらい前でしょうか、在庫置き場で販売の準備をしているとき古新聞に Yさんの 大石田の雛祭りレポートが載っていて、びっくりというより シンクロニシティを感じて大仰でない喜びがじわっと広がったことを忘れません。月歴の三月節句、子供たちが一団となって,、❝お雛さん見せでけらっしゃい❞と挨拶して家々をまわり、路地(家の中の土の通路)からお雛さまを見せてもらってお菓子をもらうのでした。

 私アナログ75歳のミニ起業『自分史探検サークル』のことで相談させてくださいませんか? 今日はこのことで手紙を書いております。


 1969年秋、かもしか温泉まで迎えに来てくれてありがとうございました。あの後私は、冬前まで秋田犬と一緒にかもしか温泉の周囲の蔵王の山の中を庭のごとく歩き 高山の秋に目を見張り、冬枯れの山の藍色の中のイタドリは「イタドリのベンガラという」と登山者のお客さんに教わりました。 かもしか温泉、跡形もなく消えてしまったんですね。あの地形なら大雨が来たら無理もない、私たちが無事だったのが不思議だったかもなど思われておりました。

 ここで夏の終わりから初冬迄を過ごし、大学に戻り 人文学部に鞍替えはしませんと学生課に言って(ワケが分かっていたわけではありません。生物的なカンだけで)文理学部最後の卒業生のひとりとなりました。(たしかもう一人いたようです)卒業論文は『伊藤野枝の生活者』、日本史専攻なのに古文が読めず (恥)野枝の全集は一冊だけだったのでこうなりました。卒論を上げるために当時の私としてはものすごく勉強しました。大学時代もっともっと勉強しておくべきでした。後悔しています。

 ベトナム反戦と大学闘争のあの頃、私は活動家ではありませんでした。でも、連日構内に繰り広げられるジグザグデモを学生会館の坂の上から見ながら、占拠された学生会館で占拠している全共闘の連中とだべりながら、『いったいこれは何なのだ?』と身体が反応して、それが知りたくてここまで来たぜ、という感じです。
 この問いへの答えは、2015年夏安保法制反対行動の最中に読んだ山本義隆さんの『私の1960年代』で、ぴたっとジグソー・パズルのピースが嵌りました。大学一年の時、優秀な一年先輩方が合宿で❝『期待される人間像』、ここがおかしい❞、の読み合わせをやってくれたことが鮮やかによみがえりました。皆でガリ版を切ってテキストをつくっての合宿でした。
 もっと早く気づいて、原因を探りアクションをつくれて継続していたら、もちろん私一人ではなく、この列島中で、この国の目も当てられない眼前の体たらくに陥ることはなかっただろう、「この国は戦争とは無縁」と脳天気にのほほんとしていた戦後民主主義世代として臍を噛む思いで、柄にもなく苦手な政治にちょびっとだけ首を突っ込んでいます。本音は若い人のうしろによぼよぼとついて行きたい。

 一方で立憲民主主義の限界も感じていて、その周辺の、また別の生き方、視点にも注目しています。芸術、文化、ビジネス~網野史学、地生え・海生え・心映えな自然なコミュニティ、アジール、コモンズ、テリトーリオとかにです。駅から10分の古い物件に1人暮らししているだげですけど、志向は、です。自分のコミュニティ、アジールの準備としても取り組み始めたミニ起業を成立させたいのです。

 ご両親が尾花沢のTさんとは、FACEBOOKで共通の古い仲間を通じて友達になりました。私が13歳まで生まれ育ったのは大石田の川端で目の前の最上川が私の原風景です。
 “最上川逆白波の立つまでに吹雪く夕べとなりにけるかも” 茂吉
この年になると思いだすのは高度経済成長前の生まれ故郷のことばかりです。
 
 私は、遅くて長くかかるんですよね。よくいえばじっくり、でしょうか。大石田から県庁所在地に引っ越してのこの違和感とは何か?、それが知りたくて60年以上、大学構内のジグザグデモってなんなんだ?それが知りたくて50年近くがあっというまにたってしまいました。残された限りある人生を考える時期に入っています。



 一年前約15年にわたるパート修行(これも長かった)をようやくやめて、いざ『しうこばーばの自分史講座』を立ち上げてはみたものの全然勝手がわかっていなくてこの冬まで呻きまくっていました。そこから脱しかける光が射しててきたところでこの手紙を書いております。
 ご教示お願いできますれば幸甚です。

不完全版ですけど、完全を期したらいつになるかわからないのでこれ迄書いたものをラインナップ致します。

① 自己棚卸し
ネーミング  キャチコピー  コンセプ
自分史手帖
④ モニターを募集する
⑤ 情報宣伝告知作戦
(これからコピペして調整します。明日には送りたいところです)


 75歳でのミニ起業、「あと10年早かったらな」と思わないこともありません。ITもSNSも新しいことはすぐ覚えられないし。最近覚えつつあるのは、『急ぐときこそ、少しづつ少しづつ、あわてないあわてない。』
 自分がアンテナ立てていると、77歳で起業した方の情報をはじめとして、今必要としている情報が次々と入ってきます。4月の末に 77歳までの3年計画『喜寿プロジェクト』を立てました。今できることからトシなりのスピードで小さい一歩小さい一歩を重ねております。
 よろしくお願いします。


 以上 Yさんへの手紙でした。
大学時代のことを初めて書きました。自分史、なかなか書ききれるものではありませんね。70過ぎてようやく自分のたどってきた道を振り返るニーズが湧いてきた気がします。『掘り出し物は我が身のうちにあり』、このことを知ってほしくて『自分史探検サークル』を始めています。
 では、Yさんへの手紙の続きを編集しますね。

★『はがき一枚からはじめる自分史探検 3か月モニター募集!』
ご関心おありの方は、
FACEBOOK Shiuko Araki のメッセンジャーまでどうぞ。


今年の春は、ここにもあそこにもと満開のサクラが
町じゅうに溢れていました。去年まで気づきませんでした。

『子育てとは?』

1058/1000 2022 3月31日(木曜日)
毎週木曜日は、◆子供らに寄せて
どんな時代になっても変わらないことはあるはず、
次の世代に伝えたいことをメモ書きしていきます。
あいまに私の来し方が入ります。

この表を見ながらの◆子供らに寄せて、
2週間ぶりです。どこまで行ったか確かめました。
赤ちゃんの子育て、迄でしたね。


ここで『私にとっての子育て』
いくつか思いつくままメモしておきましょう。


① 私の人生は、息子たちを授かってからです。
その前は、何もわかっちゃいなかった。
それは何か?
出てきてくれた赤ちゃんにおめもじして
抱っこしたらわかります。

② 『いのちをつないでいくこと』
これはスペシャルに大切なことである、
これ以外に大切なことはない、と
生物の本能が教えてくれました。

③ 子育ては思い通りには行きません。
特に男の子の場合は。
そこで頭がフル回転せざるを得ません。

この子は、この言葉で、ほんとは何を伝えたいのか?
それを察しようとカンも総動員するようになりました。
言葉だけにとらわれるのではなく、
その身が伝えたいことをこちらも身をもって察知せねばと
全身を使おうとするように変わりました。

⑤ 男の子は面白い。
オンナにはない(とひとくくりもどうかと思いますけど)
びっくりぽんな優しさがあります
母感激、未知の世界でした。

⑥ 子育ては体力勝負、若い方がずっと楽だと思う。
体力のあるうちに産んで育て上げてしまうのもワルクないと思う。
私は30と36歳だったのでそれなりでした。

⑦ 子育ての苦労は苦労とは感じられません。
本能です。生かすためなら何でもします。
母は強し、です。

⑧ 子育ては無償のもの。
無料で授かりました。まさにミラクルです。
最高の奇跡です。

⑨ 『食養』に出会っておいてよかった。
体調を 大きな便りを観察して食べ物でコントロールして
殆ど医者にかからずに育てることができました。
食養の基本の手当で間に合いました。

⑩ 今現在のこの国の食の安全
大きな危機感を抱いています。
身土不二、地産地消、一物全体
顔の見える 心の通う食べ物でそだてることが
必須です。
食の自給は、生命力の自給です。

⑪ 子育ては世の中全体でやるものです。
母子家庭、父子家庭、核家族で完結できるものではありません。
子育てが楽しい、ラクチン、不安なくできる、
それでなくても大変なのですから、
食べ物が安全で生命力があること
助け合うシステムがあること
お金に不自由しないこと
ワクチンとマスクは一人一人の判断で
それに戦争がなく、
平和であることが必須です。

国家によって、
人を〇すため
人に〇されるために産むお母さんはいません。

⑫ マザー・テレサは言ったそうです。
『一番かわいそうなのは、
あなたの国のこどもたちでしょう』と。
子供たちが安心して
スクスクのびのび育つ
心優しい穏やかな元気な世の中に
作り変えていきましょう。
あちこちでそうしている人たちがいます。



子育ては遊びに分類される部族がいるそうです。
そんな世の中にしていきましょうね
一言でいうと、今日はこれですね。

今日の夕空、ここの交差点パワースポットかも。
今日の夕空はいかに?と足が向きます。

『早春がよみがえる』

1030/10000 2022 3月3日 木曜日
毎週木曜日は、◆子供らに寄せて
いつの世でも変わらないことはあるはず、
そのことをメモ書きしています。
合い間に私の来し方が入ります。



今日は太陽暦でお雛祭り、
ひな祭り=3月節句のことは
だいぶ前に書いた気がします。
月歴ではまだ先、4月1日になります。
早春のさんざめきが
当時よりもあざやかに
身のうちからよみがえってきます。
記憶にちゃんとプリントされているんですね。

今日は予定を変更して
生まれ故郷の早春を
思い出してみましょうか。
このトシになると
思い出すのは12歳まで暮らした
生まれ故郷のことばかりです。


春はフキノトウから始まりました。
ウロカの屋敷の立派な塀の前の日陰に
雪をとかして姿を現しているのを
見つけてみつめている私がいます。
このフキノトウは取って来なかったと思います。

かた雪はその前だったでしょうか?
桑の木の間を皆かた雪の上を歩いて
中学校に行ったものです。
かた雪になると歩けないところが
歩けるようになる解放感があります。
懐かしい。

最上川の岸近くに
ハンノキの木があって
(なにハンノキだったのでしょうか?)
そのバナナのような房、雄花が
妙に好きでした。


川原はんのき
これはカワラハンノキだそうです。
庭木図鑑 植木ペディアより

三月節句が近づくと
お母さんが『くじら餅』をつくります。
うるち米、と餅米の粉を挽いてもらって
水で練って寝かせて蒸したものです。
大きな鍋が流し(台所)にいくつも並びます。
味は味噌味、砂糖味、黒砂糖味、
くるみ入りもあります。
上には鮮やかな赤、緑などの飾り粉を
まぶしたりします。(これは我が家では
あまりやらなかったような気がします)
竈に羽釜をかけてお湯を沸かして
上に蒸篭をのせて
くじら餅の型に布巾を敷いて
強火で蒸します。
春のおやつはくじら餅一色となります。

ステーション・デパートで
通年売っているものではなくて
山形の大石田の川端で
月歴の三月節句に
お母さんが竈で蒸篭で蒸したのが
食べたい。

我が家のお雛様は
最上段のお内裏様とお雛様は
一番上の姉が生まれたときに
買った立派なもので
それ以外はバラエティなあれやこれやでした。
一つ一つの由来を聞いておくべきでしたね。


お供えには
寿司の脇に、鰊でした。
そのころニシンがよく獲れたのでしょうか。
魚好きの私、鰊は特に大好きです。
早春に鰊がセットで思い出されます。

今も残念に思っていることがあります。
それは、❝手提げおひなさま❞です。
父たちは出稼ぎ先から帰るとき
子供向けの雑誌をお土産に
持ってくることがありました。
それも丸ごと一冊ではなく
余ったのを寄せ集めて綴じたものでした。
出稼ぎ先で知り合った
そういう仕事をしている誰かから
譲ってもらったのでしょうか、
家で待っている子供たちにと
その時の父と兄たちの心を思うと
じ~んとなります。
月刊誌を買ってくれるような
家ではありませんでしたし。

その中に『小学一年生』かなにかの
付録の『手提げお雛さま』があったのです。
それは、手提げの形をしていて
開くと立体になってお雛さま一揃いが
雛壇に並ぶというワンダフルなものでした。

家を出るとき大好きだったこの
手提げお雛さまを持ってきて
三月節句には取り出して飾っていました。
それが度重なる引っ越しで
いつのまにかなくなってしまいました。

ひな壇に飾られた雛人形のイラスト | かわいいフリー素材集 いらすとや




その移り変わりではなくて
そのこと一つの由来、
when,who,whom,where,why,
そしてhow, 関わった人々のその時の思い
いまならhow muchも加えて
そのことに思いを馳せることが
できるようになったのも
トシをとることの恵みではないかしら、
今年の早春の思いです。




日本華道院十勝支部の方々の展覧会にて。
許可を得て撮影いたしました。



『子育てに尽きる~その①』

2009/10000 2022 2月10日 木曜日
毎週木曜日は、◆子供らに寄せて
どんな時代になっても変わらないことはあるはず

次の世代に伝えたいことをメモ書きしていきます。
あいまに私の来し方が入ります。


今日は、子供らに寄せて
この表を見ながらメモ書きを続けています。

生きていることの中身を表にしました。

先週までのテーマ、『コミュニケーション』を
ひとまず置いて、今日は
『子育て』に移ります。
ひとり孫姫のみいちゃんに語り掛けます。


みいちゃんへ

子育て、この表の中で
特別太く書きました。それは、
子育ては特別に大切なことであるからです。
子育てを中心に、人生と世の中は
まわるべきだからです。


願いをひとつと問われたらこう答えます。
『子供たちが安心して
スクスクのびのび育つ世の中であること』


ひざの上で赤ちゃんを抱く母親のイラスト | かわいいフリー素材集 いらすとや


それに加えて
お母さん、お父さん、または
お子を育てることになった人たち、
それに保育士さんたちが
安心して子育てができる世の中であること』


赤ちゃんを抱っこする老夫婦のイラスト | かわいいフリー素材集 いらすとや

私の人生は、
みいちゃんのお父さんを授かったことから始まります。

もし、私が子育てをすることがなかったら
私の人生は、今の半分以下、
肝心要のことを知らぬまま
一生が終わったと思います。

おなかにお父さんが来てくれたときは
本当にうれしかった、
でも私は何も知らずに母親になり
それは大変だった。

どうしても母乳で育てたくて
母乳が出ていないことに気づけず
お父さんは生後一か月で栄養失調で入院、
90%ダメです、と宣告されました。
病院のお医者さん、
祈って下さった先生方のおかげで
生還できました。

粉ミルクアレルギーで
誰からも、うわ、かわいそう!と言われ
食養の先生に教わって
玄米ミルクに変えていき、
10か月でお肌つるつるになりました。
毎日うるかした玄米をすり鉢で摺って
囲炉裏で沸かして、哺乳瓶の口を
玄米ミルクが出やすいようにあけて
母乳が出せなかった分の
愛情を注がねば、と
ちゃんと背筋を伸ばして飲ませました。
玄米だったのでウンチはころり、
おむつは殆ど汚れませんでした。
そのことを、お父さんのお父さん
七爺の『トイレット・ペーパー』という詩に
出てきます。


でも私は何も知らなかった、
ミルクを飲ませて
風呂に入れて
寝かせて
安全に気を付けて
することはそれだけ、
それはできる、

何を知らなかったのか?
産んで育む、という勝手です。
私の脳には、消費脳しかなく
うんではぐくむ脳の回路がなかったのです。


来週は、
なぜ、子育てに尽きるのか、
このことを言葉にしてみましょう。
続きます。

おなかにいるのはお父さんです。1977年9月清水平。







『祈りについて』

981/10000 2022 1月13日 木曜日
毎週木曜日は、◆子供らに寄せて
次の世代に伝えたいことをメモ書きしていきます。
あいまに私の来し方が入ります。


早くも正月過ぎ
各地のFACEBOOKの友達から、
どんど焼きの投稿が相次いでいます。
どんど焼き、山形の生まれ故郷では
オサイト(御斎火か?)と言いました。

今日は正月のうちに
祈りについてのメモ書きその①です。

生きることのなかみを表にしました。




荒木家は、1960年に
北村山郡大石田町から
県庁所在地の山形市に引っ越しました。
大石田では月歴で暮らしていたのです。
学校、役場は新暦でした。

母のメインの仕事は
八百万の神々を祭る
季節の食べ物と一体になった
民俗年中行事を執り行うことでした。

暮れからは
煤払い、
正月料理
餅つき
大きなお供え餅とのし餅

大晦日には
お神酒を上げてそばを食べます。

元旦
お神酒を上げて正月料理を頂きます。
初詣   (この時は新暦で、町内の神社を回ってお参りする
父について行って、途中で腹が減って我慢できず
ひとりで帰ってきて母に怒られたことがありました)

15日が小正月
もう一度餅をついて
お供え餅と
団子さし(繭玉飾り)の根もとに飾る餅と、
道具類、風呂場、流し、便所にお供えする
小鏡餅を作ります。
天井には二つの団子さし、
稲わらに餅を付けて(おそらく)粟の飾りも
下がります。

御斎火はいつだったか、正月と小正月の間だったのか?
金平神社の境内の下に木を積み
大きな火が燃え上がります。
旧いお札をはじめとして
テスト、習字を投げ入れて
成績の向上をお願いする子供もいます。
松、杉の生木が入れられると
針葉樹のなまの強い匂いが
鼻をつき、清め度がぐっとUPします。

年前には、和蠟燭の注文取りが
各家をまわってきます。
確か鶴岡の和蝋燭だったと思います。
その蝋燭が神社の燭台で燃えています。
子供たちが流れる蝋燭を見つめています。
明日の朝もらえるのです。
板スキー、かすき、スコップに塗るためです。

わが家は大工だったので
大工のお祭りの日もありました。
大工の神様、聖徳太子の掛図をかけて
餅をついてお供えしました。
食べる前には必ず
武田さんの家に
重箱に入れて持って行きました。
自分たちが食べるのはその後です。

母に年中行事の聞き書きをしたメモが
生活に追われているうちに紛失してしまいました。
大石田の役場に問い合わせねばと思いつつ
まだやっていません。

そう、その頃は
祈りと暮らしが一つだったのです。
少なくとも年中行事の日には。


ごしゃがれる=怒られるときには
『ばちが当たる!』
厳しく宣言され
本当にこわかった。

世の中の基底には
『畏れ多い』という生命カン
意識的無意識的に
共通の前提としてあったのです。


行事食は最初に最も仲のいい家に食べてもらい
頂き物は仏壇に供えてから、
自分たちが最初に食べることはありませんでした。


トキのめぐり、トコロ、土からの恵みとしての食べもの
それらをもたらしてくれたものすべてへの
感謝と畏れ、
このことが世の中の共通前提としてあったのです。

13歳までの、地域共同体としてあった
この祈りが私の原体験として動きません。


新暦で早くも正月過ぎの今日、
祈りについての一回目でした。
不一にて。

大雪60CM ,の朝です。




『乗り切ってきたこと』

946/10000 2021 12月9日(木)
毎週木曜日は、◆子供らに寄せて
次の世代に伝えたいことをメモ書きしていきます。
あいまに『私の来し方』が入ります。


振り返ってみると
我ながらよく頑張ってきたな、と
自分をねぎらいたくなることはありませんか?

ほめる イラスト 124935-褒める イラスト 無料
時々自分をいいこいいこ


今日は私の来し方で、
よお、がんばったね、と当時の自分をハグする、
あれやこれやのシーンを振り返ってみましょうか。

実は、『しうこばーばの自分史講座』をはじめたものの
気づいてみたら、なにもかもやったことのないことばかりで
呻きまくっていたのです。

20年以上前から何回も何回も繰り返し書いた
自分の年表、今ではその簡易版をさっと書くことができます。
呻きながら、乗り切ってきたことを年表に書いていました。


・公教育の体育(たいそう、といった)がまるでだめで
できるようになる方法をだれも教えてくれなかったこと
(小1~20歳過ぎまで)
・生まれ故郷から県庁所在地に引っ越してのあれこれ(中2)
・大学の卒業論文の奮闘(当時としては)
・リュック一つで東京に出て
 はじめてイニシエーションの渦に入ったこと(20代)
・清水平での電気ガス水道ナシの暮らしで二人の息子を育てたこと(30代)
・上の息子が生後一か月で死にかけて命を救って頂いたこと
 (わが人生最大の出来事 30歳)
・二人の息子をつれての無謀な北海道移住(30代末~)
・素晴らしい八百屋へたくそな経営(40代~50代始め)
・更年期・慢性疲労+人生の転換期(50代前半~)
・60過ぎからのパートタイマー修行(60代~70代前半)


一部略。今回は、仔細と解説は抜きです。
時が解決してくれたものが多いですね。

そして、今
・人生の転換期を乗り切れそうだ(70代半ば)
・1960年以来心から離れなかった『真実ってなんだろう?』
 その追及をやめることがなかったこと(~至現在)

・だから何とかできるだろう、今やろうとしていることも。
この真実を言葉にして伝わる相手に伝えることが今の仕事だ。

というわけで
新たな世界を目の前にして
人生、良くも悪くもない
今自分の仕事をJUST DO IT
そんな気になっているところです。

心機一転」のイラスト(女性) | かわいいフリー素材集 いらすとや


当時を思い出してハラハラしつつも
過去の自分に励まされる、
まあ、しょうがない、やってみるか、
そんな時ってありませんか?

中央公園のいつもの場所です。
暮らしの中で変わらないものがあるとほっとします。



『晩秋のもみじ』

912/10000 2021 11月4日(木)
毎週木曜日は、◆子どもらに寄せて
次の世代と分かちあえればと願われることをメモ書きしていきます。
あい間に私の来し方が入ります。



今日は先週に引き続き私の思い出です。
紅葉もそろそろ末。霜待ち、雪待ちの11月、
この時期になると思い出されることがあります。


紅葉したもみじを打つ冷たい雨の中、
私は泣きながら家に帰ろうとしていました。
確か小学校一年生でした。
手には、頭にかぶる ボール紙に描いた大きなもみじの葉っぱ、
その頭にかぶる輪っかががゴム紐ではなくて、みんなのは紙だったのです。
それだけで悲しくなって泣きながら家に向かっているのです。

家に帰って 作ってくれたてい子姉ちゃんに
べそをかきながら訴えました。
ていこ姉ちゃんは、そうかそうかと
ゴムひもを紙のわっかに付け替えてくれました。
もみじの葉っぱも描きなおしてくれたのだったかも。


❝ あかいあかいもみじのは
もみじのはっぱはきれいだな
ぱっとひろげたあかちゃんの
おててのようでかわいいな ❞


学校の文化祭の出し物で、
この歌に合わせて何人かで
壇の上で手をひらひらさせて踊るのです。
踊りは私は大の苦手で
隣の友達に首を向けて見ないとできないのでした。




この時、数えてみると、
ていこ姉ちゃんは13歳、中学1年か2年?
9月生まれでした。
ていこ姉ちゃんは、布人形も作ってくれたし
夏休みの宿題もやってくれて
じぶんでやる!とていこ姉ちゃんの鉛筆の字を
消しゴムでけしたこともありました。
山形の理容学校に通っていた時、山形につれていってくれて
汽車の窓から凍ったミカンを買ってくれました。
家を離れてから帰ると、
山形駅のホームまで名残惜しそうに見送ってくれて
若かった私は 愛で息が詰まりそうになったものです。
ていこ姉ちゃんは左官だった連れ合いに先立たれ
誰にも看取られずにひとりで亡くなりました。



雪待ちの11月、
呉服店の「こます」と「ウロカ」の間の道に
冷たい雨に打たれるモミジの赤、
手にはていこ姉ちゃんの手描きの大きなもみじ、
泣きながら家に向かっている小さな私が見えます。

雨の文化の日の翌朝、今朝のもみじの落ち葉です。

『最上川の秋』


905/10000  2021  10月 28 日
毎週木曜日は、◆子供らに寄せて
今日は、思い出されることがあって
私の来し方を振り返ってみましょう


この年になると、よく覚えていて思い出すのは
生まれ育った大石田のことばかりです。
山形県の内陸部、最上川の中流域の小さな町です。
一学年は2クラス、一クラス50人以上でした。

思いだすことの中で 一番最初に来るのはなんといっても最上川です。
前にも書いたことがあるような気がします。

家の向かいには家がなくて、林になっていました。
生えていたのは、杉の木が多かった気がします。
風が吹いた後は
炭俵を持って杉の落ち葉を拾いに行きました。
囲炉裏と竈の焚きつけ用です。


ミズキが一本あって、小正月の団子さし(繭玉飾り)のときに
枝を切りに行きます。


初夏にはキリの木の花が咲きます。
あの匂い、懐かしい。
ここ十勝には桐の木がありません。


櫨木(はせぎ)にかけられた稲が秋の光を浴びていました。
櫨木はずいぶんと高かった、5段はありました。
杉の木も支柱になっていました。
稲束に赤とんぼが飛び交っていて、一緒に遊びました。

安心して遊んでいた私たちは暮らし全体が部落の大人たちと
地域共同体にまもられていた、(うまく言えません)
その空気が秋のあたたかな日差しとともに甦ってきます。

秋になるとスギモダシというきのこが、杉の木のあたりに出てきました。
味噌汁に入れたと思います。

柿の木が一本、『きざわし』でした。
きざわし、とは、聞いたことがありますか?
さわさなくても、木になったままで甘い柿です。
さわす、とは渋を抜くことです。
そのシャキシャキとした歯触り、黒いゴマの斑が入っていて。


友達から 送られてきた横浜のおじいちゃんの庭の柿の実を
頂きました。
これがきざわし! 大石田以来初めてです。
しかも大きくて立派で甘みも十分、
最上川岸のきざわしは甘みはそんなでもありませんでした。


芋名月と栗名月があり、川岸にススキを取りに行きました。
芋は山形ですから里芋です。それを塩ゆでにしたのを盆にのせて
ひさしにお供えするのです。私は里芋の塩煮が妙に好きです。

9月には、芋煮会、これは学校行事で町はずれの下川原まで歩いていきます。
遠く感じました。
材料、薪、鍋はクラスごとに手分けして持って行ったと思います。

小学4年の時かな、自分の思っていたことと違っていたので。
芋煮会で癇癪を起したことがありました。



西には黒滝山、そのかなたに鳥海山、南には甑岳、南西に大高根山、その奥に月山、
出羽の国はそのほとんどが最上川の流域です。

川端部落の最上川の川岸に座って
秋の光の中でひななぼっこをしているシーンを
思い描いてあたたかな懐かしい気持ちになります。
今では堤防の真下になっています。

ざっとこんな感じでした。




『揺るぐことのないホームベース』

836/10000 2021 08 20
毎週木曜日は、◆子どもらに寄せて 
次の世代とわかちあいたいと願われることが浮かんでくるトシとなりました。
そのことをあらためてメモ書きしていきます。あい間に私の来し方、自分史も入れます。


生きていることの中身を表にまとめた この表を見ながら、
子どもたちに伝えたいことをメモ書きしています。

今日は、ちょっと飛びまして、
コミュニケーションのうち、大切なことをお話ししましょう。
今読んでいるこの本の中で、大きくうなづいたところがあったからです。
ホットなうちにお伝えしますね。

戦後民主主義時代の空気だけでは間に合わない時代に宮台さんが迫ります。

『仕事は仕事と割り切った上で、「願望水準」(自分が心の奥底で何を望んでいるのか)に支えられた入れかえ不可能な人間関係を作り、それを、君が君にもどることができるホームベースにしよう。そういうホームベースがあれば、仕事が期待外れだったり仕事で失敗しても、大したことじゃなくなるだろう。』(ゴチック体は私)

そう、ソウルメイト=親友や、心の師、それに家族が入ることもあるでしょう、
「入れ変え不可能で、なにをやっても誤解曲解、嫉妬されることなく、評価が下がることのないホームベース」が、あなたにはあるかしら?


 わが一族のひとり孫姫にはどうかこのホームベースをもってくれるようにと、婆は密かに祈っています。私はおかげさまで恵まれました。
 山形から東京に出て、4年の間に1人の師と、一生かけても絶対に追いつくことのできない人に出会えたのです。そう、骨董屋の小僧には本物しか見せない、そのような出会いです。
 かれこれ40年来の友達が1人、30年以上が2人、SNSを通じて去年出会った会ったことのない人が1人います。欠点も何も気になりません。
 東京時代に出会った同時代できたなかまたちもそうです。
 今では、父と母、6人の兄弟のうちには疎遠になってしまったひともいるけれど、やっぱりホームであったとしみじみとする年齢になりました。

 混乱してへっ込み、疲労困憊、心痛に身体の不調、なにがあろうと、私には帰る場所があったのです、それが心の、であるとしても。
 判断力、俯瞰力、人を見る目、乗り越えて生き続けようとする生命力を、このホームベースから与えられ続けているのです。
 私が私にもどることができるホームベースです。


 あなたにも、このホームベースがありますように。
 孫姫とお若い方々にはよい出会いがあるようにと心から祈っています。
 

駅北の舗道の大きな鉢の植え込みにて。
名前?っです。



『健康に気をつけよう!~③』

800/10000 2021 07 15
毎週木曜日は、◆子どもらに寄せて 
子どもたちがまっとうな人生を送ることができますように!
この願いを込めて 次の世代とわかちあいたいと願われることが浮かんでくるトシとなりました。そのことをあらためてメモ書きしていきます。合い間に私の来し方、自分史も入れます。

今日は、
私が如何にして健康に気をつけるようになったか?
を振り返ってみますね。前にも書いたような気がします。


すこやかでいることができるように、
誰でも願いは同じですよね。


私がこのことに本気になったのは
1972年にマクロビオティックを通じて「食養」に出会ったときからです。
この出会いは私の人生を変えました。
よくキレていたのにキレようにもキレることができなくなったのです。
食べ物と心身は一体であることを悟りました。
桜沢如一先生の直弟子のおひとりの佐々井譲先生には細かいコツまで教えて頂きました。
夢中で学び、台所にあるものでなおすようになりました。
2人の息子は、長男は生後間もなくいのちを取り留めてもらって以来、殆ど医者にかかったことがありません。
整体治療も、八光流鍼灸指圧の神業治療師、木村翁助先生にに出会うことができました。


県庁所在地に引っ越した1960年までは、ほとんどの家庭ではよほどのことがない限り医者には行くことはなかったのです。富山の薬と、ゲンノショウコ、ドクダミなどでお母さんがなおしてくれました。


だからと言ってその後順風満帆だったわけではなく大小の失敗に学んで来ました。
更年期に、これまでの経験とノウハウが全く効かなくなったときには、
総合栄養療法に出会わせてもらい、山本真吉博士の講座に8年半札幌まで通いました。
この春絶不調に陥ったときには、ダルビッシュ投手の動画を通して日野重明先生の背骨コンディショニングに出会うことができました。



困ったときに出会いを用意してくれているのは 天国で見守って下さっている先生方に違いない、感謝しなければなりません。


このように数々の出会いに恵まれて74歳迄来ることができました。
現今のこの国の医療体制がすぐに変わるとは予想できません。
現代病院と自然療法の両方からいいとこ取りして
なるべく元気でやっていきたいものですね。


72歳過ぎから、遅ればせながら「老い」を実感するようになって
健康100%を目的にしなくていいと悟りを深めております。


魂の住処である身体を大切に」
「天からの預かりものである身体を大切に」

この言葉が今 少しづつ必要になってきているのを感じています。


以上、私の健康との出会い史のメモでした。
来週は、「健康の家」を見ながら、
これまでやってきてよかったことをリストアップしていきますね。
お役に立ちますように、お楽しみに!



中央公園のシロツメクサです。木立の中で太極拳をしますと澄んだ空気の中に幾種類もの鳥の声がしてきます。