『清水平便り~『須貝アキラ 追悼集』より』

1386/10000  月暦3月26日 太陽暦5/4(土)



「私たちが信州の清水平にいたとき(1977~85年)獏原人村、大鹿村、小谷村などと、山人同士でひんぱんに行き来しあった。
 そんな冬前のある日、清水平の小さな谷に、アキラとシャイアンが大鋸担いで現れた。ヒッチで来てくれたか、軽トラだったか、ヒッチだったような気がする。そして一冬分の薪を切って帰って行った。囲炉裏で玄米を炊いて清水平の野草山菜でうまい飯を食べた、と思う。
清水平の山と川の谷の中に、今もその時のアキラとシャイアンの姿がはっきりとと見える。
 このシーンは、私の生きるよすがの一つなのです」



 ここに引っ越してからの13年分の片付けを始めたところ 早速出てきた清水平の資料が3冊、そのうちの一冊、『足に土 原人・アキラ 須貝 アキラ 追悼集』1998年「人間家族編集室」刊)から、私が寄せた「大鹿の空にあまねくなったアキラよ」から清水平関連を中心に抜き書きしてみます。


 「昭和35年ー高度経済成長政策本格化、60年安保闘争、三井三池闘争。1965年アメリカ軍
ベトナムに北爆開始∼ベトナム反戦と大学闘争の60年代後半。
 5年かかって大学を卒業後、フツーの就職をする気のなかった私は、リュックひとつで当時高田馬場の線路沿いにあった「ヤマギシ会」の案内所をたよって東京に出た。1971年暮のこと。
 当時、岸田哲ちゃんたちが「キブツ協会」をやっており、神宮前の事務所で「コミューンの会」が定期的に行われていた。(中略)
 60年代後半の空気がまだたくさんあって、金銭経済至上主義社会の歯車の部品として生きるのではなくて、全身でいのちまるごとで生きることを求め、模索する者たちが磁石のように引き合って、期せずして「人間家族」が自然発生していった。(中略)

 私たちにはごく当たり前のそして不思議な縁。自在闊達な中世の血と遺伝子の濃いもの同士か?いずれにせよとてもラッキーな同時代体験だった。日常の生活の中で見え隠れしながら、変わらずにフレッシュ、エネルギーの源泉となっている。70年代の10年から80年代にかけてバカバッカシ沢山やった。(今でもそれほど変わらないか)めいっぱい初めっから、教科書なしに不器用に経験体験を共にしあった。ホント、ラッキーだったよね。一歩過酷な試練に耐えられなかったなかまもいたことを忘れない。


「アキラのおかげだね」「アキラがみんなをあわせてくれてるね」「もうこんなに一堂に会することないよね」 (中略)地元、大鹿のみんなの、アキラを送る気持ちがひしひしと伝わってくる。
 大勢の子どもたちがうれしい、頼もしい。(すっかりババ気分)
  🎶はなればなれにならず はなばなをまなび はなばなのみちを
   よそおいかるく あるいていけよ🎶
うちの太郎と二郎も忘れないでね。太郎の二郎も、アキラの野菜をもりもりべて食べて大きくなったのです。二郎がおなかにいるとき、南瓜やいろいろ何十㌔も大鹿から送ってくれて、清水平の入り口から担いで家に運んだ。身重の私がかついだことも気遣ってくれたアキラを思いだしてまたうるうる。
 みんな髪に白いものが混じっている。心の中にはしっかりと原石が座っている。はじめて会った頃と少しも変わっていない。キリキリイライラカリカリ、神経戦に憂き身をやつしていたころがなつかしい、トシの功、トキのチカラ、角が取れはじめているかな。
「まだまだこれからだ」電話口の向こうで。アキラの声が静かに落ち着いていて頼もしい。病の床に臥す少し前のこと。」



 それにしてもこのアキラの追悼集はすごい!1970年から28年、追悼文をよせたなかまの多くが50歳前後の働き盛り、以来26年が経つ。よくぞ編集発行してくれたものだと唸ります。当時の息吹き、年月ともに世事のなかで忘れそうになる初心が鮮やかに、当時よりも深くシブく蘇ってきます。
『うむ・はぐくむ・わかちあう』この三つのことばを与えてくれた清水平のことを、今あらためて書きとどめておこうとするとき、新たに手に出来たこの追悼集の力の大きさはなかなか言葉にしきれないものがあります。
 昔語りではなく、いまとこれからの時代に、次の世代をともに考え合い、行動し合うことを念頭に書いてみます。


『祝・憲法記念日~希望を数える』

1385/10000  月暦3月25日 太陽暦5/3(金)

今日は憲法記念日である。
政府は憲法制定当初の数年間、憲法記念日に式典を挙行してきたが「すでに国民の心の中に充分に浸透・定着していると考えられる」として政府としての式典をやらなくなって久しい。
日本国憲法の3原則、主権在民、基本的人権の尊重、平和主義の三原則は国をしばり、私達主権者の安全の後ろ盾となっているべきものであるけれど、このところの加速度的にひどさを増している暴力的な憲法の破壊活動は留まるところを知らず私達主権者もそれをやめさせる力を十分には結集できていない。

 でもこんな品も気骨もまっとうな誇りもない方々が当たり前だと、子供たちに感じさせてはならない。だからあくまで希望情報にアンテナを立てている。

+ 先日の国政補欠選挙では、3つともまずまず立憲野党候補が圧勝
+ 日米合同員会会場のビルの前で対米自立のアピール行動が始まっている
+国会前では若い女性を中心とした人々が定期アクションを始めている
+コロナとワクチンの実態が広汎に知られるようになり集会、デモには万単位で終結
+2015年夏以来この列島各地で「安保法制は違憲」の抗議行動が続いている
+戦後民主主義世代の限界を突き抜けるダイナミックでユーモア、ゆとりある表現が
あちこちで出現
+オリライの楾弁護士は身体を張って全国をかけまわっている
+鈴木宣弘教授は、この国の食糧危機を訴えて連日列島中を飛び回っている
+「日本中学生新聞」の川中だいじさんは中学2年生
+当地、十勝選出の石川香織衆議院議員は頼もしい。政治の話がとても分かりやすくて
気さくなお人柄
+大中小の憲法の学習会が各地で継続されている
+映画会、講演会、学習会が引きも切らず開催されている
+江戸時代、明治維新から歴史をとらえ直す研究が出てきた
+地産地消、農家直営の野菜販売、レストランが増えていてどこもおいしい
+ネガティヴ情報の陰で、現場の前線でがんばっている人がたくさんいる
 ・外国人労働者の人権をまもる活動家 ・働きやすい職場になるためのコミュニケーション専門家 ・教師をまもる専門家 ・介護の現場を楽しくしようとしている専門家 ・中小企業を元気にとがんばっている士業の方々
+ + +

 尊敬する経営コンサルタントの先生が言っておられた「高度経済成長後にこの国が失ったものを取り戻すには千年かかるだろう」と。世代をつないでリレーしていきたい。使えるべきものを伝えたい。
 アヤしい情報、危険な情報もネットには花盛りというか跋扈しているというか。骨のある歴史をとらえかえして、平和的生存権をなんとしてもまもりたい。戦争だけはなんとしても止めねば。できることが少なくてもどかしいけれど、小さくても行動をやめることが出来ない。諦めることができない。
 この列島ではほおっておけばどこにでも草が生える、この生命力がこの国にはある。大きく見える瘡蓋を突き破ってツンツンと新芽が萌え出てくると信じたい。その環境、生かしてくれている自然~海、山、大地の破壊は今止めなければ取り返しがつかないことになると気があせる。(特に、樹木伐採、太陽光発電パネル、大規模風力発電、リニアモーターカー工事)
 
 素晴らしい日本国憲法がまもられるように、戦争をすることがないように、戦争に巻き込まれることがないように、その判断と選択ができる主権者が増えるようにと心から祈り願っています。
 ㈷ 憲法記念日


『日々無心~映画「PERFECT DAYS」』 

1384/10000  月暦3月17日 太陽暦4/25(木)

今日見てきた映画『PERFECT DAYS』、
やるもんだ、と深く静かな感動を胸に帰って来ました。
もう見ましたか?帯広は今日が最終日、結構入ってました。

主人公の平山さんは、ひとり暮らしの男性で公衆便所の掃除が仕事です。
毎日のルーティン・ワークが決まっていて、それを毎日淡々とこなし、
仕事のトイレの掃除は丁寧、
好きな音楽のカセット・テープの取り扱いも丁寧、
口数は極端に少なく、必要最小限のことしか口に出しません。

朝外に出るとまず空を見上げてかすかな笑みが浮かびます。
仕事の途中、植栽された木から落ちた実生の今年芽を出した木を
目ざとく見つけてかねて用意した折り紙の箱にそっと移して
家に帰ると湯呑みの植木鉢にそっと移植します。毎日霧吹きを欠かしません。
プラスチックのポットではない陶器の器に小さな木が、いくつも育てられています。

銭湯で汗を流してリラックス、
行きつけの気の置けない店が数件、
なじみの古本屋で幸田文さんの『木』を買う

複雑でややこしい人間関係はナシ
ピンと来ない、消耗させられる人からは離れる

平山さんの暮らしは、民間禅寺、民間修道院のようです。
しかし住んでいるのは
東京の繁栄からは程遠い古い木造アパート です。

シンプルです。
カウンセラーもコーチも不要。
ああ、これだな、と何か蘇ってくるものがあります。
頭を使った過剰な言葉がない、
ほっとしました。
どうということない日々の暮らし
その一コマ一コマを丁寧に坦々と暮らす、
無心であることが返って多くを物語っている。
溢れかえる情報の洪水に足を取られ 知らず知らずのうちに、
思い、期待、意欲が
過剰になっていたのではないか、複雑にしていたのではないかと
わが身をふり返りました。



⤵ かわいいスコップ。100円ショップでゲット。
このピンク、息子の嫁さんのお気に入りです。

『「清水平便り」予告編』

1383/10000  月暦3月16日 太陽暦4/24(水)

このたび、30代の8年半暮らした信州の清水平での暮らしを
あらためて振り返り書き留めることにしました。
電気ガス水道ナシで二人の息子を育て、
清水平の地母神に与えられた三つの言葉
うむ・はぐくむ・わかちあう
が私の生きる 動かない軸となりました。


どんなことが聞きたいですか?
どんなことが知りたいですか?

アウトラインをもう一度思案しています。

水道がなかったら、はどうしていたのか?
電気がなかったら、灯りはどうしていたのか?
ガスがなかったら燃料はどうしていたのか?
暖房は?寒なかったの?はい、寒かったです。

食べものはどうしていたのか?
自給自足していたのか? とてもとてもそこまでは。

ひとりだったの?パートナーは?メンバーは?
コミュニケーションはOKだったのか?

経営、お金はどうしていたのか?

村の人とはどんな感じだったのか?
はい、たいへん親切にしてもらいました。


どんな動物、鳥、虫がいたの?
どんなが咲いてどんなが生えていたの?
清水平の位置は?地形は?


どうして清水平に入ったのか?
時代 1965~75
その結果は?
何が面白かったのか?
課題は?今ならどうするか?


などなど、書いているうちに新たな意味が見 えてきたり
忘れていことが思い出されてきたりするのでは、
と未知の場所に入り込む、
あらたにもう一度生きる そんな感じもします。
そんな感じもします。

いずれにせよ じっくり振り返りたい、
振り返る時期が来ているようです。
コツコツ書いていきますね。



あなたの自分史も書いてみませんか?
上手下手、気にしないで、
手もと足もとから。

意外とイケてたじゃない!ときっと
自分のがんばりに拍手したくなりますよ。

2019年11月キッズコース作文 | 学童教室・高校受験 | イルム元町スクール | 横浜市中区元町/石川町の高校受験進学塾・学童教室






『タイマー君は相棒』

1382/10000  月暦3月15日 太陽暦4/23(火)

当地、北海道は十勝地方帯広では、
早い木は、サクラがほぼ満開、ウメは三分咲き、モモは咲き始め、
レンギョウが満開、春はやっぱりいいですね。

さて、こんなことはありませんか?
✖ やりたいことがあるのに先延ばししてしまう
✖ やらなくてはならないのに取り掛かるのがおっくう
✖ 先延ばしを続ける自分がイヤになる



ここで、おしみなく公表します!


そんなときには、
これさえあれば、一気に解決!
それが、タイマー君です!

ありますか、タイマー君、
スマホにも。パソコンにもついているんですってね。
うちはアナログ、タニタさんのタイマーです。

★ やらなくてはならないのに取り掛かるのがおっくう
あるある こんな時には、
タイマー君を5分にセット
とにかく5分はやってしまいましょう。
ウッカリ、もっとやりたくなってしまったら、
タイマー君を何分かにセット、一休みして続けましょう。

タイマー君を25分にセット
25分過ぎたら一休み、集中力の限界です。
これは、どの仕事でも共通ですよ。
25分過ぎたら一休み、
タイマー君をセットして。

一休みするときもタイマー君をセット、SNSサーフィン、あっという間に30分とか経ってしまいますからね。

★頭脳労働と、身体を使う仕事は交互に。
掃除、ガーデニング、ストレッチ、それに
なんといっても台所仕事は最高に整えてくれますよ。
(私は台所仕事が大好き、つい長居してしまうのが
悩みの種でした。明日からはタイマー君を

25分ニセっとして)


さあ、タイマー君を相棒に
時間の使い方の悩みから解放されましょう。
5分ごとに
25分ごとに
自己達成を目の当りにしたら
どんな気持ちがするでしょうか?
お話聞かせて下さいな。

(今日師匠に教えて頂いたことのお裾分けでした)




⤵ 木の芽の写真がうまく撮れたら本望です。

『ウルシと沢蟹~清水平便り~①』

1382/10000  月暦3月14日 太陽暦4/22(月)

今日は,「清水平便り」の一回目、
漆負けには沢蟹、のエピソードを紹介しましょう。

清水平は、信州のほぼ中部、松本と長野の間、犀川から入った山襞の中に一軒家でした。
そこで30代の8年半を暮らし二人の息子を育てました。電気ガス水道無し、これも私たちの前の世代の婆様方には当たり前でそれしかなかったのです。

清水平に行く道は、一雨降ると山が崩れ車が通らなくなることがしょっちゅうありました。
車道から5分くらいかな、そこは歩きになります。
ある年、その歩道の山が崩れて道がが塞がれて、距離にすれば短いのですが道の上の木立の中を通ることになりました。道なき道を木をつかみながら歩を進めるとき、つかんだ木がなんと新緑のウルシの木でした。かぶれました。顔、身体の軟らかい部分、かゆいかゆい。
あれこれやってみました、一か月近く(だったと思う)。
ふと東条百合子さんの『家庭でできる自然療法』を紐解くと、そこに
「エビカニをつぶしてその汁をつけてもよい」とあるではありませんか!
清水平の畑には沢蟹が棲息していたのです。そのとき滞在していた花巻のもっちゃんが早速
捕獲にいってくれて、やってみました。とれたてをすり鉢で潰して患部につけたところ、
霊験あらたか、使用前使用後、みるみるうちにおさまってしまいました。

以来免疫ができたのではと判断していたのですが、なんとこのたび銀杏にかぶれたようです。
1000個はあった銀杏の実の皮はガーデニング用の手袋を履いてやったから、大丈夫と油断しました。あらなんかヘン、顔が脹れてきた、細かい目に見えない汁のせいだろうか・・・皮をむいて干して一安心、一日6~8個くらい三日連続で食べた、とてもおいしかった、これのせいじゃないかな・・検索すると、


ギンナンの種皮、銀杏の葉に含まれるビロボールやギンゴール酸、マンゴーに含まれるマンゴールなどのレゾルシノール誘導体と呼ばれるものとウルシに含まれるウルシオールの交差反応性(共通してアレルギー反応を起こす)によるものです。

そうか、銀杏小さなバケツひとつ、量も多かったしな、ウルシもマンゴーも触れないように、とあります。触れただけでもダメなのか、そういえば手袋が薄くなってたし。
で、沢蟹販売を検索するとありました。冷凍です。この顔がいつまで続くかわからないのもゆるくない、到着は3日後です、エビでもよかったかな。ビワの葉、栗の葉、松葉もいいそうでこれからビワの葉を煎じて明日は松葉をゲットしてきます。今年の秋はイチョウの実は敬遠になりそう。

とうわけで、「清水平便り」の一回目は、ウルシと沢蟹でした。

⤵ この3倍はありました。量も多かったしな。拾ったときは何とももなかったのに。

『コブシが咲き年』

1381/10000  月暦3月13日 太陽暦4/21(日)

おはようございます。
しばらく前から何時に寝ても4時前後に目が覚めます。
そのかわり昼寝もちょこちょこです。

今年はコブシが咲き年、去年はしょぼしょぼでした。
コレクションしました。

⤵ @ 駅のバスターミナル、一足早く散り始めています。

⤵ @永祥寺様 大木です。

⤵ @河南公園

⤵近所の温泉への途中のお屋敷で借景させて頂きました。

⤵ 近所で借景させて頂きました。毎年楽しみにしています。今年はたわわ満々開々。

コブシといえば、思い出すのは、ウロカのコブシです。
いまれ育った大石田町、川端部落の南側の隣がウロカ(△の下に加、だったと思う)の広大なお屋敷で、高い板塀に囲まれていました。その塀の上から高いコブシの木が見えて、散った花びらをふくらませて遊びました。さだんきょ(すもも)の季節になると、塀越しに「さだんきょ、けでけらっしゃい!(下さい)」と大きな声を張り上げたものです。

山形の出羽丘陵、最高峰白鷹山付近いっぱいのコブシの花、
信州の清水平の前面の岩殿山丘陵(仮称)に行ってきたなかまが、全山のコブシに酔って帰って来たことがありました、遠目にもたくさんのコブシの白が見えていたようなおぼろげな記憶があります。

【女3人、新たなステージに向かう】

1380/10000  月暦3月12日 太陽暦4/20(土)

おとといの18日に、女3人、ようやく会うことが出来ました。この冬ずっと「会いたいね」と連絡しあっていたのです。リアルで会えるのはやっぱりいいですね。

午後パソコンの前でなんだかパワーダウンしていたら
アグネスから電話が!「来ない?今ミントカフェよ、和さん(わこさん)の展覧会場」
これ幸いと自転車で外へ。

「森の案内人」アグネス、今日はプロフィール写真の撮影日とてガッツリキメテます。
災害援助のプロとして故やんじーと一緒に3.11 のあとは毎月南三陸町まで、その後熊本へも駆けつけました。今は、森住まい、オンラインで「森の案内人」を仕事として、この冬マッサージ師の資格もとった(のかな)逞しい。

いつも着物姿、茶道のベテランの和さん。今日はめずらしく洋服姿で、アナザー・サイドのお仕事、絵画教室の大人の部が始まったのです。先週はお子たちの部で大賑わいでした。
「すごくなくていいのよ、」 ふだん流れてしまいがちな思い、心に湧いてくることが解放される場、なんですね。それがふだんの暮らしをそっと豊かにしてくれるんだろうな、展覧会をみんなでつくるのも盛り上がりますよね。

ミントカフェさんのココアは、濃くて今日もとっても美味しい。
アグネスにプロフィール写真撮影の情報他、自身を活かしてお客さまに貢献するビジネスのこれまで、今、これからの情報を交換して頷きあい励まし合いました。

ギャラリーに戻ると、店主さんが、ディスプレーの改善工事をやって下さっているところでした。演劇の舞台にかかわっておられるので見かねたのでしょうか。これで絵画教室のメンバーさんのきめ細かなドールハウスが場所を得て来場の方にぐっと楽しんでもらえるようになりました。

ふたりとは長い付き合いになります、それぞれ新しいステージに挑戦している女3人、和さんの展覧会が終わったらご苦労さん会をやりましょう、と別れました。一人暮らしの限界に素直になって人恋しくなっていたところに声をかけてもらって地元にも基地を得た感じ、相談しながらがんばろうと一安心な春です。
 それから、一年後の東京でのソメイヨシノの花見、着物姿でくりだすことになっている、に備えて和さんがサポートして下さることになりました。

『結城登美雄さんと新たに出会う』

1380/10000  月暦3月1Ⅰ日 太陽暦4/19(金)

 山形のタマキさんが、 結城登美雄さんの 最新の新聞記事を送ってくれました。拝読して結城さんと新たに出会う思いです。
 結城さんのことは下段の新聞記事とWikipediaの紹介をご覧下さいませ。
 先になりますけれど 結城さんとのことで思い出すことをメモしておきます。まさに蛇足ですけれど。
 結城さんは私の誇る友人の筆頭なのです。

 結城さんとは山形大学の同窓で結城さんは国文科、私は史学科でした。結城さんは働いてから大学に入ったので先輩で、文学がほんとに好きでした。深い話がまだできない若かった私でした。封鎖されていた大学が再開してもまだ蔵王の山小屋にいる私を心配して同級生数人で迎えに来てくれたことがああります。でも私は下山せずに冬を迎えるまでいました。

 卒業後 食養に出会い人生が一変して断食をする場所を探して、結城さんに頼み込んで左沢(大江町)のご自宅にお世話になりました。お家と田代部落の由来をこの記事で知ることができました。

 その後北海道に渡り、無農薬八百屋をしていた時、入荷した野菜の間に入っていた新聞紙に
執筆者、結城登美雄さんのお名前がありました。

生まれ故郷の大石田町の雛人形の記事でした。子どもの頃月歴の3月節句になると、子供たちが一団となって「おひなさま、みせでけらっしゃい(見せて下さい」とお屋敷を回って豪華な雛壇飾りを見せてもらいに回るのでした。各家ではお菓子を用意して子どもたちを待っていてくれたものです。今 山形県のあちこちで雛人形を文化財として保存して後世に伝える取り組みが行われていることを先日の山形行で知りました。

 その後農文協さんの『現代農業』誌でたびたび拝見、地元学+実践者の創始者のひとりとしてご活躍であることを遠目に見てたのもしく思っておりました。
 一年前、山形~宮城を訪問させて頂いた折、タマキさんが結城さんのご自宅に連れていってくれて「関根さん」、美枝子さんと共に50数年ぶりに再会することができました。
 お目のこともあり、何冊も頼まれている本もすべて断っていると、資料に囲まれた書斎で語ってくれました。しかし烈々たる思いはそのままででした。
 結城さんの志にいたく感銘共振してこれを受け継がねば、と地道に活動を続けようとしている後続のお若い方々とも会わせてもらいました。

 ほぼ同じ時代に生まれ育ったとは言え、結城さんと田代部落の歴史にはとてもかないません。山も畑もたんぼも人もはるかに野生と生命力旺盛、ご苦労は足元にも及ばず、私はまだまだ街場育ちで親兄弟地域共同体に守られて育っています。
 太平洋戦争体験者の先輩方に続いて、私達高度経済成長以前の世の中を知っている世代の私たちももまもなくあの世へ引っ越すことになります。 高度経済成長以前の世の中 のいいとこどりをして子供たちに伝えたいものだと企画をあたためています。
 結城さんには是非巻頭言をお願いしたいものです。
 叔父上様の田代部落のご本『おらだの村 田代』も読ませて頂ければと願われます。

 タマキさん、結城さんの記事の続きもよろしくお願いします。

以下、Wikipediaから貼ります。

結城 登美雄 (ゆうき とみお、1945年 – )は、地元学プロデューサー。東北地方の農村に深くかかわり、2011年の3・11東日本大震災後は、その復興に東奔西走した[1]宮城教育大学非常勤講師も務めた。2004年には芸術選奨文部科学大臣賞(芸術振興部門)を受賞した。地元学プロデュ―サーという概念も次第に広く研究され、受け入れられ始めている[2]

概略

1945年、旧満洲国に生まれたが、戦後帰国し、母の実家が有る山形県大江町で育つ。ふるさとの田代集落は、標高450mの山あいに9軒の家があったが、昭和30年代、60人ほどあった人口が、30数年前(1970~80年代)村人は家を挙げて離村し、山を下りた。毎冬雪2m、少ない田と空しい林業、自給の作物とたばこなどの換金作物で生計を立てる、貧乏村というのだろうが、みんな一所懸命働いて、いつも笑顔があった[3][4]という。山形大学を卒業後、広告デザイン業界に入り、(有)タス・デザイン室取締役。民俗研究家となる。東北の農山漁村をフィールドワーク。住民を主体にした地元学を提唱した。宮城県旧宮崎町の「食の文化祭」、旧北上町での「宮城食育の里づくり」などに関わり、旧鳴子町「鳴子の米プロジェクト」にも深く関わった。[5]

地元学について、提唱者結城は、「地元学」とは、異なる人びとの、それぞれの思いや考えを持ち寄る場をつくることを第一のテーマとする、としている。理念の正当性を主張したり、押しつけるのではなく、たとえわずらわしくとも、ぐずぐずとさまざまな人びとと考え方につき合うことが大切だとする。暮らしの現場はすぐに変わることはなく、ぐずぐずと変わっていく、と表現する。地元学は理念や抽象ではなく、地元に寄り添う具体の学である、とする[6]

森千鶴子は、こう述べる。「地元学には、民俗研究家であり、地域プロデューサーである結城の「地域観」が中心にある。改めて、氏の半生をたどることにより、地元学成立の思想と背景をあきらかにする。山形県で過ごした幼少期の、挙家離村の体験が、「中央」と「地方」という地域観に対抗するまなざしにつながっていること、学生時代に、1960年代の農民大学運動を牽引した真壁仁との出会いがあり、「地域が住民の自治を本則とする生活と文化の空間であり、民衆自身が、歴史の書き手、語り手となる」という真壁の思想が、地元学の根底を流れていることが明らかとなった。」

『「清水平」での暮らしを書きとめる』

1379/10000  月暦3月10日 太陽暦4/18(木)


このたび原点回帰しまして、
私の原点、清水平での暮らしをあらためて書きとめることにしました。
30代の8年半、私達は清水平で電気ガス水道ナシで暮らし、二人の息子を育てました。
ここ、清水平の地母神から与えられたのは
『うむ・はぐくむ・わかちあう』この三つの言葉でした。
清水平を離れてからの道筋は、ここでこう感受されたたことを現実社会でどう応用して問題を解くか、となりました。
まだ、その途上で成果といえば、なんとか社会人としてまずまず健康にやってくれている二人の息子でしょうか。
現実社会での応用問題を解く、この課題は今第2ステージに入っており、このタイミングで記録しておくことで、応用に備えたいと思います。


清水平は、長野県の松本と長野の間に位置する、信濃川の支流、犀川沿いの生坂村の山襞の中にあります。
国道から約4キロ、県道から3キロくらいだったかな、生坂丘陵(仮称)から発する川が蛇行するその内側にある一軒家です。
東南面に山が迫り冬はあっという間に日差しがなくなる、そんな土地でした。
詳しくは後ほど書きますね。

今日 下の息子がデジタル保存してくれている写真のファイルを私のパソコンに移してくれました。そのさなかでLIVEしていたときよりも鮮やかに、瑞々しく懐かしく蘇ってくるものがありました。いずれ記事の中に写真も入れますね。

長野県の地図 - MapFan


何を書きましょうか。
・暮らしの様子
 火 灯り 水 畑 台所 風呂
・二人の息子の出産と育児
・息子たちの父ちゃんのこと
・共同体
 コミュニケーションとディスコミュニケーション
・親切な隣人 池田さん 日向のおばさん
・時代 1965~1975
 なぜ私たちは過疎地に入っていったのか
・原初の力について 
 NATIVE JAPONECIAN ネットワーク
・エピソードいくつか
・うむ・はぐくむ・わかちあう
 消費脳から生産脳へ
 今とこれからに向けて

こんなところでしょうか。トシを重ねたことによってサラリと語れるようになった
ことも含むことになりそうです。
Kindle出版の第一作として、テーマは清水平になりました。私の人生の原点です。
250枚として、一日5枚で50日、夏至の頃に完成を目指します。


11年後、88歳の私は、里山コミュニティの中にある「新清水平」の縁側で、子供たちと共に
日本古典文学の音読教室をやっています。ここでは焚火ができて、畑、田んぼ、山仕事があり
水は天水を取り井戸から汲む、それまで願わくは、なるべく穏やかにソフトランディングで時代が進みますように。この祈りを込めて、「原初の力」を思い出しつつ
新たな発見が言葉になるのを期待して書いてみます。


⤵ 1977年9月末 清水平の縁側で