『結城登美雄さんと新たに出会う』

1380/10000  月暦3月1Ⅰ日 太陽暦4/19(金)

 山形のタマキさんが、 結城登美雄さんの 最新の新聞記事を送ってくれました。拝読して結城さんと新たに出会う思いです。
 結城さんのことは下段の新聞記事とWikipediaの紹介をご覧下さいませ。
 先になりますけれど 結城さんとのことで思い出すことをメモしておきます。まさに蛇足ですけれど。
 結城さんは私の誇る友人の筆頭なのです。

 結城さんとは山形大学の同窓で結城さんは国文科、私は史学科でした。結城さんは働いてから大学に入ったので先輩で、文学がほんとに好きでした。深い話がまだできない若かった私でした。封鎖されていた大学が再開してもまだ蔵王の山小屋にいる私を心配して同級生数人で迎えに来てくれたことがああります。でも私は下山せずに冬を迎えるまでいました。

 卒業後 食養に出会い人生が一変して断食をする場所を探して、結城さんに頼み込んで左沢(大江町)のご自宅にお世話になりました。お家と田代部落の由来をこの記事で知ることができました。

 その後北海道に渡り、無農薬八百屋をしていた時、入荷した野菜の間に入っていた新聞紙に
執筆者、結城登美雄さんのお名前がありました。

生まれ故郷の大石田町の雛人形の記事でした。子どもの頃月歴の3月節句になると、子供たちが一団となって「おひなさま、みせでけらっしゃい(見せて下さい」とお屋敷を回って豪華な雛壇飾りを見せてもらいに回るのでした。各家ではお菓子を用意して子どもたちを待っていてくれたものです。今 山形県のあちこちで雛人形を文化財として保存して後世に伝える取り組みが行われていることを先日の山形行で知りました。

 その後農文協さんの『現代農業』誌でたびたび拝見、地元学+実践者の創始者のひとりとしてご活躍であることを遠目に見てたのもしく思っておりました。
 一年前、山形~宮城を訪問させて頂いた折、タマキさんが結城さんのご自宅に連れていってくれて「関根さん」、美枝子さんと共に50数年ぶりに再会することができました。
 お目のこともあり、何冊も頼まれている本もすべて断っていると、資料に囲まれた書斎で語ってくれました。しかし烈々たる思いはそのままででした。
 結城さんの志にいたく感銘共振してこれを受け継がねば、と地道に活動を続けようとしている後続のお若い方々とも会わせてもらいました。

 ほぼ同じ時代に生まれ育ったとは言え、結城さんと田代部落の歴史にはとてもかないません。山も畑もたんぼも人もはるかに野生と生命力旺盛、ご苦労は足元にも及ばず、私はまだまだ街場育ちで親兄弟地域共同体に守られて育っています。
 太平洋戦争体験者の先輩方に続いて、私達高度経済成長以前の世の中を知っている世代の私たちももまもなくあの世へ引っ越すことになります。 高度経済成長以前の世の中 のいいとこどりをして子供たちに伝えたいものだと企画をあたためています。
 結城さんには是非巻頭言をお願いしたいものです。
 叔父上様の田代部落のご本『おらだの村 田代』も読ませて頂ければと願われます。

 タマキさん、結城さんの記事の続きもよろしくお願いします。

以下、Wikipediaから貼ります。

結城 登美雄 (ゆうき とみお、1945年 – )は、地元学プロデューサー。東北地方の農村に深くかかわり、2011年の3・11東日本大震災後は、その復興に東奔西走した[1]宮城教育大学非常勤講師も務めた。2004年には芸術選奨文部科学大臣賞(芸術振興部門)を受賞した。地元学プロデュ―サーという概念も次第に広く研究され、受け入れられ始めている[2]

概略

1945年、旧満洲国に生まれたが、戦後帰国し、母の実家が有る山形県大江町で育つ。ふるさとの田代集落は、標高450mの山あいに9軒の家があったが、昭和30年代、60人ほどあった人口が、30数年前(1970~80年代)村人は家を挙げて離村し、山を下りた。毎冬雪2m、少ない田と空しい林業、自給の作物とたばこなどの換金作物で生計を立てる、貧乏村というのだろうが、みんな一所懸命働いて、いつも笑顔があった[3][4]という。山形大学を卒業後、広告デザイン業界に入り、(有)タス・デザイン室取締役。民俗研究家となる。東北の農山漁村をフィールドワーク。住民を主体にした地元学を提唱した。宮城県旧宮崎町の「食の文化祭」、旧北上町での「宮城食育の里づくり」などに関わり、旧鳴子町「鳴子の米プロジェクト」にも深く関わった。[5]

地元学について、提唱者結城は、「地元学」とは、異なる人びとの、それぞれの思いや考えを持ち寄る場をつくることを第一のテーマとする、としている。理念の正当性を主張したり、押しつけるのではなく、たとえわずらわしくとも、ぐずぐずとさまざまな人びとと考え方につき合うことが大切だとする。暮らしの現場はすぐに変わることはなく、ぐずぐずと変わっていく、と表現する。地元学は理念や抽象ではなく、地元に寄り添う具体の学である、とする[6]

森千鶴子は、こう述べる。「地元学には、民俗研究家であり、地域プロデューサーである結城の「地域観」が中心にある。改めて、氏の半生をたどることにより、地元学成立の思想と背景をあきらかにする。山形県で過ごした幼少期の、挙家離村の体験が、「中央」と「地方」という地域観に対抗するまなざしにつながっていること、学生時代に、1960年代の農民大学運動を牽引した真壁仁との出会いがあり、「地域が住民の自治を本則とする生活と文化の空間であり、民衆自身が、歴史の書き手、語り手となる」という真壁の思想が、地元学の根底を流れていることが明らかとなった。」