『清水平便り~『須貝アキラ 追悼集』より』

1386/10000  月暦3月26日 太陽暦5/4(土)



「私たちが信州の清水平にいたとき(1977~85年)獏原人村、大鹿村、小谷村などと、山人同士でひんぱんに行き来しあった。
 そんな冬前のある日、清水平の小さな谷に、アキラとシャイアンが大鋸担いで現れた。ヒッチで来てくれたか、軽トラだったか、ヒッチだったような気がする。そして一冬分の薪を切って帰って行った。囲炉裏で玄米を炊いて清水平の野草山菜でうまい飯を食べた、と思う。
清水平の山と川の谷の中に、今もその時のアキラとシャイアンの姿がはっきりとと見える。
 このシーンは、私の生きるよすがの一つなのです」



 ここに引っ越してからの13年分の片付けを始めたところ 早速出てきた清水平の資料が3冊、そのうちの一冊、『足に土 原人・アキラ 須貝 アキラ 追悼集』1998年「人間家族編集室」刊)から、私が寄せた「大鹿の空にあまねくなったアキラよ」から清水平関連を中心に抜き書きしてみます。


 「昭和35年ー高度経済成長政策本格化、60年安保闘争、三井三池闘争。1965年アメリカ軍
ベトナムに北爆開始∼ベトナム反戦と大学闘争の60年代後半。
 5年かかって大学を卒業後、フツーの就職をする気のなかった私は、リュックひとつで当時高田馬場の線路沿いにあった「ヤマギシ会」の案内所をたよって東京に出た。1971年暮のこと。
 当時、岸田哲ちゃんたちが「キブツ協会」をやっており、神宮前の事務所で「コミューンの会」が定期的に行われていた。(中略)
 60年代後半の空気がまだたくさんあって、金銭経済至上主義社会の歯車の部品として生きるのではなくて、全身でいのちまるごとで生きることを求め、模索する者たちが磁石のように引き合って、期せずして「人間家族」が自然発生していった。(中略)

 私たちにはごく当たり前のそして不思議な縁。自在闊達な中世の血と遺伝子の濃いもの同士か?いずれにせよとてもラッキーな同時代体験だった。日常の生活の中で見え隠れしながら、変わらずにフレッシュ、エネルギーの源泉となっている。70年代の10年から80年代にかけてバカバッカシ沢山やった。(今でもそれほど変わらないか)めいっぱい初めっから、教科書なしに不器用に経験体験を共にしあった。ホント、ラッキーだったよね。一歩過酷な試練に耐えられなかったなかまもいたことを忘れない。


「アキラのおかげだね」「アキラがみんなをあわせてくれてるね」「もうこんなに一堂に会することないよね」 (中略)地元、大鹿のみんなの、アキラを送る気持ちがひしひしと伝わってくる。
 大勢の子どもたちがうれしい、頼もしい。(すっかりババ気分)
  🎶はなればなれにならず はなばなをまなび はなばなのみちを
   よそおいかるく あるいていけよ🎶
うちの太郎と二郎も忘れないでね。太郎の二郎も、アキラの野菜をもりもりべて食べて大きくなったのです。二郎がおなかにいるとき、南瓜やいろいろ何十㌔も大鹿から送ってくれて、清水平の入り口から担いで家に運んだ。身重の私がかついだことも気遣ってくれたアキラを思いだしてまたうるうる。
 みんな髪に白いものが混じっている。心の中にはしっかりと原石が座っている。はじめて会った頃と少しも変わっていない。キリキリイライラカリカリ、神経戦に憂き身をやつしていたころがなつかしい、トシの功、トキのチカラ、角が取れはじめているかな。
「まだまだこれからだ」電話口の向こうで。アキラの声が静かに落ち着いていて頼もしい。病の床に臥す少し前のこと。」



 それにしてもこのアキラの追悼集はすごい!1970年から28年、追悼文をよせたなかまの多くが50歳前後の働き盛り、以来26年が経つ。よくぞ編集発行してくれたものだと唸ります。当時の息吹き、年月ともに世事のなかで忘れそうになる初心が鮮やかに、当時よりも深くシブく蘇ってきます。
『うむ・はぐくむ・わかちあう』この三つのことばを与えてくれた清水平のことを、今あらためて書きとどめておこうとするとき、新たに手に出来たこの追悼集の力の大きさはなかなか言葉にしきれないものがあります。
 昔語りではなく、いまとこれからの時代に、次の世代をともに考え合い、行動し合うことを念頭に書いてみます。


『「清水平便り」予告編』

1383/10000  月暦3月16日 太陽暦4/24(水)

このたび、30代の8年半暮らした信州の清水平での暮らしを
あらためて振り返り書き留めることにしました。
電気ガス水道ナシで二人の息子を育て、
清水平の地母神に与えられた三つの言葉
うむ・はぐくむ・わかちあう
が私の生きる 動かない軸となりました。


どんなことが聞きたいですか?
どんなことが知りたいですか?

アウトラインをもう一度思案しています。

水道がなかったら、はどうしていたのか?
電気がなかったら、灯りはどうしていたのか?
ガスがなかったら燃料はどうしていたのか?
暖房は?寒なかったの?はい、寒かったです。

食べものはどうしていたのか?
自給自足していたのか? とてもとてもそこまでは。

ひとりだったの?パートナーは?メンバーは?
コミュニケーションはOKだったのか?

経営、お金はどうしていたのか?

村の人とはどんな感じだったのか?
はい、たいへん親切にしてもらいました。


どんな動物、鳥、虫がいたの?
どんなが咲いてどんなが生えていたの?
清水平の位置は?地形は?


どうして清水平に入ったのか?
時代 1965~75
その結果は?
何が面白かったのか?
課題は?今ならどうするか?


などなど、書いているうちに新たな意味が見 えてきたり
忘れていことが思い出されてきたりするのでは、
と未知の場所に入り込む、
あらたにもう一度生きる そんな感じもします。
そんな感じもします。

いずれにせよ じっくり振り返りたい、
振り返る時期が来ているようです。
コツコツ書いていきますね。



あなたの自分史も書いてみませんか?
上手下手、気にしないで、
手もと足もとから。

意外とイケてたじゃない!ときっと
自分のがんばりに拍手したくなりますよ。

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『ウルシと沢蟹~清水平便り~①』

1382/10000  月暦3月14日 太陽暦4/22(月)

今日は,「清水平便り」の一回目、
漆負けには沢蟹、のエピソードを紹介しましょう。

清水平は、信州のほぼ中部、松本と長野の間、犀川から入った山襞の中に一軒家でした。
そこで30代の8年半を暮らし二人の息子を育てました。電気ガス水道無し、これも私たちの前の世代の婆様方には当たり前でそれしかなかったのです。

清水平に行く道は、一雨降ると山が崩れ車が通らなくなることがしょっちゅうありました。
車道から5分くらいかな、そこは歩きになります。
ある年、その歩道の山が崩れて道がが塞がれて、距離にすれば短いのですが道の上の木立の中を通ることになりました。道なき道を木をつかみながら歩を進めるとき、つかんだ木がなんと新緑のウルシの木でした。かぶれました。顔、身体の軟らかい部分、かゆいかゆい。
あれこれやってみました、一か月近く(だったと思う)。
ふと東条百合子さんの『家庭でできる自然療法』を紐解くと、そこに
「エビカニをつぶしてその汁をつけてもよい」とあるではありませんか!
清水平の畑には沢蟹が棲息していたのです。そのとき滞在していた花巻のもっちゃんが早速
捕獲にいってくれて、やってみました。とれたてをすり鉢で潰して患部につけたところ、
霊験あらたか、使用前使用後、みるみるうちにおさまってしまいました。

以来免疫ができたのではと判断していたのですが、なんとこのたび銀杏にかぶれたようです。
1000個はあった銀杏の実の皮はガーデニング用の手袋を履いてやったから、大丈夫と油断しました。あらなんかヘン、顔が脹れてきた、細かい目に見えない汁のせいだろうか・・・皮をむいて干して一安心、一日6~8個くらい三日連続で食べた、とてもおいしかった、これのせいじゃないかな・・検索すると、


ギンナンの種皮、銀杏の葉に含まれるビロボールやギンゴール酸、マンゴーに含まれるマンゴールなどのレゾルシノール誘導体と呼ばれるものとウルシに含まれるウルシオールの交差反応性(共通してアレルギー反応を起こす)によるものです。

そうか、銀杏小さなバケツひとつ、量も多かったしな、ウルシもマンゴーも触れないように、とあります。触れただけでもダメなのか、そういえば手袋が薄くなってたし。
で、沢蟹販売を検索するとありました。冷凍です。この顔がいつまで続くかわからないのもゆるくない、到着は3日後です、エビでもよかったかな。ビワの葉、栗の葉、松葉もいいそうでこれからビワの葉を煎じて明日は松葉をゲットしてきます。今年の秋はイチョウの実は敬遠になりそう。

とうわけで、「清水平便り」の一回目は、ウルシと沢蟹でした。

⤵ この3倍はありました。量も多かったしな。拾ったときは何とももなかったのに。

『結城登美雄さんと新たに出会う』

1380/10000  月暦3月1Ⅰ日 太陽暦4/19(金)

 山形のタマキさんが、 結城登美雄さんの 最新の新聞記事を送ってくれました。拝読して結城さんと新たに出会う思いです。
 結城さんのことは下段の新聞記事とWikipediaの紹介をご覧下さいませ。
 先になりますけれど 結城さんとのことで思い出すことをメモしておきます。まさに蛇足ですけれど。
 結城さんは私の誇る友人の筆頭なのです。

 結城さんとは山形大学の同窓で結城さんは国文科、私は史学科でした。結城さんは働いてから大学に入ったので先輩で、文学がほんとに好きでした。深い話がまだできない若かった私でした。封鎖されていた大学が再開してもまだ蔵王の山小屋にいる私を心配して同級生数人で迎えに来てくれたことがああります。でも私は下山せずに冬を迎えるまでいました。

 卒業後 食養に出会い人生が一変して断食をする場所を探して、結城さんに頼み込んで左沢(大江町)のご自宅にお世話になりました。お家と田代部落の由来をこの記事で知ることができました。

 その後北海道に渡り、無農薬八百屋をしていた時、入荷した野菜の間に入っていた新聞紙に
執筆者、結城登美雄さんのお名前がありました。

生まれ故郷の大石田町の雛人形の記事でした。子どもの頃月歴の3月節句になると、子供たちが一団となって「おひなさま、みせでけらっしゃい(見せて下さい」とお屋敷を回って豪華な雛壇飾りを見せてもらいに回るのでした。各家ではお菓子を用意して子どもたちを待っていてくれたものです。今 山形県のあちこちで雛人形を文化財として保存して後世に伝える取り組みが行われていることを先日の山形行で知りました。

 その後農文協さんの『現代農業』誌でたびたび拝見、地元学+実践者の創始者のひとりとしてご活躍であることを遠目に見てたのもしく思っておりました。
 一年前、山形~宮城を訪問させて頂いた折、タマキさんが結城さんのご自宅に連れていってくれて「関根さん」、美枝子さんと共に50数年ぶりに再会することができました。
 お目のこともあり、何冊も頼まれている本もすべて断っていると、資料に囲まれた書斎で語ってくれました。しかし烈々たる思いはそのままででした。
 結城さんの志にいたく感銘共振してこれを受け継がねば、と地道に活動を続けようとしている後続のお若い方々とも会わせてもらいました。

 ほぼ同じ時代に生まれ育ったとは言え、結城さんと田代部落の歴史にはとてもかないません。山も畑もたんぼも人もはるかに野生と生命力旺盛、ご苦労は足元にも及ばず、私はまだまだ街場育ちで親兄弟地域共同体に守られて育っています。
 太平洋戦争体験者の先輩方に続いて、私達高度経済成長以前の世の中を知っている世代の私たちももまもなくあの世へ引っ越すことになります。 高度経済成長以前の世の中 のいいとこどりをして子供たちに伝えたいものだと企画をあたためています。
 結城さんには是非巻頭言をお願いしたいものです。
 叔父上様の田代部落のご本『おらだの村 田代』も読ませて頂ければと願われます。

 タマキさん、結城さんの記事の続きもよろしくお願いします。

以下、Wikipediaから貼ります。

結城 登美雄 (ゆうき とみお、1945年 – )は、地元学プロデューサー。東北地方の農村に深くかかわり、2011年の3・11東日本大震災後は、その復興に東奔西走した[1]宮城教育大学非常勤講師も務めた。2004年には芸術選奨文部科学大臣賞(芸術振興部門)を受賞した。地元学プロデュ―サーという概念も次第に広く研究され、受け入れられ始めている[2]

概略

1945年、旧満洲国に生まれたが、戦後帰国し、母の実家が有る山形県大江町で育つ。ふるさとの田代集落は、標高450mの山あいに9軒の家があったが、昭和30年代、60人ほどあった人口が、30数年前(1970~80年代)村人は家を挙げて離村し、山を下りた。毎冬雪2m、少ない田と空しい林業、自給の作物とたばこなどの換金作物で生計を立てる、貧乏村というのだろうが、みんな一所懸命働いて、いつも笑顔があった[3][4]という。山形大学を卒業後、広告デザイン業界に入り、(有)タス・デザイン室取締役。民俗研究家となる。東北の農山漁村をフィールドワーク。住民を主体にした地元学を提唱した。宮城県旧宮崎町の「食の文化祭」、旧北上町での「宮城食育の里づくり」などに関わり、旧鳴子町「鳴子の米プロジェクト」にも深く関わった。[5]

地元学について、提唱者結城は、「地元学」とは、異なる人びとの、それぞれの思いや考えを持ち寄る場をつくることを第一のテーマとする、としている。理念の正当性を主張したり、押しつけるのではなく、たとえわずらわしくとも、ぐずぐずとさまざまな人びとと考え方につき合うことが大切だとする。暮らしの現場はすぐに変わることはなく、ぐずぐずと変わっていく、と表現する。地元学は理念や抽象ではなく、地元に寄り添う具体の学である、とする[6]

森千鶴子は、こう述べる。「地元学には、民俗研究家であり、地域プロデューサーである結城の「地域観」が中心にある。改めて、氏の半生をたどることにより、地元学成立の思想と背景をあきらかにする。山形県で過ごした幼少期の、挙家離村の体験が、「中央」と「地方」という地域観に対抗するまなざしにつながっていること、学生時代に、1960年代の農民大学運動を牽引した真壁仁との出会いがあり、「地域が住民の自治を本則とする生活と文化の空間であり、民衆自身が、歴史の書き手、語り手となる」という真壁の思想が、地元学の根底を流れていることが明らかとなった。」

『「清水平」での暮らしを書きとめる』

1379/10000  月暦3月10日 太陽暦4/18(木)


このたび原点回帰しまして、
私の原点、清水平での暮らしをあらためて書きとめることにしました。
30代の8年半、私達は清水平で電気ガス水道ナシで暮らし、二人の息子を育てました。
ここ、清水平の地母神から与えられたのは
『うむ・はぐくむ・わかちあう』この三つの言葉でした。
清水平を離れてからの道筋は、ここでこう感受されたたことを現実社会でどう応用して問題を解くか、となりました。
まだ、その途上で成果といえば、なんとか社会人としてまずまず健康にやってくれている二人の息子でしょうか。
現実社会での応用問題を解く、この課題は今第2ステージに入っており、このタイミングで記録しておくことで、応用に備えたいと思います。


清水平は、長野県の松本と長野の間に位置する、信濃川の支流、犀川沿いの生坂村の山襞の中にあります。
国道から約4キロ、県道から3キロくらいだったかな、生坂丘陵(仮称)から発する川が蛇行するその内側にある一軒家です。
東南面に山が迫り冬はあっという間に日差しがなくなる、そんな土地でした。
詳しくは後ほど書きますね。

今日 下の息子がデジタル保存してくれている写真のファイルを私のパソコンに移してくれました。そのさなかでLIVEしていたときよりも鮮やかに、瑞々しく懐かしく蘇ってくるものがありました。いずれ記事の中に写真も入れますね。

長野県の地図 - MapFan


何を書きましょうか。
・暮らしの様子
 火 灯り 水 畑 台所 風呂
・二人の息子の出産と育児
・息子たちの父ちゃんのこと
・共同体
 コミュニケーションとディスコミュニケーション
・親切な隣人 池田さん 日向のおばさん
・時代 1965~1975
 なぜ私たちは過疎地に入っていったのか
・原初の力について 
 NATIVE JAPONECIAN ネットワーク
・エピソードいくつか
・うむ・はぐくむ・わかちあう
 消費脳から生産脳へ
 今とこれからに向けて

こんなところでしょうか。トシを重ねたことによってサラリと語れるようになった
ことも含むことになりそうです。
Kindle出版の第一作として、テーマは清水平になりました。私の人生の原点です。
250枚として、一日5枚で50日、夏至の頃に完成を目指します。


11年後、88歳の私は、里山コミュニティの中にある「新清水平」の縁側で、子供たちと共に
日本古典文学の音読教室をやっています。ここでは焚火ができて、畑、田んぼ、山仕事があり
水は天水を取り井戸から汲む、それまで願わくは、なるべく穏やかにソフトランディングで時代が進みますように。この祈りを込めて、「原初の力」を思い出しつつ
新たな発見が言葉になるのを期待して書いてみます。


⤵ 1977年9月末 清水平の縁側で

『朝イチのお祈りを書き出してみました』

1378/10000  月暦3月9日 太陽暦4/17(水)

おはようございます。
今朝は、朝イチ、布団の中での
お祈りの言葉を書き出してみます。
自分はいったい何を言ってるんだろうか?
なお、私は言われなくても仏壇に手をあわせる子どもでした。
父と母の後ろ姿見てたんですね。



何時に寝ても4時前後に目が覚めます。
布団の中でまずお祈りを、 ごもごももぐもぐ
『・・・おおいなる、そして友だちの神さま
おかげさまで今朝も目が覚めました。
ありがとうございます。

満88歳の私は、自力2足歩行、脳力向上(ほんの少しづつ)
里山コミュニティの中にある
屋号「新清水平」の縁側で
子どもたちと日本古典文学の音読教室をやっています。
この10年で〇〇〇〇〇万円まわして頂きまして
ありがとうございました。
この国の子供たちが安心してスクスク大きくなる世の中になるように
縁の下の力持ちとして陰ながらその礎を担って参ります。
ばばぢからクラブネットワークで
情報交換・相乗効果をあげております。

それはさておき
今日の、最優先の仕事は、
クライアントさんに次回の課題のファイルを送ることです。
今日の、今の課題に一点集中して参ります。
+ 5月6月と〇万円(売上目標)回して頂けますように、
その分貢献できますように仕事をいたします。
神さまのあまねき恵みにお応えできますように。

家族みんな、師匠の方々、なかま、同志みんな
今日も無事で元気でありますように』

ざっとこんな感じかな。
書いてみると結構な量ですね。
下に降りて、簡素な仏壇にお茶をあげて
手を合わせます。
お父さん、お母さん、てい子姉ちゃん、
あんつあ(一番上の兄)、それに
息子たちの父ちゃんに、
我が人生の師から最後に頂いたお葉書を
読んで手を合わせます。
ほっとします。

子育てまっ最中はそれどころでなく
仏壇に向かって投げキッス、そんな暮らしでしたわ。
上から管理強制されて従う、のではなく
暮らしの中で身についたものがあり
それを落ち着いてできるようになったこと、
トシの恵みに感謝です。

⤵ 満開のスイセン@花見の名所 帯広川西5条のお屋敷前 丹精されております、スイセンもチューリップも。



『観光しました~早春の旅・山形篇④』

1373/10000  月暦3月1日 太陽暦4/7(日)

今日は観光レポートをいたします。
まずは、なんといっても食べ物です。
蕎麦、日本中でブームなのでしょうか?
⤵量も十分、てんぷらもおいしい、
全員、大満足でした。
 

大繁盛のだんごやさん。
創意工夫、アップデートしております、
(上は一本で十分かな)

山形といえば山寺、弘明君が有休をとってきめ細かく案内してくれました。

「立石寺(りっしゃくじ)は天台宗の高僧慈覚大師が860年に開山し、松尾芭蕉が詠んだ「せみの句」~「閑かさや岩にしみ入る蝉の声」~でも知られる東北を代表する古刹で通称山寺(やまでら)と呼ばれています。

大仏殿のある奥の院まで1,015段ある石階段。「一段一段踏みしめていくごとに一つずつ煩悩が消え悪縁を払うことが出来る」と云われるその石階段を上りきった頂上で芭蕉が見た景色と同じ景観を楽しみませんか」(検索)

その景観は向かい側から望みました。階段は早春とトシのため割愛しました。
しかし、昔の人の体力、生命力はどうなっているのだ、と感嘆の他ないです。
どうやって建てたのでしょうか?

松尾芭蕉記念館では、雛人形と、紅花栽培から流通までの日本画が展示されておりました。
非常に素晴らしいものでした、しかし撮影禁止でした。
雛人形は江戸後期~明治の初めのもの、その衣装、そして表情の品の良さに
江戸250年の平和が偲ばれ、歴史心をそそられました。
生まれ故郷の大石田町の最上川とその歴史ももっと知りたいと故郷力が喚起されたことでした。

山寺からの帰りに東根の大ケヤキに寄ってくれました。
このように古い樹齢の木は初めてです。まさに百聞は一見に如かずです。

あいもかわらずきょうだい親族のみなさんのお世話になりっぱなしの
四女の私、77歳になってようやく気が引けてご恩返しせねば、この思いを胸に刻んで
帰途につきました。
のり子姉さん、卓さん、弘明君一家、ゑい子姉ちゃん一家、利明くん・由美子さん
お元気でいて下さいね。このたびもありがとうございました。

『お詣り~早春の旅・山形篇③』

1372/10000  月暦2月28日 太陽暦4/6(土)

今度の山形行の一番の目的は、お墓参りです。
荒木家のお寺は、大石田の井出の普門寺です。
弘明君とゑい子姉ちゃんが丁寧にお墓を掃除してくれました。
お父さん、お母さん、ご先祖様に手を合わせてほっとしました。
てい子姉ちゃん、靖之君は、のり子姉さんのすぐ近くのお寺です。


お盆前に利明くんと二人でお墓掃除に来て
やぶ蚊の攻撃の中、掃除をしようとしない弟と
喧嘩しながらのお墓掃除、
木陰の中にあった墓場も今は木がすっかり切られて
天にさらされています。
下駄屋さんでポンポン下駄を買ってもらってのお墓参りは
年中行事の中でもクライマックスでした。
小学校一年生の時来ていたお墓参りの着物、
母の腰巻になって、その布はずっと大切に取ってあったのですが
いまどうなっているだろう?
暮れにゑい子姉ちゃんとお寺の仏壇の世話に来て
飾ってあった濃い赤紫の菊の花を捨てようとしたら
隣の引田さんのおばあさんが持ってきてくれたものとわかって
あわてて元に戻したこと、
ひとつひとつのシーンがなつかしくよみがえります。

時代は変わりこれまでのお寺制度がこれからどうなるか、
わかりません。
太平洋戦争で同時代の若者300万人が殺された時代を生きた
息子たちの父ちゃんの遺言は「葬式要らず,墓要らず」でした。
わが家には簡素な仏壇があり、トム松田の仏像がまもってくれています。

八幡様がお寺とこんなに近くだったとは、
月歴で町内の神社に初詣でする父についていって
どうにも腹が減って自分だけ家に帰ったら
なんと意気地がない、と母に怒られたものです。
境内の杉木立、杉の葉、北海道には杉の木がないので
なつかしい。風が吹いた翌日には炭俵をもって
向かいの最上川の岸に杉の葉集めにいきました。竈と囲炉裏の焚き付け用です。

こちらは、川端部落の金平さまです。
9月15日のお祭りをはじめとして、毎月のご詠歌と無尽の日、子供会
境内での、夏休みのラジオ体操、林間学校、縄跳び、ゴムはね、
春は雪解けを待っていっかんこ(石をつかって二つのチームに分かれてのゲーム)
から始まりました。
堤防工事のため移転しました。

神社が手入れされず人の気配も薄くさびれているのは何とも寂しいですね。
この列島中にはびころうとしている巨大風力発電、
リニアモーターカー工事、大都市の樹木の伐採~等々
根は同じだと思います。

『最上川∼早春の旅・山形篇②』

1371/10000  月暦2月27日 太陽暦4/5(金)

山形県はほぼ全県最上川の流域になります。
生まれ故郷の大石田町は内陸部、最上川の中流域、
鉄道が開通するまでは酒田からの船着き場でした。
メインストリートには商家、お屋敷が並び関西からの文化を
吸収していた名残をとどめていました。
生まれ育った川端部落は水運の神さま、金平神社を中心に四季がめぐっていました。


弘明君の運転で一族7人、二台で大石田に向かいます。
生家は堤防の真下になっています。
弘明君が岸辺迄車をおろしてくれました。
64年ぶりに最上川の水に手を入れて
亡くなった靖之君のためにネコヤナギの枝を折りました。

南に甑岳、朧気川が合流します。
朧気川には、夏になるとお父さんたちが土嚢を積んでプールをつくってくれました。蛇が遊びに来ることがありました。水着を着てタオルをもって河岸の野原をプールに向かう子供たちが見えるようです。ふだん行かない朧気川の向こう岸は草深い未知の土地でした。
夏、川遊びで腰を屈めて石の上を流れる水に手をいれてじっと眺めているとその流れに目が回って川に流されてしまい、ごく浅瀬でしたけれど、ゑい子ねえちゃんが助けてくれたことがあります。
夏休みの前には学校の先生が最上川に竿をさして水深を調べてブイを張って安全区域を限定してくれました。 私達が山形市に引っ越して間もなく学校にプールが出来て川では泳がなくなったようです。

向こう岸は、横山です。
ヨコヤマヨンゴレケツ(横山汚れケツ)・・・川を挟んで怒鳴りあって喧嘩をしていました。
山は大高根山、木立にかくれて葉山です。

大橋です。私たちの原風景です。
小学4年生の頃何メートルあるか授業で測りました。148mだったと思います。
先ごろの洪水で水位が橋を超えたので、近々近くの下流に立て変えられるので大橋はなくなる、と弘明君。あら~と私達から思わず嘆息がもれます。
生々流転、この大橋もなんだなあ。

『故郷の山々∼早春の旅・山形篇①』

1370/10000  月暦2月26日 太陽暦4/4(木)

中央線内側市ヶ谷駅から直通で横浜の二俣川へ
3番目の姉のゑい子姉ちゃんが迎えに出てくれていました。
前のマンションから大きなところに引っ越していて一階の部屋を取り囲んで
ガーデニングしていて夜目にも丹精の気配が伝わってきました。
12時過ぎ弟の利明くん夫婦が川崎から到着、
さあ行くぞ、と夜をかけて山形に向かいました。

まだ朝が早いので、のり子姉さんとこはまだ寝ていたので
利明くんが出羽丘陵までドライブに連れて行ってくれました。
朝日連峰と村山盆地の間にの丘陵で、最高峰白鷹山の登山口までいきました。
山形にいたころ、自転車で下まで来て白鷹山に登りました。全山コブシの花盛り
朝日連峰が目の前に迫り、眼下を最上川が流れ緑深々なんとも豊かな風景でした。


お墓詣りのため生まれ故郷の大石田にむかう途中
月山が現れ、突然鳥海山が現れると何とも言えないものがあるのでした。

⤵帰りの飛行機からの鳥海山です。
鳥海山には1回登りました。高山植物のお花畑が雪渓のかたわらに広がっていました。

⤵ 月山とその手前は葉山です。
月山には二回登った気がします。頂上から雲海の中に鳥海山が聳え立ち
夕日が沈み満天の星空でした。
季節になると父と兄たちが月山のふもとまで、月山タケノコや山ブドウを取りに行ったものです。タケノコは足が早いので母が夜なべ仕事で皮をむいて塩漬けにしていたのかな、
山ブドウも大きなポリペールに二つはありました。タケノコはやっぱり細ダケの月山タケノコ、山ブドウはあらゆる木の実も内でも特別だと感じます。
葉山では稜線で雷がとどろき、数年前の北アルプスでの大きな落雷事故の記憶がありほうほうのていで慌てて下山しました。
どの山もなかよしの友達と行ったのですが、未熟もいいとこわがまま一杯だった自分が思い出されて恥ずかしいというか、今更どうしようもないというか。

⤵ 上は朝日連峰、下は飯豊連峰です。
村山盆地の西に悠然と伸びています。
一人では行けないので仰ぐだけでした、今でも憧れの山です。

こちらは雁戸山、帰途山形駅から仰ぐことが出来ました。
蔵王山系の中にあった山小屋でひと秋過ごしたことがあって
秋田犬の○○(名前忘れました)と近くの山を庭のごとく歩き回ったものです。
今回は仰ぐことが出来なかったのですが、雁戸山から笹谷峠に伸びる稜線が実に美しく
笹谷峠までは最初に歩いていこうと決めて家から出て3時間でした。ズック靴に薄い白いソックス、豆だらけになって帰りつきました。
その後登山の本を買い、靴も靴下も気を付けるようになりました。20歳ころから左ひざが弱く途中で力が入らなくなっても山に行ってました。
故郷の山には格別の思いが年月とともに深まっているのでした。