『京大西部講堂のステージで歌ったことがある』

1150/10000 4/17分 5/15 記 2023

京大西部講堂、聞いたことありますか?
京都大学の構内にあるイベント用?の建物です。
かくいう私はなんとなく❝自由と混沌のシンボル❞の建物ぐらいの
ミーハーな知識しかなくて、今 Wikipediaで見てました、その記事にあるような
派手さも過激さも持ち合わせてはいないし、なのになんとなく
西部講堂のステージで歌ったことがあることをひそかに誇りに思っていた
大したことのない私の記憶をここにとどめておきます。


『前略 1976年京大西部講堂の11/20“聖風祭”スワノセ台風救済コンサート
私と宮崎の成田チェと和歌山の雅と三人で回りを巻き込んで行ったことです。
国分寺“ほら貝”で春早くしう子の歌を聞き呼ぼうと思いました。
とっておきの京都篇の詩を楽しみに待っていて下さい。』

三冊目の詩集を送ってくれたお礼のはがきに即来た
新潟の大工さん 斎藤伸一(呼び捨てお許しを。敬称もピンと来なくて)からの返信です。



1976年11月、フリーターの仕事を休んでぼろいケースに入ったギターを持って
京都に行った。(そのぼろいケースもギターも~至現在だ)
街中の木造町屋建築の二階に出演者、関係者の宿が確保されていた。
こんな大きなステージ、自分が出るものとして見たことない、無謀だった(汗)
どんなステージをしでかしたのか、覚えていない、飲んでたし。
バンドはタシとジュンとそれにモッキンもいっしょだったような気がする、
あとでジュンから❝スターだったよ❞と聞いた。(大汗)
う~ん、私はバンドの一員としてではなく単独だったような気がする
次はしうこ、とジュンが紹介してくれたような・・・
そもそも私は、バンドでセッションできる才能がない、楽器も才能ほぼゼロ、
でも歌うのは好きだった。まあ、混じりけナシの、そのときの心からの身体からの声は
出していたのかもしれない。
恥ずかしい、いやいや、なんも恥ずかしがることないって。
三上寛さんもいたような気がする。
伸(と呼ばせてください)の京都篇の詩でわかるかもしれない。


その年の夏、奄美大島の宇検村久志でポンたちがやっていた無我利道場
夏祭りがあって混沌のエネルギの一か月ほどをそこで過ごした。
とにかく蒸し暑くてハブの侵入防止のため戸を閉め切って寝るのだった。
そのときミオさんのお腹にいた蛯名宇摩ちゃんは津軽三味線と奄美島唄の演奏と指導で
多忙な日々を送っている。
次の年だったか、数年後か?無我利道場は右翼に襲撃され大きな被害を被った。



検索すると、スワノセが台風17号に襲われたのは9月12日、5人の犠牲者が出た。
1970年前後から『部族』の人たちがこの島に入植していたのだ。私は行ったことがない。
山形にいたとき『思想の科学』誌で穴井さんのスワノセ・レポートを読んで、この日本にこのような人々が棲息しているんだ、と知ったものの100%ピンとは来なかった。
そのあと清水平にらーださんがトビウオの干物とラッキョウを送って下さったことがある。まさに最高の息吹きとうまさを今も鮮やかに覚えている。

奄美からの帰りに屋久島に無銭で寄って尾之間から楠川に3泊4日で縦断した。
屋久島は私のNATUREのイメージを変えた。
❝屋久島は行かなくてはダメだよ!❞、ナナオの定番の文句の一つ、まさにその通りだった。
スワノセを襲った台風で根こそぎ倒れた屋久杉が何か所かで道をふさいており
(屋久杉は根が浅いと知った)道に迷いながら、鹿児島で買った地図を頼りに進んだ。
その前1975年のトモたちの一大イベント、MILKY WAY CARAVANのとき、
ポン、ナナオ、サンタナと一緒に、沖縄読谷村の金武湾の闘争小屋、奄美大島の石油基地反対闘争、屋久島の屋久杉を守る行動、を回らせてもらった。ただついて行っただけ、いかんせん
幼稚なガキの私でした。
なおポン、トシ、ボブ、エヘラ一行は、すでにその前の年に南西諸島をキャラバンしている。ポンの詳細なレポートがある。




あれからかれこれ50年、
思いがけなく新潟から伸が詩集を送ってくれた。
伸が清水平に来たことは覚えている、でも私の知らない、覚えていないことが多くて
未知の土地の記事のようだ。
思い出す時間、あじわう時間、記録して残す時間ができたんだね。FACEBOOKにも
なかまたちのアーカイブ保存の様子があれこれアップされてくる。



スッキリスマートとは縁遠かったあのころ
混沌、混乱,奈落の底に降り注ぐ歓喜と祝福の雨、
ようやく少しづつ書くことができるようになりっつある感じかな。
長い歴史の中でその意味はまだまだわからない、でもこれだけは言える、
私たちは、カッコよかったかどうかは別にして、
原初のエネルギーを同時代して共にした
と。
このことが変わらずに、生きてきたエネルギーの源泉の一つになっていると。
その経験の一つ、私は 聖地 京大西部講堂のステージで歌ったことがある、
キメルことはできなかったかもしれないけれど、
アマチュアの神髄をもしかして発揮できたのかも?
やっぱり、私は誇りに思っている。

小リンゴの花。去年は咲年だったようです。