『子どもらに寄せて』

1119/10000  3月28日(火) 2023
◆シリーズ 3/14~24山形・宮城報告その⑬
本シリーズも今日で最終回
今回の旅をすっかりお膳立てしてくれたタマキさんへの手紙で
ひとまず終了と致します。

タマキさんへ その②

あらたな刺激の機会をありがとうございました。
フレッシュ深堀りの旅でした。
ところ変われば気候も風景も人も気配もみな変わりますね、あたりまえか。
この2年は半径500メートル、その前10年は半径1000メートルで、駅の近くで暮らしていたのですから気分はお上りさんしておりましたわ。

月山、葉山の雄姿、鳥海山はてっぺんだけ、朝日連峰も仙台に向かうバスの中からその輝きを垣間見ることができました。月山は2回、葉山、鳥海山は1回登っています。朝日,飯豊は一人ではムリなので仰ぎみるにとどまりました。そしてなによりも母なる最上川でした。

最上川の大橋を渡って秘境次年子まで一走りで。
すごくうまいお蕎麦屋さんの
シンプルな前菜、こちらもうまい。

時々持ち場を離れるのは、いいもんですね、欠かせないな、次はちょっと旅慣れた感じで、と
植物型家付き猫は遠くにまなざしを向けるのでした。この春は今の古い借家から移動しそうな気配もしていて、2年前から引っ越し準備のため鉢上げしている植物を軒先に並べています。本州にベースがあるのも悪くないですね。

おかげさまで、リフレッシュ+ひとつ深堀り、
自分のやりたいことを確かめて強化され、
冬からサジェッションされていたプロジェクトにお力添えも
タマキさんはじめお会いした方々からそれぞれ頂くことができました。

子どもたち孫たち、後世に私たちから伝えるべきものとは何か?
子どもたちが前を向いてよそおい軽く歩いて行けるように。

冨澤部落の馬頭観音様に奉納?された巨大草鞋?
(ぼけました、ごめんなさい)



中世に戻る気配濃厚な今と近未来、
乗り切って縦横無尽に逞しくやっていく人々
暴力的な力にやられてしまう人々
暴力的な力をなんとも感じずなすがままにされてしまう人々
その間を行ったり来たりする人々
ひとりの人間の中に同居してもいます。


願わくは、どうかソフトランディンングで
子どもたちも、この世時間の短い私たちも、坦々とやっていけますように。
そんな大げさな老婆心を必要としていない穏やかなチカラに出会わせてもらいながら
この列島に棲む私たちのまっとうな誇りってなんだろうと
つらつら思われることでした。




預かっている課題は冊子の制作、
夏至までに第一稿を上げる、とスケジューリングしてみました。
仮題は『子どもらに寄せて』
その① 『ひとり孫姫のたみちゃんへ』
その② 『昭和30年の暮らしから』
どんな時代でも変わらないものはあるはず、
高度経済成長以前の世の中を多少なりとも知っている私たちから後世に参考になればと。
連絡し合いましょう。ご多忙のところおそれいります。

早春の宮城、山形、ツバキ、ウメ、モモ、レンギョウ、サンシュユの花々
あれから半月以上、すでに山も畑も春の緑におおわれていることでしょう。
タマキさんファミリーとなかまたちが平安のうちにありますように。
        またお会いできる日まで    しう子より   4/7



年季入ってます。お多福さん@銀山温泉

『膝は伸ばさなくていいんですって』

1115/10000  3月24日(金) 2023
◆シリーズ 3/14~24山形・宮城報告その⑨
今日は、マリちゃんに女同士の手紙です
マリちゃんは、この間滞在させてもらった温泉宿太陽山荘のママさんです。

マリちゃんへ

ほんとうにありがとうございました。
こんなにリラックスしまくったのは、生まれて初めて!でした。
ぼおっとして九日間がいつの間にか過ぎてしまいました。

大好きな煮物中心の、誰かと一緒に頂くご飯!
もう、すごい贅沢、一人暮らしになって15年かな、
その前から息子と一緒にご飯を食べることもなくなっていたし、
気のおけない友達とうまいご飯をいっしょに頂く、
人生最高の贅沢です、マジ。



山荘でめずらしかったこと
① 家庭的なこまごまとした会話
② 女の子同士のこまごまとした会話
こういうミーティング、おしゃべりしたことないなあ・・
うちは息子二人で、父ちゃんは、ま、家にいないのが普通だったし、
ものめずらしくてしげしげとその場にいさせていただきました。

満開! ゴールデン・クロッカス


それはさておき、老化とのおつきあい、お互いさま。
手持ちの、膝、老眼、ダイエット情報を交換しましょう。

① 膝は伸ばさなくていいんですって!
駅まで歩いたら膝を痛めてしまったとのこと、
私も特に左ひざがダメで常にサポーターしてます。正座ができなくなってからかれこれ15年、
膝は最大の関心事です。

帰ってすぐYouTubeに入って来たのが,甲野善紀師の動画でした。
元気の学校 甲野善紀⇒検索 お願いします、よろしかったらどうぞ。
で、早速実習してみました。
ラクちん!です。

本通り挟んで向かいのスーパーに買い物に行くときとか、困っていたのがウソみたい。
膝を延ばして体幹を意識してよい姿勢で・・・⇒ 疲れる、肩が張る、胸部圧迫感、
それが全部すーっと消えました。
家の中でも膝を緩めた歩き、動作だとなんかおっとりしてきてせかせかしなくなります。
腕も振らないんですって。


② 老眼
 齊藤瞳さん 老眼・視力回復・飛蚊症 のための手のひらセラピー ⇒検索
こちらは去年の暮れに流れてきた動画で簡単だったのですぐはじめて3か月、お、これはよさそうだったのですけれど、パソコンに長く向かっているとやはり疲れる、遠くを見ることが少ないなあ。
youtubeにはほかにもいろいろあって相性のいいのを続けるといいかも、です。



③ ダイエット
  47キロ~72キロを行ったり来たり 、ダイエットのキャリア(っていうのか?)55年、
今56キロで、ベストだった52キロまでは戻そうとしている私の
『ごちそうさまダイアリーfor DIET』、kindleにはもう上げていて(パートナーがやってくれた)発売できるようにちょっとスピード・アップしますね。連休前目標で。


コツは三つ
① 暮らしにリズムを
   一つだけ決めましょう 9時には寝る(大谷選手)とか
② 定期的にエクササイズを

   一日10分でOK 今の自分になじむものから
③ 摂取カロリーを把握
   まごわやさしい和食中心でカロリーブック片手に
+あと二つは
④ 記録する
⓹ なぜダイエットしたいのでしょう?
  自分にもホスピタリティ


よい習慣をつけるには、この項目もありますよ・

販売準備がんばります。
今日は予告編でした。
ひとりでパソコンに向かっていると固まって詰んでしまいがち、
リアルのあの人にためなら、頭が動き出します。


最上町では、ウメと桃の花が満開。あるいは散り始めている頃でしょうか?
春はうれしい、爛漫の春の日々、
ご家族の皆さま、お友達皆々 平安とともにありますように。   4/5 記

マリちゃん、もう一度お誕生日おめでとうございました

『畑、聞き書き、おすすめしちゃうな』

1114/10000  3月23日(木) 2023
◆シリーズ 3/14~24山形・宮城報告その⑧
今日は、タマキさんの秘書役の芽生さんに宛てて手紙を書きます。

めいさん
お世話になりました。ありがとうございました。
九五郎味噌、山形の姉と帯広の息子とで分けました。
味噌も、生命力のあるものは、やっぱり違うんですよね。
今回の旅は、おかげさまでいくつもの生命力の現場にあわせてもらい
希望を目の当たりにすることができました。
とても印象に残っているのは、その穏やかさで
それはこの国のひとつの希望の種ではないかと思われました。
この穏やかさが侵食されないように生命力をアップしていきたいですね。
すでにできることが限られているシニアと違って
めいさんはこれから何でもできますね。

佐藤家の畑のお手伝い、いいですねえ!
土に触れると触れないとでは全然違いますよね。私も街中で日当たりイマイチの小さな
ガーデンを自然体でずっとやっています。今は、肥料はコメのとぎ汁と台所の洗い水、それに光合成菌、これも自分で培養しています。果菜には米ぬか少々、といったところです。無肥料栽培、仲間内ではけっこうポピュラーになっています。ビッグ・ファミリー・ファームさんも確かそうだと思います。まあ、できるところからめいさんのペースでどうぞ。
 この国の食料・食糧問題は深刻ですから、栽培技術を身に着けて食糧ルートを確保しておくことは危機管理の第一歩ですよね。

農家の女の子のイラスト(将来の夢) | かわいいフリー素材集 ...
畑は、うれしい、たのしい




親孝行したいときには親はなし、を地で行くこの私、親の葬式にも行くことできませんでした。還暦過ぎたころふっと胸から湧き上がってきたんです、
『お父さんとお母さん、胸の内に、外に出せなかったもの、言葉にならなかったものをどれだけ抱えていたんだろうか?』と。今なら親の話を聞くことができるでしょう、ワカカッタときにはとてもとても。

芽生さん
もしご両親、ご親族の方からお話を聞くなら
(ここは、自分史探検サポーターの荒木しう子の登場です)
① 雑談のなかでちらと何気に尋ねるとかして、
  聞いたことを翌日までに書きとめる  上手下手は気にしない
② ちょっとたまったら印刷してみてもらう、さりげなく
③ 聞きたいことをメモしておいて、ここぞというときにQする準備をしておく
④ たまったらファイルに綴じてプレゼントする
⓹ 年表と系図を作ってあげる

そうなると、聞かれる方は
① 生きてきたその当時
② 聞かれて話す
③ 聞かれる準備を心の中でする
④ 話したことが文字になって可視化される
⓹ もっと思い出すことがある
⑥ 新たに意味を発見する、
  新たな意味が向こうからやってくる
などなど、何倍も生きることになります。
聞かれることで、生きてきた自分に自信と誇りが持てるようにもなるでしょう。

お年寄りの手を取る女性のイラスト | かわいいフリー素材集 いらすとや


どうかしら、めいさん、
ブログでこれからのあれやこれやの記録をUPしていきませんか?

以上、わたしからのありがとうと、提案でした。
老婆心を発揮してしゃべり過ぎたかも。
もしピンとくるもの、参考になること、やってみようかなと
思うものがひつでもあったらうれしいです、
いっしょにやりましょう。

さあ、季節がスピードアップして進んでいきます、
めいさんにとって 充実+まったりのシーズンになりますように、


あ、もうひとつ、
佐藤家の年中行事をたずねて、できたら一緒にできるところはやらせてもらって
そのノートを作りませんか?
実は私、45年前に母から聞き書きしたのですが、度重なる引っ越しで紛失してしまいました。
農文協刊の『山形の食事』、それと冨田さんの和暦の冊子も参考になりますよ。
結城登美雄さん ご飯は①普段のご飯 ②祭りのご飯 ③祭祀のご飯 と三種に分かれる。
(ちょっと記憶があやふやです。『いのちをつなぐ宮城の食と農』で確かめてね。)
それぞれの献立もおもしろい。私は今一人暮らしなのでつくづく実感されるのは、この三種のご飯はいずれも家族~コミュニティあってこそのもので、ひとりではやっても心もとない、サマにならない、このことです。
久之助お爺さん、節子お婆さんのいらっしゃる佐藤家は宝庫ですよ。



⤵ 早春の摘み草  フキノトウ、タンポポ、ナズナ、冬の毒を出してくれます 4/4

『私たちはよみがえることができる』

1111/10000  3月20日(月) 2023
◆シリーズ 3/14~2 山形・宮城報告その
今日は、宮城県石巻市の牡鹿半島の南側の付け根の蛤浜の
『浜の暮らしのはまぐり堂』さんに宛てて手紙を書きます。

蛤浜は世帯数が九つのの小さな漁村でした。東日本大震災と大津波で3世帯人口7人に激減、4人にひとりが60代以上、
蛤浜出身の亀山貴一さんは、愛する蛤浜の暮らしを時代の要請を見据えつつ後世に伝えようと、水産高校教師を辞めて復興と事業に取り組みます。

亀山貴一様
  理子様 
菅原尚子様


先日は、押切さんについて行って寄らせて頂きまして ありがとうございました。
ちいさなめんこい蛤浜、ここで代々 海、山、土とともに暮らしを続けてきた人々、そして
3.11、その後の復興のシーンを想像しようと試みました。
ご本拝読いたしましてふうーっと大きく息をしました。
① 復興への思いと決断
② 事業計画と調整の過程 現場での奮闘と微調整
③ VIVIDなネットワーク  思い 技術 資金
私たちの20代.30代と全然違う、比べても詮無いことですけれど、
感嘆の連続です。
ご苦労さまでございます。

きちんと事業計画を立てて思いを可視化
貴一さんのご本より
貴一さんのご本です。頂きました。

階段を登って高台へ、
『浜の暮らしのはまぐり堂』さんの第一印象は、あまりにも素晴らしく
私は魅了されて息を飲みました。
あこがれの縁側、障子、そしてその透明感!
蛤浜代々の歴史と、3.11の後の12年の結晶をまのあたりにした感じがしました。
材を担いで坂を上った人々の生命力、
再生に力を注いだ思いと技術、マネジメント、
ほの暗さ、趣向を凝らした飾り物、心の余裕などなど 偲ぼうと試みました。


尚子様
石巻発 プリコロール・プロジェクトのこと、押切さんに聞きました。
一歩も二歩も先を行く企画で、手先そう起用でもない私は追いついていません。
お手作りの技術をお持ちの尚子さんは、きっとあれこれアイディアが湧いていらっしゃることでしょう。❝主婦の手づくり❞から一つランクアップしたグッズと 住まいを共にできたらと想像するとワクワクしますよね。


理子様
お名刺にびっくり!『ネイティブ・ジャパニーズ探求家』!おお、来ましたねっ。
実は私はネイティブ・ヤポネシアンNative Japonesianと勝手に呼んでいます。北海道から沖縄までの列島に棲む、地生え、海生え、心映えの人々のことです。
私たちのまっとうな誇りってなんだろうか?とつらつら思われています。
今回結城登美雄さんに50年ぶりに会えてこのあたりにごっついチカラを貰うことができました。結城さんの『何としても伝えたいものがある』、はまぐり堂さんの蛤浜LOVEと相通じていますよね。

ついでに、ヤポネシア・ヒットソング『ヤポネシア・フリーウエイ』なる内田ボブの歌もあるんですよ。(すでにご存じでしたらごめんなさい。ご興味ありましたら検索お願いします。リンクが貼れません・汗)



3.11から満12年、被災の様子はテレビでしか知らず、復興の現場も知らないで一足飛びに初めての被災地、幸運にもはまぐり堂さんを訪ねることができました。
伝統的な暮らしを受け継ぎつつ、地殻変動、気候変動、社会変動とつきあいながら微調整を重ねて答えをどのように創っていくのか、そのプロセスの躍動に目を見張り、
『私たちはよみがえることができる』、このことを目の当たりにすることができました。

残された時間を(ばばとしてまだビギナーですけど)、子供たち孫たち、後世に伝えるべきことを伝えることを一つの柱にして過ごそうと意気込むものの、 作業のスピードはトシなりで、アップデートする力もお若い方々にはとてもかないません。私なりにすること、できることをしぼろうとしております。そんなわけで皆様の編集会議にも耳をそばだてておりました。
もし北海道十勝地方にいらっしゃることがありましたら、新得の協働学舎さんほかご紹介いたします。


ネイティブ・ヤポネシアン・ネットワークの息吹きが
この列島をきっとよみがえらせることができる、この思いを強くしました。

石巻~蛤浜の日々、おだやかでありますように。
                   感謝を込めて


⤵蛤浜全景 前出 貴一さんのご本より

『新しいチカラが湧いてくる』

1109/10000  3月18日(水) 2023
◆シリーズ 3/14~24山形・宮城報告その③
今日は、ユキちゃんへの手紙です。
ユキちゃんは福井県生まれ。カナダ体験25年、現在家族とともにノバスコシャのカントリー・サイド在住。畑を作り 麹を立てて味噌つくりのワークショップをやる一方で、もう一つの本業『決断コーチ』として世界各地のクライアントさんとセッションを重ねています。私もその一人で去年の1月からお世話になっています。ユキちゃんのFACEBOOKはこちらです。どうぞ! ⇒ https://www.facebook.com/yuki.inoue.202
ブログはこちらです。どうぞ!⇒ http://inoue20.com/

= ユキちゃんへの手紙 =

 ご無沙汰。あっという間に半月。
 3年ぶりに持ち場を離れて、おかげさまで
『よく頑張ったな、この2年』そう思えました。
 頭コチコチ 胸はドキドキ、約束したことができない、先延ばしが続く日が過ぎていく・・・このパニック・ゾーンから抜けることができそうです。蓮の花は泥水の中に咲くとか。乾いてコチコチだった泥に水が入ってきた感じです。
 さすがに旅疲れで3日、4日と過ぎた後、おかげさまで新しいチカラが湧いてくるのを感じています。旅の疲れ取りと冬の毒出しだけでなくこの二年ため込んでいた垢出しもできたような気がします。

 靄が晴れてきて見えてきたことは、ことさらあたらしいものはなく
目の前の作業リストは、出かける前と殆ど変わりませんが、クッキリとしてきました。

⓪ 宮城・山形報告をブログで =当日投稿に追いつく  ~4/7(金)午前中
  ブログは私にとって 朝起きたら顔を洗うようなものです。
  このあとに続く作業のウオーミング・アップにもなるし。
 
最優先は、こちらです。熟成期間すでに半年以上。
① 『ごちそうさまダイアリーfor DIET』(仮題)販売開始 ~ 4/21~27午後⇒午前中
   ・FACEBOOK LIVEのスクリプト
   ・テキスト作成
   ・ステップメール100本作成
ここまでをまず片付ける。

旅先でクライアントさんと出会えて、
何がダイエットをさせなくしているのかもリサーチする機会がありました。
他の人のためならがんばれる、これ、真理な気がする。

② 冊子執筆 『子供らに寄せて』        ~6/21 
  1 子供たちに伝えたいこと
  2 高度経済成長前の世の中から

③ ほがらかばばぢからクラブお茶会       5月半ば~
  テーマ 『私だけの一冊のノートをつくろう』 
       項目ごとのテキスト作成
       自分史講座の初級テキストもこちらで  
      名刺 カード チラシ DM 制作

④ 事業計画書を書く 出直し、です。
 

パソコンのマニュアルを読む女性のイラスト | かわいいフリー素材集 いらすとや
パワーポイントに挑戦中

この一年以上いつも頭から動かなかった私のテーマが
今回の東北行きを通じてよりはっきりとしてきました。

・肩書
(まだ仮称)
    ほがらかばばぢからクラブ主宰
    ほがらかシニアプロデューサー 自分史探検サポーター
キャッチコピー(まだまだ要推敲)
    いてくれるだけでほっとするシニアになれたら!
    上手下手抜きで、パソコンできなくても大丈夫、
    自分が主人公の『私だけの一冊のノート』をつくりましょう。
    ❝宝物は自分の中にあったのね❞ ごきげんで天寿をまっとうしましょう
    
・自己紹介  
いるだけでほっとするばあちゃんじいちゃん、私たちシニアが
ささえます現役世代まもりますお子たちを!
あたたかなあかりをひとつふたつとふやして穏やかでお子たちが安心してスクスク育つ世の中のいしづえを手で積んで参ります。

13歳まで高度経済成長政策以前の世の中で育ち
20代で『食養』に出会い人生が一変、自然療法を体得、沖縄から北海道までをヒッチハイクで縦断
30代は信州の山の中の一軒家で電気ガス水道ナシの暮らしを8年半、二人の息子を育てる、北海道に移住。無農薬の素晴らしい八百屋をひっぱるが経営に無知で潰す。
50代更年期、慢性疲労に慢性赤字の八百屋をかかえてどん底に。
何としても人生を変えようと研鑽を積む。
60代講座開講準備、話し方教室、作文教室、コミュニケーションの講座に参加
74歳で講座開始、一年目は57回開催。
私たちシニアが、なるべく元気で現役世代をささえお子たちをまもる存在として
こどもたちが安心してスクスク育つ世の中のいしづえとして天寿をまっとうすることの実現に情熱を燃やしております。


今日はこんなところかな、
❝ほがらかシニアクラブ❞の趣旨、では具体的になにをやるのか?
どんな目に見えるメリットがあるのか、

シンプルにことばにしてみますね。

ユキちゃんと出会って、まもなく1年半、
うちの息子たちの父ちゃんと誕生日が同じで、なんと娘さんのお名前も
私の孫姫と同じでした。
振り返れば、呻いて固まっていたのは私で
数々のミラクルが向こうから、ハ~イ、こんにちは!とやってきてくれてました。
ま、人生油断は禁物、これからです。
私の座右銘『うむ・はぐくむ・わかちあう』を胸に、
ときどきは消費に埋没しながら、
コツコツ坦々でやっていけますように。作業を進めて
毎週木曜日朝には❝やったぜ!報告❞ができますように。


オキナグサ、山形の姉の菜園にて

    

『私たちが伝えるべきこと 結城登美雄さんへの手紙』

1108/10000 3月17日(金)2023
◆シリーズ 3/14~24 山形・宮城行報告その②
今日は、結城登美雄さんへの手紙 です。
結城さんは、地元学の創始者のひとりでその第一人者であり、東北を中心に全国の農漁村を回り地元の受け継がれてきた生業の文化を今とこれからに生かすいくつものプロジェクトを成功させ、結城さんと私たちが次の世代に伝えるべきものを伝え続けています。結城さんと私は山形大学の同期で、心から誇りに思っています。結城さんは満州生まれ、私より二つほど先輩になります。


結城登美雄様 美枝子様

お時間作って下さり本当にありがとうございました。
お会いできて本当によかったです。私たちが次の世代につたえるべきものがある、
このことをじっくりとごっつく示して頂きました。

私たちがこのあとに伝えるべきこととは何でしょう。
お話を伺いご本を拝読して私なりに今言葉になることは、

一つに、消費脳から生産脳へと舵を切り直すこと
二つに、『じかに身をもっての感受性』のよみがえり
三つめは、一言でいうと『畏れ多い』、この生命カンを取り戻すこと
それぞれ、手もと足もとから
     どこにいても今すぐできることがある
     ハタと自身で気づくこと
このことを、私なりの表現でできることはないかと、呻いております。
自分たちの後続の子どもたち、孫たち、その後の世代が大丈夫であるようにと気になるようになったのは、一つ年齢のこともあるでしょう。トシをとると脳内ホルモンがそのように変化するとか。もう一つはこのままでは『国も破れて山河もなし』の近未来がみえる現況への危機感です。

結城さんの足で歩かれた自分ごととしての聞き取りの数には圧倒されます。結城さんの前では何をいっても口幅ったい、この事実は否めません。それを承知で私の自分史を振り返りますと、いくつか結城さんと共通のものがあると感じます。

・豪雪地大石田のメインストリートに初めてブルトーザーが入って来たときの違和感と屈辱感
 とは何だったのか?
・『ざいごくさい』=在郷くさい は劣っていることでコンプレックスを持つのが当然と思っていました。
・山の畑。大石田の今宿のはずれの山の中に戦時中の開墾?畑がありました。大八車に肥桶,かます、鍬を積んでお母さんが近所のおばさんと一緒に通って、イモ、豆、サツマイモ、ゴマなど作っていました。昼休みには握り飯にお菜、水は傍らの林の中に掘った泉から汲んできました。家の前の南側にお天道様の光をあびているゴマの木にうようよと巨大なゴマ虫が蠢いていました。
・『イナムシカンカラカン』、夏に農家の子供たちが柳?の枝を持ってメイン・ストリートを練り歩き、❝今年はイネに悪い虫がつかないように❞と唱え歌いながら豊年満作を祈り願う、それが「農薬」でした。
・ 最上川の水上がりで毎年一番最初に床上浸水するのが我が家。堤防工事のため立ち退いて県庁所在地に引っ越したのが1960年、高度経済成長真っ盛りとなったころでした。
 一学年100人2クラスから、400人8クラスの学校へ。その生きることの影の薄さに呼吸困難に、後で『疎外』という言葉を知ることになります。女子は、自分のことを、オレからワタシに変える練習をしていました。山形市で人並みにスーパーマーケット経済に巻き込まれた10年を過ごし、お母さんのつくるお菜は全部茶色だ、ざいごクサいと文句をたれていました。

・ 優秀な先輩が『期待される人間像』の読み合わせをやってくれましたが感度がイマイチ鈍い私でした 。ベトナム反戦と大学闘争の時代、山大のキャンパスに連日繰り広げられるジグザグデモを、学生会館の前から見下ろしながら、これはいったい何なんだ?と考え続てきました。(遅まきながら、そのジグソー・パズルのピースがピタッとはまったのは2015年秋、臍を嚙みました。)
 これはいったいなんなんだ?封鎖がとかれた大学に戻らず蔵王山系の山小屋に居続けていると、結城さんたちが心配して迎えに来てくれました。(ありがとうございました)まあ、あのころは、暗中模索と言ってもサマにならず親の心配はいかばかりかなど今ごろ言っても始まりません。普通の就職をする気がなくなって、なんとか卒業にこぎつけてワンシーズン天童の果樹農家に出面に行って
・1971年11月末リュックひとつで東京に出て、『食養』に出会って、食は生きることの基本と目覚めて人生が一変したのが1972年、以来自然食玄米食自然療法50年。もともと大石田では、お母さんがゲンノショウコ、ドクダミ、オトギリソウに梅肉エキス、富山の薬でなおしてくれて、医者にいったことなくそれが当たり前の時代でした。
・断食にはまっていた時、結城さんにたのんで左沢の田代?のご実家にお世話になりました。
・1974年、数百人のなかまとともにまるごとひとつのいのちで生きる生き方を求めて沖縄の読谷村から北海道の知床半島まで主にヒッチハイクで列島を縦断、
(昔語りをしてもしょうがないですね、しかも過酷な自然の中で生きるために必死の人々とは已む無い必死さのレベルがそもそも違います)

・30代信州の山の中の一軒家で電気ガス水道ナシの8年半の暮らしの中で二人の息子を育てました。
すでに過疎となった入山部落の入り口の蛇行する入山川の内側に立つ百姓さんの元屋敷でした。すでに村人が入山を下りてから10年当時残っていたのは2軒、そのうちの一軒池田さんは文字通りの百姓で、木曽の山仕事仕込みの大きな手鋸で直径3尺の木を見事に水平に切って見せてくれました。池田さんともう一軒日向のおばさんにはほんとうによくしてもらいました。GIVE&GIVE、文字通りおかげさまでそこで暮らすことができました。。
ままごとでしたけれど、稗、黍、高黍、粟、小豆、大豆、えごま、となんでも作り、覚束ない手つきで、池田さんたちに教えてもらい、農文協刊のバイブル片手に、麹、味噌、醤油、どぶろくとなんでもつくりました。
生坂村の何かの記念に全戸配布された村の航空写真、山襞に埋もれて生きていた人々、今の言葉ではエコロジカルではあろう、しかし、『生きることで精いっぱいだった』『お前たちは本当の貧乏を知らない』と土地の人にいわれました。
そこ清水平の地母神に与えられたのは、三つの言葉、『うむ・はぐくむ・わかちあう』でした。

今回の山形行では、押切さんにお願いして大石田の役場に寄ってもらい、図書館のスタッフさんが用意して下さった昭和30年代の資料を10冊ほどめくることができました。
『写真で見る大石田町史』には生まれ故郷の川端の冬、最上川の洪水の写真もあり、ヤッターと快哉、更に鉄道開通以前の大石田の街並みの一軒一軒の調査の冊子には驚きました。きっともう一度訪れることになると思います。

何も知らず生意気盛りだったころには歯牙にもかけなかったことがあれこれと気になりだし、自分が出現した時空の歴史はどうなっていたのかと姉、弟と一緒に荒木家のファミリー・ヒストリー秘話で一晩盛り上がりました。


文字通りの百姓だった池田の爺さん、明治39年生まれの父(建築大工)、明治43年生まれの母(お嬢様育ちの婿取り)の世代と比べたらなんと生命力のダウンした私、国も敗れて山河もなしの危機にさらされて衰退にひた走るかに見えるこの列島で、それでも何かを子供たち、孫たち、その次の未来の世代に伝えたい、子供たちを信じて。経験も浅く非力な自分に何かできることはあるだろうか?いまその言葉をさがしています。

『この国がこの50年に失ったものを取り戻すには千年かかるだろう』10年前尊敬する先生がオープン・セミナーでふともらした一言です。太平洋戦争を身をもって知る世代に続いて、私たち高度経済成長以前の世の中を知る世代があの世に引っ越します。いつの時代にも変わらないものはあるはず、これをアップデートしたカタチで今様によみがえらせる試みをせめて見守ることのできるおばばでいられたらと願っています。

今度の東北行きでは、何人もの『大丈夫な』頼もしい人々、いくつものシーンに出会わせてもらいました。それは、never give upな人々というよりも、雑草のごとく❝自然発生❞してくるいのちの息吹とも見えます。『この列島の資源は放っておいたらどこにでも雑草が生えること』(藤井平司さん)なのですから。
中でも結城さんにリアルで会えたことはこの先のシニア人生のごっつい骨となってくれるとビビッときています。
どうか御身御大切に(お互いさま)、再会にかさねて感謝します。

関根さん、女同士で盛り上がる機会がありますように、再会のときを胸に、トシなりにですけど がんばりますね。



⤵ 結城登美雄さんの著書のひとつです。統計、数字もバッチリ。(押切さん蔵書)
私には生まれ故郷山形の大石田の 記憶と当時の人々の生命力がよみがえります。


『あわてないで 心配しないで大丈夫』

1105/10000 3月16日(木)2023
今日は、
◆シリーズ 3/15~24 山形・宮城行報告 その① 
 タマキさんへの手紙 です。



 タマキさま

太陽山荘は、なんか空気のようでした。
温泉暖房で24時間ほかほか、お手洗いは至近距離どこにでも、
待っていればご飯、献立は大好きな煮物中心、
そしてとても静か。私は静けさに強いのです。
気分はマリーアントワネット(が地味好きならば)。

いいんだろうか、こんな贅沢させてもらって? いいのだ。
いいのか悪いのかとかそんなせこい世界は雲の彼方へ。
自分史上最高のリラックス・デイズ、
この空気とのチューニングにやや戸惑いつつも
あ~そうかあ、あわてていたみたい、あせっていたみたい
もっとぼんやりタイムが必要なのだったのかのかもなあ、と
ふわ~っと思われたことでした。

パソコンをよいしょと背負って帰りはちゃんと電源アダプターも忘れずに
移動は準備含めるとまる一日がかり、帰ってさすがに三日ほど寝てました。
昨日の午後は、朝の春の雪道、片道45分往復を歩いて用足し、夕方から
まりちゃん推薦の『愛の不時着』を遅くまで見て、
人情の機微に我がハートが反応して心が動き出し、
今朝は快晴、新しいチカラが湧いているのを感じることができました。


『どうして信頼できなかったんだろう』
これは1974年知床半島で運動神経の鈍い私が墜落事故を起こしたときに
息子たちの父ちゃんがつぶやいていた言葉、
この言葉はずっと私の胸にとどまっていました。

二年前パート修行をやめてから私の人生は新たなるステージの
小さなステップを一段、二段、三段と登ってきて、今回の旅は踊り場です。
タマキさん、すべてのお膳立てありがとう。
なんか空気みたい。そうこれが私のやりたいことだから。
すでに100%以上やっている人が目の前にいるのだから、
非力、微力な私が思いだけで意気込むこともないな、と
心が鎮まりました。私なりに小さなステップでやっていこうと。


『焦ったら負けです』
これは、ホビット村のフリースクールで八光流の指圧を教えてくれた木村先生がふっと漏らした言葉です。木村先生は本当に神業名人で何度も助けて頂いた、無料で。
明日29日でパートやめて2年、売りあげを早く上げて早く義理を果たして早くいちばんやりたいことをやろうとすっごいあわててあせっていたんだな、よくがんばったわ、いじらしいと自分をいたわってあげたい。それでなくても私は促成栽培されないヒトなのですからね。促成栽培されない、これは私の強みだ、と最近思うようになってます。

惑わされてもよい、惑ってもよい、スキップできない、ジャンプできない私。
ほっとしました。私自身が、うん、これだわ、と楽にできるところから一歩一歩、
得意の地道でやってゆけばよいんだ、と思えました。

毎日更新のブログ、10日以上抜けた分を、山形・石巻行のレポートで埋めるべく
段取り組んで書き始めました。満100歳まで24年、書くことで最低3倍は生きることができる。Wordに向かうと背筋から喜ばしいものが湧いてくる。うわーっと課題を山盛りにひろげて何も手につかない先延ばしの日々よ、さようなら、になりそうです。

説明過剰な気もするけど、この続き第2部はレポートの最後でまた。
タマキさんと太陽山荘のこと、いつも思っています。


⤵ 露天風呂です。夜10時ころには、西南西に冬の大三角形、沈むオリオン。



『私たちの後の人たちに伝えたいことがある』

1091/10000  2月28日(火)2023
今日は、結城登美雄さんへの手紙です。

三月の半ばに53年ぶりに結城さんに会えることになりました。
結城さんは山形大学文理学部文学科の同期で、結城さんは国文学、私は日本史を専攻しました。結城さんは卒業後広告会社を経営しながら、東北を中心に各地を回り地元の伝統を今に生かす地元活性化の数々の企画を成功させた『地元学』の先駆者にして第一人者です。

結城登美雄様

 ご無沙汰です。50何年ぶりでしょうか。
 結城さんと『再会』したのは、当時やっていた小さな無農薬八百屋の在庫置き場で作業中でした。野菜をくるんであった古新聞紙、確か朝日新聞のコラムに、大石田の本町(もとまち)の雛祭りの記事を見つけ、筆者は結城登美雄さんとありました。
 私たちが子供のころは、三月節句となれば小学生の子供たちが10人くらいでしょうか、一緒になって『お雛さま見せでけらっしゃい』と何軒かの家をまわり入らせてもらって、家の中の路地から大きな雛飾りを見せてもらってお菓子をもらって帰るのでした。この年になると思い出すのは、13歳の夏まで生まれ育った大石田のことばかりです。
 
 三月の半ばから赤倉温泉に参ります。タマキさんが、本の出版のアイディアを出してくれて、その初顔合わせが主な目的です。3年間毎日更新していたブログを見てくれての案です。ブログ、去年は足踏み状態となりましてこの2月から毎日更新を再開しています。❝生まれつき文芸部❞で書くことは好きなのですが、本となるとつい気張ってしまいます。商業出版の勝手を抑えておこうとベテランの出版プロデューサーの配信メールで学んでおります。


 牛馬耕からインターネット、さらにAIの時代へとあっというまのかれこれ80年です。
 ばあちゃん子だった私の母(明治43年生まれ)は言っていました。『太平洋戦争が終わるまでは、ばあちゃんに教えられた通りのことを毎年同じようにやっていればよかった』と。母の最も大切な仕事は、八百万の神々を祀る旬の食べ物とひとつになった年中行事を執り行うことでした。上の息子が生まれる前入院中のお母さんに、その年中行事の聞き取り調査をしたのですが度重なる引っ越しで紛失してしまいました。農文協の『日本の食生活全集』の山形版に今宿の隣の土生田(とちゅうだ)部落の年中行事が載っており近いと思いました。家ごとに子細は違っていたのではないかと思います。大石田に行くことがあったら役場に寄って記録がないかたずねてみたい、昭和30年前半の地図もほしいものです。
 こちらは川端部落の家地図、一番上の姉(昭和12年生)の記憶です。この職業のバラエティにはワクワクしますね。
 わが家が生まれ故郷を後に県庁所在地に引っ越したのは昭和35年、高度経済成長政策真っ盛りとなる時代でした。引っ越す前から川端の金平様のお祭りも、旅回りの一座から町の映画館の二番煎じの映画へと変わっていました。一学年100人二クラスの学校から一学年400~500人8~10クラスの学校へ、その寒々しさ、あとで『疎外』という言葉を知ることになります。それが何かを知りたくてここまで来たぜ、という感じです。

『高度経済成長以来この国が失ったものを取り戻すには1000年かかるだろう』
私の尊敬する先生が言っておられたことを忘れることはありません。
 太平洋戦争体験者がこの世から姿を消すのに続いて、まもなく高度経済成長以前の世の中を知る私たちがあの世に還ります。
 どんな時代になっても変わらないことはあるはず、ここさえ抑えておけば大丈夫とまではいかなくても、倒れずにすむ、
 このメモ書きを後続の世代に渡しておきたい、これは生物のオヤとしての本能でしょうね。
もう一つ、急激にすすむ少子高齢化社会の只中で、私たち年寄りがなるべく元気で現役世代をささえて子供たちをまもる存在として生ききる『シニア心得帳』もわたしなりにまとめておきたい。
 うまいこと、クサくならないことばで、重くならないようにしようと思っています。
 問も答えも自分たちで作っていく他ない道のりをできるだけ軽やかに歩んでいけるように。

 
 豪雪地の大石田のメインストリートに初めてブルトーザーが来た時の違和感と屈辱感、私はそう感じる子どもでした。誰にも言いませんでしたけれど。
 大学に入ると優秀な先輩が『期待される人間像、ここが問題』読みとき講座をやってくれました。そのころすでに一年違っても高度経済成長時代の影響は私たちの方が大きく受けていて年ごとにそれは大きくなっていきました。1965年からのベトナム戦争反対行動に加えて1968年からの大学闘争の時代、私は活動家ではありませんでしたけれど連日キャンパスに繰り広げられるジグザグデモを見ながら,『いったいこれは何なんだ?』それが知りたくてここまで来たぜ、という感じです。
 もっともっと勉強すべきであった、学内外の様子がいかなれ、ずっと後悔しています、素養の欠如に。生きているうちに些かなりとも追いつきたくて、池澤夏樹編集現代語訳日本古典文学全集から始めています。それはそれとして、わけのわからないままここまで来た、その時間を与えられた、これこそは『成果』と言ってもいいのかもしれません。

 何年ぶりになるでしょう、気分は修学旅行です。結城さん方のプロジェクトの見学もセットしてありとても楽しみにしています。結城さんと会えることもあって『コモンズ』『社会的共通資本』などの情報が次々と入ってきます。時代は中世に回帰しつつあるような気もします。過去からも現在からもいいとこどりして穏やかな世の中になっていきますように、心からの願いです。数の少ないお子たちが安心してスクスク育つ世の中の礎になろうと小さな胸に決めております。
 あれやこれや、山形に行く前に、書きたいこと、胸から出てくることのリストだけでもできればいいなと思っております。

 お会いできる日を楽しみに。
                            しう子 拝

ニンジンのシリシリ、卵ナシ、生です。
グリーンは豆苗。このところの定番。

                     

『ナオコさんへの手紙』

1087/10000 2月24日(金)2023

今日は、ナオコさんに手紙を書きながら自分の思いを言葉にして確かめます。
ナオコさんとは1976年からの大切な友達、80歳を過ぎて東京の都心部の公営住宅に
お住まいです。お一人暮らしでいらっしゃいます。

ナオコさんへ

お電話ありがとうございます。
何か私にできることがあるといいのですけど。

 またお引越しなのかしら。2年ごとなんですものね。多くない年金暮らしの都民が2年ごとに引っ越さなけらばならない、しかも1DKで公営住宅で家賃7万とは。
行政、政治の方に、政治の貧困の見直しを求めるとともに、すぐには埒があかないでしょうから、私たちでできることを探しましょう。
・都内で激安物件を探す
 不動産業の友達、国立の友人に聞いてみることができますよ。
・東京を離れて家賃負担を減らす
 図書館に歩いて行ける距離
パソコンを備えてニュース、動画、論文などを見る、読む
 パソコン、はじめは億劫かもしれません。行政でもシニア向けの講座、今もあるでしょうか。気のおけない友達に教えてもらったらすぐ覚えられますよ。すぐ覚えられなくても気にしない、ナオコさんのペースでね。(プロバイダー料以外は無料で読めます。惜しいところで「この続きは有料」も多いです)

 年を取ると、環境が変わるのは重労働、その前に環境を変えるのも億劫ですよね(長年住み慣れた一軒家を引き払ったときのご苦労、今もお偲びしております。あら、昔のことを蒸し返して、私としたことが。)

 物件探しも、引っ越しもどなたかご一緒して下さる方、いらっしゃいますか?
実は、私『自立とは依存先があること』、この世界にデビューしてこの春で3年目になります。何もかも一人でヤラネバ、と思い込みかなりテンパっていたと気づきはしました、でもまだ100%慣れて習熟してはいません。
『なんだ、私なんて他人の寄せ集まりじゃない、アラキシウコなんているのか?』とハタと初めて腑に落ちたのは20年ほど前でした。パートやめてかれこれ2年、「孤軍奮闘ではできない、私のやろうとしていることは」この事態に気づき、『なかまからまたお客さんからフィードバックもらいながら創っていこう』教えてもらってこの新境地に辿り着き相乗効果が見せてくれるものってどんなんだろう、と覗っているところです。


 お友達のお母さまが、息子さんに誤解されてガスと水道に触ってはいけないと申し渡されたとのこと、お辛いですよね。コミュニケーションのなさり方がきっとありますよ。お辛いですよね、などと他人事として話してる場合か、私も片足の半分くらい突っ込んでますからね



 一方でムクムクと湧いてきているのが,『ほがらかばばぢからクラブ』なるシニア哲学です。
『 少子高齢化社会でも、若い人にネグレクトされたり馬鹿にされたり蔑ろにされることなく、年季と年の功を活かして、現役世代をささえてお子たちをまもる存在として凛として天寿をまっとうしましょう。お子たちが安心してスクスク育つ世の中の礎になりましょう』



問題を見つけて答えを自分たちでつくっていくほかない時代に突入しています。果たして地球とともに人類がもつのか、あらゆる面で衰退の一途を転落するかに見えるこの国が滅亡せずにすむのか。
しかしどんな時代になっても変わらないものはあるはず、まだまだビギナーだけれど、時の恵みによって与えらえた、これは本当だとカンじていることを伝えていこう。なかでもこの国にとってのまっとうな誇りとは何かをさぐり言葉にしあっていこうとしています。



 『一分でも長くこの世にある人はその一分だけでも尊敬に値する』、臨機応変に対応する必要はあるとしても、でもこれは一つの基本だと思っています。
友達のお母さまと息子さんが、私と私の息子たちも、お互いに敬意をもって言葉を交わせる、そんな穏やかなあたたかい世の中になりますように。
そのためのコミュニケーションの方法を、思案し、リサーチしますね。お互いに上から目線で言い合うのは辛いですよね。私も探ってみます。
しかし、このことは個人的な努力だけで間にあうものではありませんよね。私たちがその中で息をしている世の中の空気が変わらないことには、そのためには政治の仕組みを変えることが必要です。
 どちらも いずれにしても 今朝目が覚めたら一変していた、とはいかず、先の見えない道だとしても、ベイビー・ステップで実現したことの方にフォーカスするようになりました。。



20年以上前『このままではイヤだ、なんとしても人生を変えよう』と内側から湧き上がってきたとき直面した、自分の自信のなさ、いったいこれは誰に与えられたものなのだろうか?
ご存じの通りこの国の子供たちの自尊感情の低さはいわゆる先進国の中でダントツの最下位です。
 時を経て今、私はないがしろにされる年寄りになってしまう自分がイメージできません。
人口の統計を見てさすがにこの急変、私たちシニアの激増と現役世代の激減には慄然とします。それでも、それだからこそ伝えるべきものを伝えていこう、と私の意志ではないところから聞こえる声に従っていこうとしています。


図1-1-3 年齢区分別将来人口推計



 予報ではこの先の一週間は昼の気温は+10度まで上がると出ています。東京は梅が見ごろでしょうか。早春の日々 穏やかでありますように。戦争が終わりますように。(祈)
 どうかおひとりで抱え込まないで下さいませ。お願い申します。どうかご無理なきよう。


『だが、私の血は、まだ容易にこの自然に浸って余生を過ごそうなどどいう気にはなれない。/ ーこの私の八十の血は、まだ依然として独立(独り立ち)の楽しみを欲し、さわぎやまぬのである。』(中村きい子 『女と刀』)

白菜の芯に新芽









『のりこ姉ちゃんへ』

1084/10000 2月2日(木)2023

今日のカテゴリーは、◆手紙集で、一番上ののりこねえちゃんに宛てて書きます。
私たちは昭和7年から25年までの7人兄弟で、私は四女、一番上ののり子姉ちゃんは、『姉ちゃん』と、下の二人は『ていこねえちゃん』、『ゑい子ねえちゃん』と名前を付けて呼んでいました。私は3人の姉に面倒見てもらってとてもかわいがられて育ちました。いまだにその状態が続いていてちょっとコンプレックス、ていこねえちゃんはすでに世を去りました。
トシを取ると、善し悪し、価値評価といったものがたいていは消えて、ただいっしょにいたことが懐かしく思い出されるようになるものですね。

集合している人たちのイラスト(女性) | かわいいフリー素材集 いらすとや
まあ、いろいろあって当たり前、
生きてることに感謝して、と。


のり子姉さま
 
お誕生日おめでとうございます。お手紙せねばと思いつつ先に頂いてしまいました。 同じ2月生まれ、毎年覚えていて下さってありがとうございます。
お父さんは95歳だったんですね。ねえちゃんもあと10年は大丈夫ですよ。

九重流詩吟、45年のキャリアになるんですね!『 継続は力なり 』、ですものね。
おなかから声を出すのって全身に、特に心臓にいいっていいますよね。
足腰から弱るってほんとですね。テレビのラジオ体操とかどうでしょうか?
ひとりだとやる気が出ないかな、近くの歩いて行ける公民館でやっていませんか?

ゑい子さんとこ、利明くんとこもみな元気で何よりです。
お子たちは大きくなるの早いですね。こちらのみいちゃんも大学受験で勉強に精出しているようです。関東の大学志望なので二郎叔父さんと連絡を取っています。


前に送ってくれた川端部落の家の地図、とても貴重なもので大切にしています。
賢ちゃん、ゑい子さん、利明くんにコピーを送って、月一回大石田の思い出の手紙交換会しようかと思っています。連休までには第一信送ろうかな。
だいぶ前から思い出すのは大石田のことばかりです。


こちらは予報では、向こう一週間日中プラス、10度まで上がる日もあるそうです。
山形ではフキノトウ、もうすぐですね。大石田の春、思い出します。
ウロカの屋敷の立派な塀の日陰に雪を溶かして顔を出すフキノトウ、
中学校に通う朝、固雪に伸びる桑の木の陰、
雛祭り、雛壇、くじら餅、お供えのイワシ,寿司、
列をなして子供たちがメインストリートの家をまわるのでした。
❝お雛さん、みせでけらっしゃい❞ お菓子を貰って次の家へ~。




牛や馬で耕し冬は馬橇の暮らしから、パソコン、A Iの時代まで,私たちまあ、よくやってますよね。お母さんは言ってました。「太平洋戦争が終わるまではばあちゃんに教わった通りに毎年同じことをやっていればよかった」と。生まれ育った家を解体して県庁所在地に引っ越すときお母さんはどんな気持ちだったのでしょうね。解体する前と解体中、解体後の写真、昔の大橋の写真、父の若いときの写真、まだ残っていたら見てみたいですね。


実は3月に赤倉温泉まで行きます。
私のブログを見てくれていた友達が『本を出版しよう』と企画してくれてその打ち合わせの初顔合わせです。ブログ去年の5月まで3年間毎日書いていたのです。上手下手は抜きで。
生まれつき好きだった『書くこと』で一仕事しようかなと、今年の私の誕生日から毎日更新を再開しています。
新千歳-仙台往復です。帰りに山形によって会えるかも、スケジュールみてみますね。

今日はこの辺で。
元気でいて下さいね。        しう子より

生まれ故郷の川端の家地図。職業の多様性にご注目。