『やすらぐということ』

1390/10000  月暦4月3日 太陽暦5/10(金)

「毎日更新」がまたまた3日空いてしまいました、ちょっと前なら
空きを埋めて追いつかネバとテンパっていたのだけれど
あっさり降参、「ま いっかペース」をゲットしております。めでたし。

20日ほど前から、① 小さなバケツ一杯の銀杏の実の皮むきをしてその皮にかぶれた
② 春になって、春の野草三昧の日々となり、冬の間にたまった毒がでてきた
③ 課題をサクサク進めるための必要としていた技術を教えて頂いて、
ほっと心がやすらいだ途端に、ここ2年分のストレスがどっと出てきた
と3っつ重なって眠くて眠くて、毒出しに身を任せて眠れるだけ寝ていました。
ほっとやすらぐと、こらえて押さえられていたストレスが出てくるものなんですね。
3年前パートをやめたときも寝込みました。
おかげさまでメドがついた感じで、少しづつ本業の課題を片付けるべく動き出しています。
「心機一転も少しづつ」と悟りました。


不調のメリットを数えると
① もう寝るしかない 眠ることが出来る
② 強いだけが人生じゃないと実感する 
人情の機微に黙って寄り添えることができるようになるかもしれない
③ 胸の奥に座って動かない自分の真実を確認できて強化できる、
過ぎ去った後に、ですけどね。

意気込まない、テンパらない、慌てない、焦らない
「あせったら負けだ」八光流柔術指圧針灸治療師の木村師の声が聞こえる。

もう一つ、最近、ペコちゃんに教えてもらったのが「立腰教育」
それと合わせて、YouTubeで丹田の養ない方、ナンバ歩きを見て
ヘソを立てるように心がけていることもあって
胸のつかえが消えて、自分をせっつかなくなってきました。めでたし。


こんなにやすらげたの生まれて初めてかも。
てんこもりの課題はまだそのままで見た目は変わらないのですが
一挙に片付けネバとあわてず少しづつのペースに慣れようとしています。

チゴユリ。小さな花がうまく撮れたら本望です。

『ヨモギ摘みが終わった』

1389/10000  月暦3月29日 太陽暦5/7(月)


気づいてみたら 待ち焦がれたフキノトウからすでに2か月
フキノトウ、タンポポ、ノカンゾウ、ヨモギ、ツクシと続き
ツクシの酢漬けは今年はほんの数本、
今はスギナの出たばかりのを摘んでいます。

ヨモギは摘み終えたことにしました。
以前は魂詰めて摘んでいたのに、
すっかり ま、いっかペースにチェンジしています。

🌿ヨモギの摘み方・干し方は
・排気ガスのかからない、ごみの落ちていない
・姿よく生えているところで
やっぱり出初めは力もあり、うまいと思う。
はじめからヨモギ以外の他の草が混ざらないように摘みます。
大きくなった先端は摘みやすい、
でも間延びした感じで苦みが入ってきます。

お湯を沸かして、
摘みたてのヨモギをサッとくぐして
冷水にさらして、しぼって
ほぐして一本一本きれいにざるに並べて
天気のいい日は1日で乾きます。
カリっと乾いたら
それをジップロックの袋に入れて
『ヨモギ2024」とシールを貼って保存します。



⤵ 今年のヨモギはこれで保存、スギナはもう少し摘みます。
銀杏は乾燥しなおし中、友達に分けて早めに食べてもらいます。



苦みが出る前は、熱湯をくぐして、グリーン・ジュースに
ハンカチに残った「カス」は米粉に練り込んで
だんごかチャパティに、この季節の楽しみです。

MY LITTLE GARDENの「よもぎ畑」はまだ小さいのが摘めますが
舗道のぐいぐい伸びているのの先端を少しもらって
何にするかというと、光合成菌の培養の大きなペットボトルに入れました。
今日は寒いですけど、30度以上になる日に備えているわけです。

薬草の薬効は1年といいますから
1年たったら浴用剤になります。
同じように、ゲンノショウコとオオバコを干して保存します。
生家の土間にかかっていたゲンノショウコがよみがえります。


⤵ ナシの花、寒空のもともってくれてます。借景です。 

『GWレポート』

1388/10000  月暦3月28日 太陽暦5/6(日)

今日はゴールデン・ウイークの最終日、
GWだからと言ってそれほど変わったことはないのだけれど、
おととい上の息子が鹿追方面に連れていってくれました。
最初のお目当ては、「神田絵里子さんの絵画展」@福原美術館です。
光透む美しい十勝の光と水と木々花々が実物そのままに、実物よりも透明に写されています。
コレクターの方が詰めておられて撮影可でした。ちょっと暗いですけど。

それからかねてより一度行きたかったナイタイ高原迄。けっこう距離がありました。日本一広い牧場で東京ドーム358個分の面積だそうです。穏やかに晴れて観光客が道外ナンバーを含めてたくさん止まっていました。
牧場に向かう道沿いにはスモモの木の並木が、白い花は5分咲きでした。
雪が降ると帯広から北方に白くなった草地が見えて気になっていたのです。

それからタウン誌で見て気になっていた「PEACOCK」というケーキ屋さんに寄りました。54年前に京都から入植、近くにお菓子屋さんがないので自分でつくりはじめてお店のオープンから25年とおばあさま。昭和な感じ、甘さ控えめ、手作り感が伝わってきておいしかったです。写真を撮らないで食べてしまいました。

帰り道、音更のDCM(元のホーマック)で籾殻燻炭の大袋をゲット、これでMY LITTLE GARDENの準備OKです。堆肥や肥やしを使わなくなった5年くらいになるかな。


さすがに農村部では、大きな鯉のぼりを何軒かで見ることが出来ました。堂々と泳いでおりました。

連休の前半、ここ中通りでは車も人も通らず、その静けさがしみわたりました。静かさを忘れていると気づかされました。


今年は花が一斉にそれも勢いづいて咲いていると、東京から、松本から、ここ帯広でも、いつもなら6月の落ち着いた緑の中に咲く紫の花がすでに満開、ジューンベリーの花もこんなに早かったかな。気候変動のさなかにいるのだと実感します。

最後はスミレを、こちらはいつも通り。濃い紫のスミレ、舗道から移植したのがMY LITTLE GARDENでこの春増えていてうれしいです。

おかげさまで 銀杏の皮にかぶれたのから始まった春の毒出しがメドつきまして、またコツコツ仕事に向かいます。気張らんとまったりやすらぎの中でできそう、おおげさなこともない新境地です。

『鯉のぼり~㈷子供の日』

1387/10000  月暦3月27日 太陽暦5/5(日)

 今日は子供の日です。
 わが家は息子が二人、満46と40歳です。母にとってはいつまでもわが子、自身の人生は子どもを授かってからといっていいくらいです。
 それで今年も鯉のぼりを掲げました。かわいかったので100円ショップで新調して、数年まえに同じく100円ショップでゲットしたもののひもを補強して下げました。


  わが家のご近所では鯉のぼりがひとつも見えません。どうしてもだんごが食べたくなって
小一時間かけて自転車でだんごやさんの大福亭に向かう道すがら、ついに一軒、ありました!
大きな鯉のぼりを上げているお宅が。その近所のつくし幼稚園さんではグランドの空にずらりと鯉が泳いでいました。昨日鹿追まで行ったらさすがに農村地帯では、数軒堂々たる鯉のぼりが泳いでおりました。

わが家の鯉のぼりは、思いは溢れてはおりますが、ちいさいしチンケなのは否めません。それは子供のころの鯉のぼりが原体験としてあるからです。
 鯉のぼりの竿は杉の一本木、軒下に保存してありました。5月節句になると、父と兄たちが鯉のぼりを立てるために出稼ぎ先から帰って来ます。てっぺんには杉の木の青葉を飾ります。
大きな鯉のぼりを朝に上げて夕方にはおろします。吹き流しがなかったので、母が、建前(我が家は大工でした)の飾りの五色の旗を縫い合わせて作ってくれた時はうれしかった、ややさめた鯉のぼりの色とはミスマッチな鮮やかさではありました。


 軒下には、ヨモギと菖蒲を挿して厄払いして無病息災を祈ります。風呂は菖蒲風呂です。
五月節句といえば、笹巻です。だんごともち米のと二種類、笹の葉に包んで蒸して、煮ます。 お母さんが、です。 一緒に手伝えばよかった。 笹の葉は子供会で朧気川沿いのささやぶに取りに行って一軒一軒回って売って子供会の活動費にしました。
 実家を離れてから、もち米のを食べたいとわがまま言って母に笹の葉をスゲの糸での結び方を教わろうとしましたが一回では覚えられませんでした。今では年中売ってますが手が伸びません。


 鯉のぼりの竿は、県庁所在地に引っ越したときトラックに積み込んで持ってきましたが、いつのまにか折れてしまった、と父か母か兄かが言っていたのを耳にしました。両親と兄たちの喪失感、父の喪失感を、今になって思いやります。それを意識していただろうかとも。あるいは、意識してあらたに何らかの伝統をつくるのは、私たちの次の世代になるのかもしれません。生活に追われて鯉のぼりどころではなくなり、山形市では上げたことがあっただろうか。
帯広市内ではほとんど見なくなった鯉のぼり、高度経済成長以前の町ではどの家にも鯉のぼりがたなびいていたものです。この違い、私たちの生命力、時と季節と一体になった暮らし、なによりも子供のすこやかな成長を祈り願うこころそのものはどうなっているのか、つらつらと思われてうすら寒くなったりもしますが、街であうお子たち、お散歩の園の子供たち、わが家の大学生とまもなく2歳の孫姫と、目の前の子供たちがいるのですから、人の道としてまもってあげなければなりません。
 わが家の鯉のぼりは月歴の五月五日まで出しておきます。

『清水平便り~『須貝アキラ 追悼集』より』

1386/10000  月暦3月26日 太陽暦5/4(土)



「私たちが信州の清水平にいたとき(1977~85年)獏原人村、大鹿村、小谷村などと、山人同士でひんぱんに行き来しあった。
 そんな冬前のある日、清水平の小さな谷に、アキラとシャイアンが大鋸担いで現れた。ヒッチで来てくれたか、軽トラだったか、ヒッチだったような気がする。そして一冬分の薪を切って帰って行った。囲炉裏で玄米を炊いて清水平の野草山菜でうまい飯を食べた、と思う。
清水平の山と川の谷の中に、今もその時のアキラとシャイアンの姿がはっきりとと見える。
 このシーンは、私の生きるよすがの一つなのです」



 ここに引っ越してからの13年分の片付けを始めたところ 早速出てきた清水平の資料が3冊、そのうちの一冊、『足に土 原人・アキラ 須貝 アキラ 追悼集』1998年「人間家族編集室」刊)から、私が寄せた「大鹿の空にあまねくなったアキラよ」から清水平関連を中心に抜き書きしてみます。


 「昭和35年ー高度経済成長政策本格化、60年安保闘争、三井三池闘争。1965年アメリカ軍
ベトナムに北爆開始∼ベトナム反戦と大学闘争の60年代後半。(私は活動家ではなかった。でも構内で毎日繰り返されるデモを見ながら「いったいこれはどういうことなのか?」それが知りたかった。2015年夏にそのジグソー・パズルのピースがピタッとはまった。)
 5年かかって大学を卒業後、フツーの就職をする気のなかった私は、リュックひとつで当時高田馬場の線路沿いにあった「ヤマギシ会」の案内所をたよって東京に出た。1971年暮のこと。
 当時、岸田哲ちゃんたちが「キブツ協会」をやっており、神宮前の事務所で「コミューンの会」が定期的に行われていた。(中略)
 60年代後半の空気がまだたくさんあって、金銭経済至上主義社会の歯車の部品として生きるのではなくて、全身でいのちまるごとで生きることを求め、模索する者たちが磁石のように引き合って、期せずして「人間家族」が自然発生していった。(中略)

 私たちにはごく当たり前のそして不思議な縁。自在闊達な中世の血と遺伝子の濃いもの同士か?いずれにせよとてもラッキーな同時代体験だった。日常の生活の中で見え隠れしながら、変わらずにフレッシュ、エネルギーの源泉となっている。70年代の10年から80年代にかけてバカバッカシ沢山やった。(今でもそれほど変わらないか)めいっぱい初めっから、教科書なしに不器用に経験体験を共にしあった。ホント、ラッキーだったよね。一方過酷な試練に耐えられなかったなかまもいたことを忘れない。


「アキラのおかげだね」「アキラがみんなをあわせてくれてるね」「もうこんなに一堂に会することないよね」 (中略)地元、大鹿のみんなの、アキラを送る気持ちがひしひしと伝わってくる。
 大勢の子どもたちがうれしい、頼もしい。(すっかりババ気分)
  🎶はなればなれにならず はなばなをまなび はなばなのみちを
   よそおいかるく あるいていけよ🎶
うちの太郎と二郎も忘れないでね。太郎も二郎も、アキラの野菜をもりもりべて食べて大きくなったのです。二郎がおなかにいるとき、南瓜やいろいろ何十㌔も大鹿から送ってくれて、清水平の入り口から担いで家に運んだ。身重の私がかついだことも気遣ってくれたアキラを思いだしてまたうるうる。
 みんな髪に白いものが混じっている。心の中にはしっかりと原石が座っている。はじめて会った頃と少しも変わっていない。キリキリイライラカリカリ、神経戦に憂き身をやつしていたころがなつかしい、トシの功、トキのチカラ、角が取れはじめているかな。
「まだまだこれからだ」電話口の向こうで。アキラの声が静かに落ち着いていて頼もしい。病の床に臥す少し前のこと。」



 それにしてもこのアキラの追悼集はすごい!1970年から28年、追悼文をよせたなかまの多くが50歳前後の働き盛り、以来26年が経つ。よくぞ編集発行してくれたものだと唸ります。 世の中の動きが併記されたアキラの年譜迄編集されている。 当時の息吹き、年月ともに世事のなかで忘れそうになる初心が鮮やかに、当時よりも深くシブく蘇ってきます。
『うむ・はぐくむ・わかちあう』この三つのことばを与えてくれた清水平のことを、今あらためて書きとどめておこうとするとき、新たに手に出来たこの追悼集の力の大きさはなかなか言葉にしきれないものがあります。
 昔語りではなく、いまとこれからの時代に、次の世代とともに考え合い、行動し合うことを念頭に清水平のことをあらためて書いてみます。


『祝・憲法記念日~希望を数える』

1385/10000  月暦3月25日 太陽暦5/3(金)

今日は憲法記念日である。
政府は憲法制定当初の数年間、憲法記念日に式典を挙行してきたが「すでに国民の心の中に充分に浸透・定着していると考えられる」として政府としての式典をやらなくなって久しい。
日本国憲法の3原則、主権在民、基本的人権の尊重、平和主義の三原則は国をしばり、私達主権者の安全の後ろ盾となっているべきものであるけれど、このところの加速度的にひどさを増している暴力的な憲法の破壊活動は留まるところを知らず私達主権者もそれをやめさせる力を十分には結集できていない。

 でもこんな品も気骨もまっとうな誇りもない方々が当たり前だと、子供たちに感じさせてはならない。だからあくまで希望情報にアンテナを立てている。

+ 先日の国政補欠選挙では、3つともまずまず立憲野党候補が圧勝
+ 日米合同員会会場のビルの前で対米自立のアピール行動が始まっている
+国会前では若い女性を中心とした人々が定期アクションを始めている
+コロナとワクチンの実態が広汎に知られるようになり集会、デモには万単位で終結
+2015年夏以来この列島各地で「安保法制は違憲」の抗議行動が続いている
+戦後民主主義世代の限界を突き抜けるダイナミックでユーモア、ゆとりある表現が
あちこちで出現
+オリライの楾弁護士は身体を張って全国をかけまわっている
+鈴木宣弘教授は、この国の食糧危機を訴えて連日列島中を飛び回っている
+「日本中学生新聞」の川中だいじさんは中学2年生
+当地、十勝選出の石川香織衆議院議員は頼もしい。政治の話がとても分かりやすくて
気さくなお人柄
+大中小の憲法の学習会が各地で継続されている
+映画会、講演会、学習会が引きも切らず開催されている
+江戸時代、明治維新から歴史をとらえ直す研究が出てきた
+地産地消、農家直営の野菜販売、レストランが増えていてどこもおいしい
+ネガティヴ情報の陰で、現場の前線でがんばっている人がたくさんいる
 ・外国人労働者の人権をまもる活動家 ・働きやすい職場になるためのコミュニケーション専門家 ・教師をまもる専門家 ・介護の現場を楽しくしようとしている専門家 ・中小企業を元気にとがんばっている士業の方々
+ + +

 尊敬する経営コンサルタントの先生が言っておられた「高度経済成長後にこの国が失ったものを取り戻すには千年かかるだろう」と。世代をつないでリレーしていきたい。使えるべきものを伝えたい。
 アヤしい情報、危険な情報もネットには花盛りというか跋扈しているというか。骨のある歴史をとらえかえして、平和的生存権をなんとしてもまもりたい。戦争だけはなんとしても止めねば。できることが少なくてもどかしいけれど、小さくても行動をやめることが出来ない。諦めることができない。
 この列島ではほおっておけばどこにでも草が生える、この生命力がこの国にはある。大きく見える瘡蓋を突き破ってツンツンと新芽が萌え出てくると信じたい。その環境、生かしてくれている自然~海、山、大地の破壊は今止めなければ取り返しがつかないことになると気があせる。(特に、樹木伐採、太陽光発電パネル、大規模風力発電、リニアモーターカー工事)
 
 素晴らしい日本国憲法がまもられるように、戦争をすることがないように、戦争に巻き込まれることがないように、その判断と選択ができる主権者が増えるようにと心から祈り願っています。
 ㈷ 憲法記念日