『忘れていない初心~50年以上前のこと』

1080~1086/10000  2022 4月28日 木曜日
 今日は、久しぶりに、◆子供らに寄せてのうち、私の自分史で、私の大学時代のことを
書きましょう。

 というのも、応援してもらっているFACEBOOKの友達Tさんから「Yさんに相談してみたら」とメッセージがあって、思いがけない案に、お!いいかも、と反応して、Yさんとはもう50年以上会っていないので、挨拶から書き始めたわけです。
 Yさんは山形大学の同級生で国文科、学費を貯めてから大学に入ったので私より三つくらい先輩です。長く広告会社をやった後、地元の東北を中心に、地元伝統の 農林水産の生業 と文化の 継承と創造 、『地元学』を立ち上げた、その道の第一人者です。
 あ、そうそう、何の相談かというと、私のミニ起業『自分史探検サークル』の内容と情報宣伝の相談なのです。Yさんは、国文科・広告宣伝業・地元学の実践と何十倍も人生の大先輩なのです。
 こちらが、Yさんへの手紙です。  

Yさん           2022 4月28日~

ご無沙汰です。突然ごめんなさい。
❝Sさん❞もお元気ですよね。
 Sさん(パートナーさんです。同級生でした)、ご無沙汰です。しうこです、私も75歳ですよ。北海道は十勝地方帯広に住んで37年になります。町じゅうコブシ、サクラ、ウメ、モモ、レンギョウが満開、今日はサクラも強風で散り始めています。
 Yさんのことは、農文協通しで、チラチラ拝見しておりました。御意でございます。そうそう、八百屋をやっていた時、25年くらい前でしょうか、在庫置き場で販売の準備をしているとき古新聞に Yさんの 大石田の雛祭りレポートが載っていて、びっくりというより シンクロニシティを感じて大仰でない喜びがじわっと広がったことを忘れません。月歴の三月節句、子供たちが一団となって,、❝お雛さん見せでけらっしゃい❞と挨拶して家々をまわり、路地(家の中の土の通路)からお雛さまを見せてもらってお菓子をもらうのでした。

 私アナログ75歳のミニ起業『自分史探検サークル』のことで相談させてくださいませんか? 今日はこのことで手紙を書いております。


 1969年秋、かもしか温泉まで迎えに来てくれてありがとうございました。あの後私は、冬前まで秋田犬と一緒にかもしか温泉の周囲の蔵王の山の中を庭のごとく歩き 高山の秋に目を見張り、冬枯れの山の藍色の中のイタドリは「イタドリのベンガラという」と登山者のお客さんに教わりました。 かもしか温泉、跡形もなく消えてしまったんですね。あの地形なら大雨が来たら無理もない、私たちが無事だったのが不思議だったかもなど思われておりました。

 ここで夏の終わりから初冬迄を過ごし、大学に戻り 人文学部に鞍替えはしませんと学生課に言って(ワケが分かっていたわけではありません。生物的なカンだけで)文理学部最後の卒業生のひとりとなりました。(たしかもう一人いたようです)卒業論文は『伊藤野枝の生活者』、日本史専攻なのに古文が読めず (恥)野枝の全集は一冊だけだったのでこうなりました。卒論を上げるために当時の私としてはものすごく勉強しました。大学時代もっともっと勉強しておくべきでした。後悔しています。

 ベトナム反戦と大学闘争のあの頃、私は活動家ではありませんでした。でも、連日構内に繰り広げられるジグザグデモを学生会館の坂の上から見ながら、占拠された学生会館で占拠している全共闘の連中とだべりながら、『いったいこれは何なのだ?』と身体が反応して、それが知りたくてここまで来たぜ、という感じです。
 この問いへの答えは、2015年夏安保法制反対行動の最中に読んだ山本義隆さんの『私の1960年代』で、ぴたっとジグソー・パズルのピースが嵌りました。大学一年の時、優秀な一年先輩方が合宿で❝『期待される人間像』、ここがおかしい❞、の読み合わせをやってくれたことが鮮やかによみがえりました。皆でガリ版を切ってテキストをつくっての合宿でした。
 もっと早く気づいて、原因を探りアクションをつくれて継続していたら、もちろん私一人ではなく、この列島中で、この国の目も当てられない眼前の体たらくに陥ることはなかっただろう、「この国は戦争とは無縁」と脳天気にのほほんとしていた戦後民主主義世代として臍を噛む思いで、柄にもなく苦手な政治にちょびっとだけ首を突っ込んでいます。本音は若い人のうしろによぼよぼとついて行きたい。

 一方で立憲民主主義の限界も感じていて、その周辺の、また別の生き方、視点にも注目しています。芸術、文化、ビジネス~網野史学、地生え・海生え・心映えな自然なコミュニティ、アジール、コモンズ、テリトーリオとかにです。駅から10分の古い物件に1人暮らししているだげですけど、志向は、です。自分のコミュニティ、アジールの準備としても取り組み始めたミニ起業を成立させたいのです。

 ご両親が尾花沢のTさんとは、FACEBOOKで共通の古い仲間を通じて友達になりました。私が13歳まで生まれ育ったのは大石田の川端で目の前の最上川が私の原風景です。
 “最上川逆白波の立つまでに吹雪く夕べとなりにけるかも” 茂吉
この年になると思いだすのは高度経済成長前の生まれ故郷のことばかりです。
 
 私は、遅くて長くかかるんですよね。よくいえばじっくり、でしょうか。大石田から県庁所在地に引っ越してのこの違和感とは何か?、それが知りたくて60年以上、大学構内のジグザグデモってなんなんだ?それが知りたくて50年近くがあっというまにたってしまいました。残された限りある人生を考える時期に入っています。



 一年前約15年にわたるパート修行(これも長かった)をようやくやめて、いざ『しうこばーばの自分史講座』を立ち上げてはみたものの全然勝手がわかっていなくてこの冬まで呻きまくっていました。そこから脱しかける光が射しててきたところでこの手紙を書いております。
 ご教示お願いできますれば幸甚です。

不完全版ですけど、完全を期したらいつになるかわからないのでこれ迄書いたものをラインナップ致します。

① 自己棚卸し
ネーミング  キャチコピー  コンセプ
自分史手帖
④ モニターを募集する
⑤ 情報宣伝告知作戦
(これからコピペして調整します。明日には送りたいところです)


 75歳でのミニ起業、「あと10年早かったらな」と思わないこともありません。ITもSNSも新しいことはすぐ覚えられないし。最近覚えつつあるのは、『急ぐときこそ、少しづつ少しづつ、あわてないあわてない。』
 自分がアンテナ立てていると、77歳で起業した方の情報をはじめとして、今必要としている情報が次々と入ってきます。4月の末に 77歳までの3年計画『喜寿プロジェクト』を立てました。今できることからトシなりのスピードで小さい一歩小さい一歩を重ねております。
 よろしくお願いします。


 以上 Yさんへの手紙でした。
大学時代のことを初めて書きました。自分史、なかなか書ききれるものではありませんね。70過ぎてようやく自分のたどってきた道を振り返るニーズが湧いてきた気がします。『掘り出し物は我が身のうちにあり』、このことを知ってほしくて『自分史探検サークル』を始めています。
 では、Yさんへの手紙の続きを編集しますね。

★『はがき一枚からはじめる自分史探検 3か月モニター募集!』
ご関心おありの方は、
FACEBOOK Shiuko Araki のメッセンジャーまでどうぞ。


今年の春は、ここにもあそこにもと満開のサクラが
町じゅうに溢れていました。去年まで気づきませんでした。