『もし文部省教育の体育が4だったら』

毎週木曜日は、◆子供らに寄せて
① 子供たちに伝えたいこと ② 私の来し方を振り返る の内今日は②です。

★ 私は小学校一年のときから、学校の体育、当時は“体操”といった、がまるでダメだった。走るの遅い、せめて目立たないでビリになりたかった。ボールはこわい、ダンスにはついていけない、オクラホマ・ミクサー止まり、跳び箱は跳んだ記憶がない、それに長縄跳びに入れない。ひたすら耐えた。口に出せるようになったのは30代の半ばを過ぎてからだ。耐えることとアクションして前に進むことを取り違える癖があるのはこのあたりに起因しているのかもしれない。そういえばお手玉もできなかった。

 運動会、何が面白いのか?グランドに釘が落ちていて足裏にけがをして休めますようにとイメージした。一度もそんなことはなかった。運動会は最大のビッグイベント、母が重箱に沢山ご馳走をつめて見に来るのも、なんか悲しく苦しかった。

 中学では、運動会のマスゲームで同じ位置に来れなかった生徒を教師は殴った。転校するとまさにイメージ通りの体育教師だった。高校も以下同文。

★ 明るい光が射してきたのは、大学2年の教養課程で、体育の先生が、卓球だったと思う、分解してこうすればできるようになると教えてくれたのだ。
 『思想の科学』誌で、からだの動かし方は文部省の学校教育のやりかただけではない、と知り始めてもいた。
高校の時その体育教師が、クロールを分解して教えて殆どの生徒がたちまち泳げるようになったのを見ていた。私は何かの事情で乗り遅れてその中に入らなかった。

★ 浪人していた時の夏、殆ど毎日馬見ヶ崎川の市民プールに通い練習した。家でテキストを繰り返し見て、NHKの夏休み特番の水泳教室に目をこらしてはプールに通う日々だった。しかし、平泳ぎが前に進まない。それを見ていたビキニ姿の素敵な女性がアドバイスしてくれて私はついにスイスイ前に進むようになった。
 プールで覚えたので川と海では、足が立つか確かめてから泳ぐ。それは泳げるうちに入らないという人もいる。それでも泳ぐのが一番リラックスする。姉は最上川を横切って向かいの横山まで泳ぎ着いていた。帯広ではうりぼう(ニックネームです)に拓成川の奥に連れて行ってもらい、子供達、犬のクロも一緒に泳いだ。札内川で善男善女に混じって泳ぐのも楽しかったな。
 私は身体を動かすのが好きなのだ。来世の職業の候補の一つは振付師である。盆踊りは大好きで寝ながら踊っていた。北海盆唄は動作が二つだけだし。“しうこ、もう帰ろう”(山形・大石田弁で)いやいやながら姉たちと家に帰った。


★ 他の学科はそこそこできてずっと学級委員長もやっていたのでこの落差が私の人生に与えた影響は小さくない。お情けで5段階評価の3がついたけれど実力は1だった。もし4がついたら、悩みも苦しみも殆ど体験することなくフツーに会社員か公務員になってのほほんと生きたかもしれない。

★ なぜ できるようになるやり方を教えることなく評価が固定されるのか?殴られるのか?居残りで練習させられるのか?
 できるようになる方法、技術はないのか?楽しめる程度で十分だ。
 数年前テレビかSNSで、体育専門の家庭教師さんがいるのを見て、これよ、これ!と狂喜した。体育の苦手な子供達よ、そこそこでもできるようになるやり方があるんだよ!

★ この国の体育の授業は明治維新以来貫かれている富国強兵の国策軍事教練だったのだと今では知っている。一人一人の尊厳を足蹴にしてめくら滅法に突き進み完敗した。太平洋戦争敗戦後75年、今この国は戦わずして敗戦に突き進んでいる。、私達のいのちと暮らしを足蹴にして。

帯広市稲田浄水場のハルニレの木、樹齢200年  木登りもダメでした。今となってはいいんんですけど。
できない!とそこで立ち止まってしまっただけかもしれないコワガリータの私です。それにしてもな・・思案続きます。

『水上がり』

毎週木曜日は、◆子どもらに寄せて
①子供たちに伝えたいこと ②私の来し方 の内今日は②で
先週に続いて 最上川の洪水 のことを、姉からの手紙で記します。

★ このところ、いちばん上の姉との手紙のやりとりが続いています。「山の畑」に続いて
洪水のことも、速攻で来ました。息子の弘ちゃんがこのブログが見えるようにしてくれているのでしょうか?

 姉からのこの紙で記憶がよみがえったことがあります。
・そうだ!「水上がり」といってたんだ、洪水なんていわなかった。
・大正12年のことはそういえばお父さんたちが話していた。
・ろうず、そうそう、家の玄関から土間の道が裏まで通っていて、ろうずといってたな。

 ねえちゃんからの手紙をワープロします。


        『水上がり』    のり子83才の思い出

 昭和27年5月 15才 山形へ行くまでの間に何度(水が)上がったことでしょう。(そうだったんんだ)父が出稼ぎに行って母と子供達だけ、二人の兄はどうだったのか?
 朝めがさめて路通 ローズに下駄がぷかぷか浮いていたよ。皆んな家族の集まる所は座敷が高い。玄関より土間の暗いろうずが通っていた。(そうそう)
 テレビもラヂオも無い時代 天気予報も知らされず 大石田方面はあまり雨が強く降った様子もないままに、月山系の200m(ミリ)降れば最上川が氾濫する。その後月山ダムが完成する。
六年生の春には雪どけで道よりも十段もの石段(そうそう、家の前は階段になっていた)を上った所に家がたっていたのに入り口まで水が来てあれほどあった雪が(豪雪地帯です)どんどん流れていった。家の裏出口から通りに行けた。
 ある時家の前 道路まで水が来てる時に南通りの叔母さんが手伝いに来てた。エツ子(母のこと)早く物を上げんべハー(←大石田弁です)と言うとまだエエとあせらない腰のすわった母でした。

父の婿入り桐箪笥 仏壇を二階に上げる。一間180㎠二段の戸棚はロープにて吊り上げる。一番大変なのは囲炉裏 りんご箱をならべて上げる。それでも水が上がって来たら(りんご箱を)二段重ねで。(囲炉裏も上げていたか) 畳はくるくると巻いて上へあげる(厚床ではなくうすべりだった。うすべりから質素なものであったけれどやや厚床になった)それから床板をはづして上へ

姉の詳細な記憶。米櫃は大きかったな。お膳はお祭りのときなど。



みんなで二階で暮らす 土間が乾くまで。本当は子どもながら(だったので)二階での生活が楽しかった

 昭和30年頃か父と兄達が山形で仕事してた時に知らせが有り車で駆けつけると新町川(これは朧気川だと思う、新町川とも言っていたのかもしれない。最上川の支流です)の橋(もちつき橋)の手前で低い道が冠水、又もどり国道13号線尾花沢より川端の家に入る

大正12年の大水には2階へのハシゴ上から二段目まで上り向かいの杉林の所に二家有った家が流されてない(そうだったんだ)

 堤防を作る話となり
堤防と同じ高さに土を持った所に家を建てるなら良いが大石田一坪500円山形市あこや町1万円 立ち退き料として50万円出た(昭和35年です)引っ越しに30万円かかった(家を解体していたな。解体して立ち退く前に並びの3軒、佐藤?叶内・荒木 を撮った写真があったけれど今となってはおそらく再見することはないだろう)
堤防ができて川端(生まれ育った部落、22軒)に残った何軒かは新築する。(堤防の下に。金平様も移転)その後川下の小マス(屋号です)まで堤防ができたときに川下より水が上がり沼の中に(沼状態となった)三日間も水が引かない。元トナリの叶内さんの母がボートで救助されたニュースを見た

 何の手伝いもせずに最上川の流れ思い出しごみなげ場あたりへ時々行って魚釣りしても知る人は少ない 、釣り人も代がわり(井刈くんのお父さんが網をうっていたなあ)昔の魚はブラックバスに大きい口で、ハヤ、オイカワ、フナ食べられてしまう。
 堤防の下で(生まれ育った家は今は堤防の真下)育った荒木です。なつかしくて来たよ。舟に上がって洗い物すると魚が列を組んで泳ぐ姿がもう無い

最上川 大橋 川端部落の住人のごみ投げ場、増水した川がきれいにしてくれる。プラスチックのなかったころ。 板舟は鍛冶屋さんの。毎年のようにはす向かいの黒滝から舟大工さんが来てつくっていた。私達の遊び場、無事故。 ゑい子姉ちゃん六年生、撮影はあんつあ(上の兄)貴重な写真。ねえちゃんが同封してくれました。私達きょうだいの原風景です。



 
 



『洪水』

毎週木曜日は、◆子供らに寄せて
今日は、生まれ故郷の洪水のことを書いておきます。

 生まれ育った家の向かいには家がなく最上川の岸の林だった。大石田町川端、その名の通りである。この林に生えていた木々については来週に書きましょう。思い出す暇がなかったのだろうか、歳と共に思い出すのは、13歳、1960年に県庁所在地に引っ越す前のことばかりだ。

毎年洪水になったのは小学校4年くらいからだったろうか?戦争前にも洪水はあったらしい。我が家は真っ先に床上浸水するのだった。大雨になり水が上がってきそうになると、裏の鍛冶やさんに電話を借りて、父と兄ふたりの山形市の出稼ぎ先、南部建設に電話する。汽車で一時間半、父たちが帰ってくる。台所の大きな戸棚二つを一階の天井にロープで吊る。一階の床板をバールで全部剥がす。家が川に持って行かれないようにである。

 井戸が濁る前にまず水を汲む。二階の大きな木桶に水を汲みあげる。父の大工の師匠の妻=父の姉が大量の握り飯を握っている。さっと親戚が駆けつけてくるのだ。男手も来てくれていたと思う。夜中寝ずに水の上がり具合を見ながら、『前の洪水のときは階段の何段目を残すところまで来た、あの時ほどではない』『引いてきたぞ』とか語り合っていたから。全員二階に避難しているのだ。私が覚えている最高水位は階段の2段か3段を残すところまで来たときだ。最上川の中流域でゆっくりと上がってくるのだった。家の中まで来ない水はたびたび出てのんきに道路にあふれてきた水をこいで遊んだ。

 最上川がその流域を押し広げて濁流が勢いつけて流れていく。テレビもなくラジオも聞いていただろうか、行政からの避難指示はあったのだろうか、経験と知恵で静かに川に対処していた。事故といえば見回りの消防団のひとがうちの裏の肥溜めにはまったことがあるくらいなものである。私の覚えている限りではです。

 引きつつある川の水に弟は庇から小便をした。そういえばトイレ、どうしていたのだろうか?覚えていない。いかだをつくって流している人もいた。食べ物は握り飯で、『日にちが立つと腐るので今度は〇〇にした方がいいね』と親戚の手伝いにきてくれたおばさん方が話していた。6年の時には隣のまこと君が『(水が出て)海浜学校にもっていくものが用意できなくなる』とべそをかいていた。今なら『まこと君大丈夫だよ』と寄り添うだろう、しらっと傍観してないで。

水が引くと役場からDDTが支給され水につかった部分に散布するので家じゅう真っ白になる。乾くまでその年の天気にもよるけれど一か月くらいかかったような気がする。床板をはりなおしてもとの暮らしに戻る。

 全然怖いと感じることもなくどちらかというとわくわくしていた。それは家族、親戚、町の人々にしっかりとまもられていたからだと今は思える。わくわく、は人間の知恵と手を超えるもののワンダーになにか甦るものを身の内に感じるからだ。3年ほど前の十勝川の大水の時は、自転車で十勝大橋ー帯広川、札内川、との合流点(点ではなくなっていた)ー札内大橋迄まわった。

 やがて堤防工事にともない荒木家は先祖伝来の地を立ち退き県庁所在地に引っ越した。


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毎週木曜日は、◆子供らに寄せて
今日は、生まれ故郷の洪水のことを書いておきます。

 生まれ育った家の向かいには家がなく最上川の岸の林だった。大石田町川端、その名の通りである。この林に生えていた木々については来週に書きましょう。思い出す暇がなかったのだろうか、歳と共に思い出すのは、13歳、1960年に県庁所在地に引っ越す前のことばかりだ。

毎年洪水になったのは小学校4年くらいからだったろうか?戦争前にも洪水はあったらしい。我が家は真っ先に床上浸水するのだった。大雨になり水が上がってきそうになると、裏の鍛冶やさんに電話を借りて、父と兄ふたりの山形市の出稼ぎ先、南部建設に電話する。汽車で一時間半、父たちが帰ってくる。台所の大きな戸棚二つを一階の天井にロープで吊る。一階の床板をバールで全部剥がす。家が川に持って行かれないようにである。

 井戸が濁る前にまず水を汲む。二階の大きな木桶に水を汲みあげる。父の大工の師匠の妻=父の姉が大量の握り飯を握っている。さっと親戚が駆けつけてくるのだ。男手も来てくれていたと思う。夜中寝ずに水の上がり具合を見ながら、『前の洪水のときは階段の何段目を残すところまで来た、あの時ほどではない』『引いてきたぞ』とか語り合っていたから。全員二階に避難しているのだ。私が覚えている最高水位は階段の2段か3段を残すところまで来たときだ。最上川の中流域でゆっくりと上がってくるのだった。家の中まで来ない水はたびたび出てのんきに道路にあふれてきた水をこいで遊んだ。

 最上川がその流域を押し広げて濁流が勢いつけて流れていく。テレビもなくラジオも聞いていただろうか、行政からの避難指示はあったのだろうか、経験と知恵で静かに川に対処していた。事故といえば見回りの消防団のひとがうちの裏の肥溜めにはまったことがあるくらいなものである。私の覚えている限りではです。

 引きつつある川の水に弟は庇から小便をした。そういえばトイレ、どうしていたのだろうか?覚えていない。いかだをつくって流している人もいた。食べ物は握り飯で、『日にちが立つと腐るので今度は〇〇にした方がいいね』と親戚の手伝いにきてくれたおばさん方が話していた。6年の時には隣のまこと君が『(水が出て)海浜学校にもっていくものが用意できなくなる』とべそをかいていた。今なら『まこと君大丈夫だよ』と寄り添うだろう、しらっと傍観してないで。

水が引くと役場からDDTが支給され水につかった部分に散布するので家じゅう真っ白になる。乾くまでその年の天気にもよるけれど一か月くらいかかったような気がする。床板をはりなおしてもとの暮らしに戻る。

 全然怖いと感じることもなくどちらかというとわくわくしていた。それは家族、親戚、町の人々にしっかりとまもられていたからだと今は思える。わくわく、は人間の知恵と手を超えるもののワンダーになにか甦るものを身の内に感じるからだ。3年ほど前の十勝川の大水の時は、自転車で十勝大橋ー帯広川、札内川、との合流点(点ではなくなっていた)ー札内大橋迄まわった。

 やがて堤防工事にともない荒木家は先祖伝来の地を立ち退き県庁所在地に引っ越した。


外観
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 たび重なる毎年の洪水に高度経済成長政策が加わり、我が家は立ち退き山形市に引っ越した。

『田沢道は一里』

毎週木曜日は、◆子供らに寄せて
今日は、私の来し方を振り返るシリーズで、先週に引き続き、ちょうど10歳年上で83歳の
姉の手紙をワープロで打ちます。

=のり子姉の思い出 ③=
のり子姉が山形に理容師の奉公に行く前ですから、昭和20年代中ごろまでのエピソードです。

☆ 町役場よりの回覧板で、『あっかあ と呼んだ おかあさん と言いなさい』
(母を、あっかあと呼ばずに、「お母さん」と呼ぶように、と役場からのおふれが来た+私は山形市に引っ越して中学3年か、高校進学対策もあったのだろうか、自分を,おれ と呼ぶのを止めて わたし と呼ぶ練習を級友とやった。おおいにてれながら)だったらおっかあだったのかね、お父さん

☆ ごしゃかれた(おこられた)ことはあまりなくて

☆ (今年の)5月に金山(町)までドライブ。錦鯉がおよいでいる小川を見に。見えなかった。どの川かわからぬ。(父は金山町の岸一族の仕事をしに行ったことがあると聞いている+金山は私は行ったことがなくて一度行ってみたい。岸家の林業の町とのこと)

☆ おばなざわ13号を通った時に岩袋(いわのふくろ)とおり思い出す。ここまで父は仕事に歩いて来てた。その帰り俄雨になりびしょぬれ 家に着くと、子供達が居るのに誰もカラカサ持って出迎え様ともしないと、母をしかる時もあった。持って行く傘が無いのかも。
(毎年からかさやさんが注文取りに来て、母は子供たちのカラカサをつくってくれた。きれいな花模様とか手書きで描いてあり油紙と竹製。閉じると、それぞれゑい子、しう子と名前が筆書きで書いてあった。そういえば男物の利明くんのは覚えがない。変わり目だったのだろうか?)

☆ 富並の実家(ここから父は婿に来た)や来迎寺のおばさん(父の妹、蕎麦打ちの名人)宅へ行って米をを背負い雪道を二里8㎞も歩いてがんばってくれた。元気な体 ありがとう。(確かに父は丈夫だったと思う)

☆ てい子妹つれてお祭りに行ったよ。私が赤飯がきらいで窓からおばさんがへやにこないうちにすてようかとなやむ子供 てい子と二人(今は大好きです)
(母の名代で、私も、父の大工の弟子の健三郎さんの今宿のお祭りに行ったことがある。立派なお膳にお祭りのご馳走が並び借りてきた猫のように頂いていると、突然おなかがいっぱいになった。小学校低学年、2年か3年だったろうか?)

☆ 雨が降り田沢まで行ってー一里、のちにバスが通る、もどった時も有りました。
(田沢道は一里。直線道路。遠い遠いと母たちが言っていた。一度自転車で行ったことがあるような気がする、山形に引っ越してからだろうか?
田沢道で忘れられないことがある。冬、田沢に行った父が夜になって寝る時間になっても帰って来ない。酒を飲み途中で雪の中で寝てしまっているのではないかと、確か母とてい子姉で、ていこ姉とゑい子姉だったろうか?、提灯を下げて田沢道まで父を迎えにいったことがある。私と弟はその夜の決着は知らずに寝てしまった。あの時父は無事だったのだ、と今でもふと胸を、あとになって撫で下ろすことがある)

☆ ワープロに打ちながら、原風景が、全くと言っていいくらいに変わってしまっていることが迫ってくる。当時は皆歩いていたのだ。父は、鳥海山まで歩いて行って登ったと言っていた。農業人口が50%を超えていて、殆どの人が身体で生きていた。
大石田は職人の町だった。今職業訓練所があって、還暦の同級会の時、大工さんが何人もいて「大石田の大工は腕がいいんだ」と誇りを持っていた。父は、大石田の姉の夫に弟子に入って大工になっのた。

化学農薬以前の世界である。明治生まれの父たちの世代と比べたら生命力はいかがなものかと思案する。父は父なりに90まえまで曲がった腰で自転車に乗っていた。頑張らなくちゃな、と思う。

『山の畑のこと』

毎週木曜日は、◆子供らに寄せて

今日は、私の来し方を振り返るシリーズで、山の畑のことを書いておきます。

 レンゲツツジが咲きだすと、山の畑を思い出す。レンゲツツジは、家々に植栽されているツツジより大振りで逞しい。新緑の勢いの中に太陽の日差しに負けじとワイルドに咲き誇る。山の畑に行く道すがらあちこちに咲いていた。

 山の畑は、おそらく太平洋戦争中に開墾したのではないだろうか?今度のり子姉に聞いてみよう、覚えているかもしれない。

 家のある川端部落から南へ、新町、今宿を過ぎたその奥の山の中にあった。ダート(舗装道路などというものはなかった)の道を大八車をひいてとことこ歩いていく。大八車には鍬、それに弁当が積んである。肥え桶も運んだと思う。秋には収穫を積んで帰るのだ。大八車は普段は土間に立てかけてある。リヤカーでいったこともある気がする。近所の、誰だったろう?井刈さん?誰かと共同作業で一緒に行った。山の畑は、留守を守っている母の担当である。

 あまり手伝いもせず、サツマイモを掘ったことを覚えているくらいだ。あの白いサツマイモ、黄金色でない、もう一度食べたい。品の良い甘みがおいしかった。

  今頃なら畑のまわりでワラビを収穫した。秋にはアケビを取ったような気がする。春には「木の芽」=アケビの新芽をとったのを覚えている。木の芽、もう一度食べたい。信州で食べてみたけれどずいぶん違っていた。乾燥地だからかもしれない。

 昼時になると、泉(泉などどしゃれた呼称はなかったけれど)から水を汲む。山の中の木立の中の地面を掘ってそこに水が湧いているのだ。この泉の水、もういちど飲みたい。握り飯と煮物と漬物も食べたい。

秋になると、家の前に、大豆、ゴマを立てかけて干す。ゴマには巨大なゴマ虫がうようよと這いまわっている。ゴマも作っていたのだ。

小学校4年だったと思う。お母さんが山の畑の途中で,行きか帰りかどっちだったんだろう、大八車か、リヤカーから落ちた。肩の骨が折れてしまった。包帯でつって谷地の骨接ぎまで通った。国鉄とバスを乗り継いで一日がかりだった。お母さんが地に行く日には南通りの婆ちゃんが私達の面倒を見に来てくれた。私たちは手厚く守られていたのだと今思う。

 家庭菜園という言葉もなく野菜は殆どの家で作っていた。化学肥料も化学農薬もなかった。イナムシカンカラカンという行事の日があり、夕方農家の子供たちが、確か柳の枝を振りかざして、今年は稲に虫がつかないように、と歌いながらメインストリートを練り歩くのだった。あのころの母の料理が食べたい。

 1960年、高度経済成長政策と共に我が家は県庁所在地に引っ越した。

学校が休みの日にはついていって遊びに行った。

『“女のくせに”と言われたことはない』

毎週木曜日は、◆子供らに寄せて

今日は、“私の来し方を振り返る”シリーズで、いつも心にあることのひとつを書いておきます。

★ 私は、生まれ育った家で、“女のくせに”という言葉を聞いたことがない。あるいは7人兄弟の中で私だけかもしれない。

父が入り婿だったことはそう大きな原因ではないような気がする。

夫婦喧嘩はよくしていたけれど父が母に手をあげることはなかった。だからDV男は許せない。

姉3人も私も、キャリアウーマンというタイプではなく男と同等に、男を押しのけてとかには関心がなかった。もちろんバリバリ仕事なさっている女性は尊敬します。

★ 母は今でいう専業主婦で、私の記憶では外に働きに行ったのは一度だけ。両羽銀行大石田支店の新築工事の現場に友達と掃除に行ったときのみである。仏壇の下の引き出しに女学校時代のたくさんの賞状や鉤針編みの見本集など詰まっていた。でもそのことで、尋常高等小学校卒の父を見下すことはなかった。

でもすごいびくびくもしていて、出稼ぎから父たちが帰ってくるとなると、『ごしゃがれっから=怒られるよ』と子供たちを脅して掃除をさせた。わたしは父は怒る人と刷り込まれてしまた。ばあちゃんこだった母は怒られたことがなかったのかもしれない。顔もろくに見たことのないひとと結婚したのだ。

母も男を押しのけてでもなんていうタイプではさらになく、そんな場面ででしゃばることはなかたけれど、家の中では、『一番えらいのは母、肝心要では母の存在』ときょうだい全員雰囲気で感じていた気がする。父に知られたら怒られることは隠して子供たちをかばってくれたりもした。

★ そんなこんなで、うまくまとまらないけれど、わたしはモロにフェミニズムではない。もちろん、女だからと見下す男はスルーしているけれど。キーキーピーピーな男女同権も違うと感じている。

家事育児に賃金を、というのもピンとこない。だからといって女の過剰負担に鈍感な男もパーだと思っている。

★ 『女は男の二倍働ける』 

これは私の人生を決めた言葉のひとつだ。

別に、肉体的に、ではなく、気働きのことだ。

特に『場をつくる』こと、動きやすいように、働きやすいように場をつくること。

男が持っているのは半島で、女は,からだの真ん中の下の安定のいいところにまるい島を持つ。男が飛び出そうとするとき先回りして、その切っ先をまるく包み込もうとする。

これは『男という性』『女という性』のことで、必ずしも目に見える男、女のことではありません。まもろうとする男も選びます。

★ 大きな実績があるわけでもなく、ビギナー婆の域に入っているので勢いのいいことはもはや言えないけれど、

女に生まれてラッキー、生まれ変わったらまた女、そしてゼッタイ専業主婦!と決めている。台所大事、菜園、花壇、編み物にいそしみ、素晴らしい音楽と本に囲まれてのほほんと暮らすのである。 

“”

『行き違いの悲しみ』

毎週木曜日は、◆子供らに寄せて
今日は、私の来し方を振り返ります。私の自分史の1ページです。

☆ 小学2年か3年のころだったと思う。家を出て川に向かおうとしている私に隣のまことくんのお母さんが声をかけてくれた。「しう子ちゃん、いいもの持ってるね」

その言葉に私の胸にズキーンと鋭い痛みが走った。私は赤い魔法瓶の水筒を持っていた。中のガラスが割れてしまい、母に言われて私はそれを捨てに行くところだったのだ。(不用になったものは川に捨てる、のんきな時代だった)

最上川の岸の林についた、小さな流れにそった小道、緑の中に水筒だけが赤い。そんな記憶がある。

このことは私のはじめての行き違いの記憶である。

☆ 哲学者のマルティン・ブーバーが自伝の中で書いている。父と母の離婚のことを近所の友達の女の子に告げられた時の衝撃を。祖父母は高貴な人で世の常のことを口にすることがなかったのだ。
(私、ブーバーと誕生日が同じです)

☆ 生きていれば行き違いだらけだ。なるべく避けようとはするものの致し方ないことのほうが多いだろう。わが身を振り返っても無知な若いときはいうに及ばず、今でも自分の言動にしまったと臍を噛むことが少なくない。一生引きずっていくかもしれないこともある。

時には行き違い転じて福となることもないこともない。

☆ 行き違いの悲しみの因と極力ならぬように心しておこうと、そのときは言葉にはならなかったけれど、あのときこの願いが私の中に生まれたのだった。 

『五月節句のこと』

毎週木曜日は、◆子供らに寄せて

今日は、こどものころの思い出で

『五月節句』のことを記録しておきます。思い出す限り。

★ 100円ショップで買った小さな鯉のぼり、二棹(でいいか?)今年出してきたのは、五月六日だった。
終わってるじゃないか?と言われても内心あまり気にならない。子供のころ県庁所在地に引っ越すまでは、年中行事を中心になりわいが営まれて、その殆どは旧暦、つまり月歴によっていたからである。機械的に、であるが、なに六月五日まで出しておけばよい。

★ 五月節句が近くなると、子供会で朧気川(おぼろげがわ)に笹の葉を取りに行く。はけご{藁で編んだバッグ)を持って。それを十枚(だったと思う)に束ねて、川端部落22軒一軒一軒まわて売りに歩き、子供会の活動費用の足しにするのだ。

★ 母は、五月人形を出す。そう豪華なものはなかった。

五月節句の一番大きな仕事は、笹団子と、何と言っていたのだろう?笹で作った三角の筒にもち米を入れて蒸すの、この二つを母は一日がかりでつくる。

かまどに薪を燃やし飯釜にごんごんお湯を沸かし、その上にセイロをのせる。

もち米を蒸したのはきなこをつけて食べる。もち米を入れる笹の筒(というか、テトラパックのようなもの)は確かスゲ{だったと思う)で結ぶ。この結び方、笹の葉の筒の作り方を、家を離れてから一度教えてもらったことがあったような気がする。でも大人になってからの一回では覚えられなかった。
いつか教えてもらいたい、覚えたい。

★ もう一つの大仕事があった。鯉のぼりを立てることだ。これは父と兄の仕事だ。

天高く上がるように、長い杉の木を立てる。いつもは軒下にしまってある。てっぺんには杉の葉をつける。鯉のぼりの由来はきいたことがあったかもしれない、忘れてしまった。吹き流しは、母の手縫い。建前のときの五色の旗を縫い合わせたものだ。我が家は大工だったから。

この杉の木の棹(でいいのだろうか)は、出稼ぎ先から男手が帰ってくるまで立っていた。杉の葉は赤く変色した。

この棹は、山形市に引っ越すとき、大事にトラックに積み込んで持って来た。しかしもう立てられることはなかったと思う。そして寝かせている間に折れてしまった。

★ 五月節句の準備が終わると、夕方に茅葺屋根にヨモギと菖蒲を挿す。頭には菖蒲のはちまき、風呂は菖蒲湯。魔除けと無病息災を祈る。菖蒲とヨモギの香りに、季節、自然、時、今ここの場所、恵み、畏れを全身で感じ取る。

菖蒲はどこで刈ってきたのだろうか?記憶がはっきりしない。

★ 高度経済成長政策がこの国を席巻するまでは、このような暮らしだった。私の一家ではもう部分的にでも復元継承することは難しいけれど、

高度経済成長以前の暮らしの一端と、未来への新たなる継承の願い止まずの思いを記しておきます。

太平洋戦争体験者に続いて、高度経済成長以前の暮らしを知っている世代も間もなくあの世に引っ越すことになる。