『もし文部省教育の体育が4だったら』

毎週木曜日は、◆子供らに寄せて
① 子供たちに伝えたいこと ② 私の来し方を振り返る の内今日は②です。

★ 私は小学校一年のときから、学校の体育、当時は“体操”といった、がまるでダメだった。走るの遅い、せめて目立たないでビリになりたかった。ボールはこわい、ダンスにはついていけない、オクラホマ・ミクサー止まり、跳び箱は跳んだ記憶がない、それに長縄跳びに入れない。ひたすら耐えた。口に出せるようになったのは30代の半ばを過ぎてからだ。耐えることとアクションして前に進むことを取り違える癖があるのはこのあたりに起因しているのかもしれない。そういえばお手玉もできなかった。

 運動会、何が面白いのか?グランドに釘が落ちていて足裏にけがをして休めますようにとイメージした。一度もそんなことはなかった。運動会は最大のビッグイベント、母が重箱に沢山ご馳走をつめて見に来るのも、なんか悲しく苦しかった。

 中学では、運動会のマスゲームで同じ位置に来れなかった生徒を教師は殴った。転校するとまさにイメージ通りの体育教師だった。高校も以下同文。

★ 明るい光が射してきたのは、大学2年の教養課程で、体育の先生が、卓球だったと思う、分解してこうすればできるようになると教えてくれたのだ。
 『思想の科学』誌で、からだの動かし方は文部省の学校教育のやりかただけではない、と知り始めてもいた。
高校の時その体育教師が、クロールを分解して教えて殆どの生徒がたちまち泳げるようになったのを見ていた。私は何かの事情で乗り遅れてその中に入らなかった。

★ 浪人していた時の夏、殆ど毎日馬見ヶ崎川の市民プールに通い練習した。家でテキストを繰り返し見て、NHKの夏休み特番の水泳教室に目をこらしてはプールに通う日々だった。しかし、平泳ぎが前に進まない。それを見ていたビキニ姿の素敵な女性がアドバイスしてくれて私はついにスイスイ前に進むようになった。
 プールで覚えたので川と海では、足が立つか確かめてから泳ぐ。それは泳げるうちに入らないという人もいる。それでも泳ぐのが一番リラックスする。姉は最上川を横切って向かいの横山まで泳ぎ着いていた。帯広ではうりぼう(ニックネームです)に拓成川の奥に連れて行ってもらい、子供達、犬のクロも一緒に泳いだ。札内川で善男善女に混じって泳ぐのも楽しかったな。
 私は身体を動かすのが好きなのだ。来世の職業の候補の一つは振付師である。盆踊りは大好きで寝ながら踊っていた。北海盆唄は動作が二つだけだし。“しうこ、もう帰ろう”(山形・大石田弁で)いやいやながら姉たちと家に帰った。


★ 他の学科はそこそこできてずっと学級委員長もやっていたのでこの落差が私の人生に与えた影響は小さくない。お情けで5段階評価の3がついたけれど実力は1だった。もし4がついたら、悩みも苦しみも殆ど体験することなくフツーに会社員か公務員になってのほほんと生きたかもしれない。

★ なぜ できるようになるやり方を教えることなく評価が固定されるのか?殴られるのか?居残りで練習させられるのか?
 できるようになる方法、技術はないのか?楽しめる程度で十分だ。
 数年前テレビかSNSで、体育専門の家庭教師さんがいるのを見て、これよ、これ!と狂喜した。体育の苦手な子供達よ、そこそこでもできるようになるやり方があるんだよ!

★ この国の体育の授業は明治維新以来貫かれている富国強兵の国策軍事教練だったのだと今では知っている。一人一人の尊厳を足蹴にしてめくら滅法に突き進み完敗した。太平洋戦争敗戦後75年、今この国は戦わずして敗戦に突き進んでいる。、私達のいのちと暮らしを足蹴にして。

帯広市稲田浄水場のハルニレの木、樹齢200年  木登りもダメでした。今となってはいいんんですけど。
できない!とそこで立ち止まってしまっただけかもしれないコワガリータの私です。それにしてもな・・思案続きます。