『田沢道は一里』

毎週木曜日は、◆子供らに寄せて
今日は、私の来し方を振り返るシリーズで、先週に引き続き、ちょうど10歳年上で83歳の
姉の手紙をワープロで打ちます。

=のり子姉の思い出 ③=
のり子姉が山形に理容師の奉公に行く前ですから、昭和20年代中ごろまでのエピソードです。

☆ 町役場よりの回覧板で、『あっかあ と呼んだ おかあさん と言いなさい』
(母を、あっかあと呼ばずに、「お母さん」と呼ぶように、と役場からのおふれが来た+私は山形市に引っ越して中学3年か、高校進学対策もあったのだろうか、自分を,おれ と呼ぶのを止めて わたし と呼ぶ練習を級友とやった。おおいにてれながら)だったらおっかあだったのかね、お父さん

☆ ごしゃかれた(おこられた)ことはあまりなくて

☆ (今年の)5月に金山(町)までドライブ。錦鯉がおよいでいる小川を見に。見えなかった。どの川かわからぬ。(父は金山町の岸一族の仕事をしに行ったことがあると聞いている+金山は私は行ったことがなくて一度行ってみたい。岸家の林業の町とのこと)

☆ おばなざわ13号を通った時に岩袋(いわのふくろ)とおり思い出す。ここまで父は仕事に歩いて来てた。その帰り俄雨になりびしょぬれ 家に着くと、子供達が居るのに誰もカラカサ持って出迎え様ともしないと、母をしかる時もあった。持って行く傘が無いのかも。
(毎年からかさやさんが注文取りに来て、母は子供たちのカラカサをつくってくれた。きれいな花模様とか手書きで描いてあり油紙と竹製。閉じると、それぞれゑい子、しう子と名前が筆書きで書いてあった。そういえば男物の利明くんのは覚えがない。変わり目だったのだろうか?)

☆ 富並の実家(ここから父は婿に来た)や来迎寺のおばさん(父の妹、蕎麦打ちの名人)宅へ行って米をを背負い雪道を二里8㎞も歩いてがんばってくれた。元気な体 ありがとう。(確かに父は丈夫だったと思う)

☆ てい子妹つれてお祭りに行ったよ。私が赤飯がきらいで窓からおばさんがへやにこないうちにすてようかとなやむ子供 てい子と二人(今は大好きです)
(母の名代で、私も、父の大工の弟子の健三郎さんの今宿のお祭りに行ったことがある。立派なお膳にお祭りのご馳走が並び借りてきた猫のように頂いていると、突然おなかがいっぱいになった。小学校低学年、2年か3年だったろうか?)

☆ 雨が降り田沢まで行ってー一里、のちにバスが通る、もどった時も有りました。
(田沢道は一里。直線道路。遠い遠いと母たちが言っていた。一度自転車で行ったことがあるような気がする、山形に引っ越してからだろうか?
田沢道で忘れられないことがある。冬、田沢に行った父が夜になって寝る時間になっても帰って来ない。酒を飲み途中で雪の中で寝てしまっているのではないかと、確か母とてい子姉で、ていこ姉とゑい子姉だったろうか?、提灯を下げて田沢道まで父を迎えにいったことがある。私と弟はその夜の決着は知らずに寝てしまった。あの時父は無事だったのだ、と今でもふと胸を、あとになって撫で下ろすことがある)

☆ ワープロに打ちながら、原風景が、全くと言っていいくらいに変わってしまっていることが迫ってくる。当時は皆歩いていたのだ。父は、鳥海山まで歩いて行って登ったと言っていた。農業人口が50%を超えていて、殆どの人が身体で生きていた。
大石田は職人の町だった。今職業訓練所があって、還暦の同級会の時、大工さんが何人もいて「大石田の大工は腕がいいんだ」と誇りを持っていた。父は、大石田の姉の夫に弟子に入って大工になっのた。

化学農薬以前の世界である。明治生まれの父たちの世代と比べたら生命力はいかがなものかと思案する。父は父なりに90まえまで曲がった腰で自転車に乗っていた。頑張らなくちゃな、と思う。