『洪水』

毎週木曜日は、◆子供らに寄せて
今日は、生まれ故郷の洪水のことを書いておきます。

 生まれ育った家の向かいには家がなく最上川の岸の林だった。大石田町川端、その名の通りである。この林に生えていた木々については来週に書きましょう。思い出す暇がなかったのだろうか、歳と共に思い出すのは、13歳、1960年に県庁所在地に引っ越す前のことばかりだ。

毎年洪水になったのは小学校4年くらいからだったろうか?戦争前にも洪水はあったらしい。我が家は真っ先に床上浸水するのだった。大雨になり水が上がってきそうになると、裏の鍛冶やさんに電話を借りて、父と兄ふたりの山形市の出稼ぎ先、南部建設に電話する。汽車で一時間半、父たちが帰ってくる。台所の大きな戸棚二つを一階の天井にロープで吊る。一階の床板をバールで全部剥がす。家が川に持って行かれないようにである。

 井戸が濁る前にまず水を汲む。二階の大きな木桶に水を汲みあげる。父の大工の師匠の妻=父の姉が大量の握り飯を握っている。さっと親戚が駆けつけてくるのだ。男手も来てくれていたと思う。夜中寝ずに水の上がり具合を見ながら、『前の洪水のときは階段の何段目を残すところまで来た、あの時ほどではない』『引いてきたぞ』とか語り合っていたから。全員二階に避難しているのだ。私が覚えている最高水位は階段の2段か3段を残すところまで来たときだ。最上川の中流域でゆっくりと上がってくるのだった。家の中まで来ない水はたびたび出てのんきに道路にあふれてきた水をこいで遊んだ。

 最上川がその流域を押し広げて濁流が勢いつけて流れていく。テレビもなくラジオも聞いていただろうか、行政からの避難指示はあったのだろうか、経験と知恵で静かに川に対処していた。事故といえば見回りの消防団のひとがうちの裏の肥溜めにはまったことがあるくらいなものである。私の覚えている限りではです。

 引きつつある川の水に弟は庇から小便をした。そういえばトイレ、どうしていたのだろうか?覚えていない。いかだをつくって流している人もいた。食べ物は握り飯で、『日にちが立つと腐るので今度は〇〇にした方がいいね』と親戚の手伝いにきてくれたおばさん方が話していた。6年の時には隣のまこと君が『(水が出て)海浜学校にもっていくものが用意できなくなる』とべそをかいていた。今なら『まこと君大丈夫だよ』と寄り添うだろう、しらっと傍観してないで。

水が引くと役場からDDTが支給され水につかった部分に散布するので家じゅう真っ白になる。乾くまでその年の天気にもよるけれど一か月くらいかかったような気がする。床板をはりなおしてもとの暮らしに戻る。

 全然怖いと感じることもなくどちらかというとわくわくしていた。それは家族、親戚、町の人々にしっかりとまもられていたからだと今は思える。わくわく、は人間の知恵と手を超えるもののワンダーになにか甦るものを身の内に感じるからだ。3年ほど前の十勝川の大水の時は、自転車で十勝大橋ー帯広川、札内川、との合流点(点ではなくなっていた)ー札内大橋迄まわった。

 やがて堤防工事にともない荒木家は先祖伝来の地を立ち退き県庁所在地に引っ越した。


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毎週木曜日は、◆子供らに寄せて
今日は、生まれ故郷の洪水のことを書いておきます。

 生まれ育った家の向かいには家がなく最上川の岸の林だった。大石田町川端、その名の通りである。この林に生えていた木々については来週に書きましょう。思い出す暇がなかったのだろうか、歳と共に思い出すのは、13歳、1960年に県庁所在地に引っ越す前のことばかりだ。

毎年洪水になったのは小学校4年くらいからだったろうか?戦争前にも洪水はあったらしい。我が家は真っ先に床上浸水するのだった。大雨になり水が上がってきそうになると、裏の鍛冶やさんに電話を借りて、父と兄ふたりの山形市の出稼ぎ先、南部建設に電話する。汽車で一時間半、父たちが帰ってくる。台所の大きな戸棚二つを一階の天井にロープで吊る。一階の床板をバールで全部剥がす。家が川に持って行かれないようにである。

 井戸が濁る前にまず水を汲む。二階の大きな木桶に水を汲みあげる。父の大工の師匠の妻=父の姉が大量の握り飯を握っている。さっと親戚が駆けつけてくるのだ。男手も来てくれていたと思う。夜中寝ずに水の上がり具合を見ながら、『前の洪水のときは階段の何段目を残すところまで来た、あの時ほどではない』『引いてきたぞ』とか語り合っていたから。全員二階に避難しているのだ。私が覚えている最高水位は階段の2段か3段を残すところまで来たときだ。最上川の中流域でゆっくりと上がってくるのだった。家の中まで来ない水はたびたび出てのんきに道路にあふれてきた水をこいで遊んだ。

 最上川がその流域を押し広げて濁流が勢いつけて流れていく。テレビもなくラジオも聞いていただろうか、行政からの避難指示はあったのだろうか、経験と知恵で静かに川に対処していた。事故といえば見回りの消防団のひとがうちの裏の肥溜めにはまったことがあるくらいなものである。私の覚えている限りではです。

 引きつつある川の水に弟は庇から小便をした。そういえばトイレ、どうしていたのだろうか?覚えていない。いかだをつくって流している人もいた。食べ物は握り飯で、『日にちが立つと腐るので今度は〇〇にした方がいいね』と親戚の手伝いにきてくれたおばさん方が話していた。6年の時には隣のまこと君が『(水が出て)海浜学校にもっていくものが用意できなくなる』とべそをかいていた。今なら『まこと君大丈夫だよ』と寄り添うだろう、しらっと傍観してないで。

水が引くと役場からDDTが支給され水につかった部分に散布するので家じゅう真っ白になる。乾くまでその年の天気にもよるけれど一か月くらいかかったような気がする。床板をはりなおしてもとの暮らしに戻る。

 全然怖いと感じることもなくどちらかというとわくわくしていた。それは家族、親戚、町の人々にしっかりとまもられていたからだと今は思える。わくわく、は人間の知恵と手を超えるもののワンダーになにか甦るものを身の内に感じるからだ。3年ほど前の十勝川の大水の時は、自転車で十勝大橋ー帯広川、札内川、との合流点(点ではなくなっていた)ー札内大橋迄まわった。

 やがて堤防工事にともない荒木家は先祖伝来の地を立ち退き県庁所在地に引っ越した。


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 たび重なる毎年の洪水に高度経済成長政策が加わり、我が家は立ち退き山形市に引っ越した。