『ゴーヤの種がとれました』 

1268/10000  10月7日(土)分 2023  10/18記
今日は、◆台所大事で、ゴーヤの種が取れたことを報告します。


今年もゴーヤの種が、自家採取できました。

種まきが一か月遅れ、自家採取なので出るかな?
炎暑の中グイグイ弦を延ばして、期待の実は、三つでした。
貴重なひとつめは、定番、卵で味噌味になりました。

最初についた実はしばらくおいて、皮が黄色くなりかけたので
思い切って収穫、皮はスムージーになりました。



種子はどうかな?
亀の甲のよう に種皮が固く茶色になっていて
無事種が取れました。
(引っ越しを念頭において2年、どこで蒔くことになるかな?)
真っ赤な種のまわり、なんというのでしょうか?、
甘くありませんでした。


子どもの頃、わが家では種のカタログを定期購読しており
(豊かではなかったのに花のカタログが、無料だったとしても、
なんかじんとする。私の生き方の一つの芯として刻み込まれていたようだと
今ふっとひらめいた。)
たぶん種をそこに注文したと思われる ゴーヤが家の前の花壇スペースに
実をつけてぶらぶら下がって、皮が橙色になってはじけて、中から
真っ赤なものにくるまれたものがバラバラと見えて、それを口に入れると
甘くておやつになり、種が姿を現す。
その種が沢山、戸棚の中に乱雑にしまわれていた。
覚えているのは一シーズンだけだから毎年作っていたのではなかった。
作るだけでちゃぶたいに上がることはなかった。
ゴーヤ、ニガウリなど名前も知らず、ゴーヤと遊んでいた。
いまのようにブームでもなくつるも私の背丈よりも低かった。
そのころの子供はいのちのおもむくまま、食べられそうなものは
すぐ口に放り込んだ、主な毒は家族と友達から教え込まれていた。

そんなこんなつつましいゴーヤの収穫から
そこはかとなく思い出すことがたくさんあって
思い出されることを味わおうとする自分がいます。



⤵フーセンカズラにギンヨウカエデ 慰みっていうのでしょうか?


















『花火から振り返る自分史』

1212/10000  8月12日(土)2023 

毎週土曜日は、◆今日はホリデー
午前中 NHK-FMで『WEEKEND SUNSHINE』と
『世界の快適音楽セレクション』をかけて
❝なにもしないモード❞を心がけています。



明日13日は、北海道最大の花火大会、
十勝毎日新聞社主催の十勝川大花火大会です。
十勝毎日新聞社の会長の林氏
『十勝に文化を!』とその志烈々たるものがあります。
では今日は、
これまで見てきた花火をふり返ってみましょう。

🎆まずは地元帯広十勝川大花火大会から。
花火大好き、
帯広に来てからかぶりつきで欠かさず行ってました。
37年くらい前は、毛布をかぶって
持参したビールを持って帰ることもありました。
息子たちがまだ小さくて寝てしまうので
下の息子の瞼を開けて、❝ほら、見てみて❞とか
やっていたものです。
10年以上前のこと、隣あわせになった女性が
これからキャンプ地を探すというので
泊まってもらって、今も年賀状のやり取りが続いています。
ふたり連れの若い人が何組も何組も会場の堤防に向かっています。
『この平和がいつまでも続きますように』
こころの中で祈る私でした。

浴衣を着たカップルのイラスト | かわいいフリー素材集 いらすとや


🎆次は信州の諏訪湖です。
だいぶ前に事故があって中止となったので
今はどうだろう?と検索したらありました。
続いていました。
諏訪湖祭湖上花火大会2023年8月15日(火)
インターネットでの中継、ドローン撮影もあるそうです。

私たちが行ったのは、1974年でした、
でも15日より遅かった気がする。
富士見町の雷赤鴉から国道か県道まで下りて
ヒッチハイクで往復しました。そういう時代でした。
諏訪湖上にいくつもいくつも扇状に花火が並ぶのです。
壮観でした。



🎆日本一長岡の花火大会
ホントに日本一!だと大感動でした。
1973年だったと思う、
大学時代の友達が同期同士で結婚して朝日新聞の長岡支局に
勤務していたのです。
桟敷の記者席でゆっくりと見させてもらいました。
2日連続、圧巻は、最後の一発、
『花火玉の大きさを比較すると、大曲・土浦花火は
最大10号玉(尺玉)が打ち上げられますが、
長岡花火は直径90cm・開花幅約650mの超大玉
「正三尺玉」が打ち上げられます。』(検索)
もう、これぞ花火の究極、という感じです。
提供は、もちろん田中角栄氏でした。

 ⤵開花幅約650m (検索)





🎆原点はもちろん生まれ故郷の大石田の花火大会です。
巨大な花火大会と比べたらつつましいものだった、
見ものが尺玉でしたから。
花火大会の朝は、父と二人の兄で朝仕事で桟敷をつくります。
大工ですからお手の物です。最上川の朝霧と、
今夜は花火のワクワクががよみがえります。
夕方から、冨並から、南通りから、親戚が続々集まってきます。
スイカを食べた気がする、桟敷でなくて、
祭事用の薄べりを敷いた家の中でだったかもしれない。
小さな私は桟敷と家の間の川べりの林の暗闇と
花火のドオンがこわかった。
最上川にはちいさな灯篭が何十と流れ、
町内会で出したおおきなねぶたのようなものがいくつも
(名前が思い出せない、のり子姉に手紙で聞いてみよう)
若い者の手で引かれていく。
昼の間に町内のお坊さん方が正装して
川の神に祈りをささげて水難のないことを祈願する。
父と母に、町内の方々に守られていたのだと
遅まきながらじんとする。
巨大な花火も最高!だけれど
つつましい花火大会も懐かしい。





🎆十勝川大花火大会からは、実は足が遠のいてしまい
(数年前から、堤防の上を歩いている人には
花火が見えないように高い塀がめぐらされて
招待席・有料席と区別されるようになって
さらに今年は大幅にその範囲が広がり
なんと十勝大橋から正面全体が有料席とは恐れ入る。
『花火における有料席考』一文書けそう。)
今は(コロナ前)北海道新聞社の混んでいない
ゆっくり見ることのできる方に
気が向いたら行くようになりました。
でも大花火大会も気になって
家々とビルの間から見ずにはいられません。
冬も小規模の花火の音がすると外に出ずにはいられません。

花火を見ている家族のイラスト(背景あり) | かわいいフリー ...
この平和がいつまでも続きますように



只今午後2時半26度、曇りそよそよ風アリ
半袖だと寒いくらいです。
午前中は、NHK-FMをかけて
心おきなくストレッチを丁寧に
一日分のご飯をつくって流しを片付けました。
玄米を炊いて、コール・スローを刻んで、
イワシとホッケとジャガイモを焼いて
大根と揚げの味噌汁をつくって
糠味噌漬けを洗ってカットしました。
きゅうりに味噌をつけておやつにしました。
ブログ、昨日の分を書いて
10回連続,❝50歳更年期女性のあなたへ 
主人公はあなた、あなただけの一冊のノートをつくろう❞
の草案原案ができたことにしました。
夕方一時盆前の草むしりです。



⤵ 今年はややつつましめのクレオメ、借景です。


『京大西部講堂のステージで歌ったことがある』

1150/10000 4/17分 5/15 記 2023

京大西部講堂、聞いたことありますか?
京都大学の構内にあるイベント用?の建物です。
かくいう私はなんとなく❝自由と混沌のシンボル❞の建物ぐらいの
ミーハーな知識しかなくて、今 Wikipediaで見てました、その記事にあるような
派手さも過激さも持ち合わせてはいないし、なのになんとなく
西部講堂のステージで歌ったことがあることをひそかに誇りに思っていた
大したことのない私の記憶をここにとどめておきます。


『前略 1976年京大西部講堂の11/20“聖風祭”スワノセ台風救済コンサート
私と宮崎の成田チェと和歌山の雅と三人で回りを巻き込んで行ったことです。
国分寺“ほら貝”で春早くしう子の歌を聞き呼ぼうと思いました。
とっておきの京都篇の詩を楽しみに待っていて下さい。』

三冊目の詩集を送ってくれたお礼のはがきに即来た
新潟の大工さん 斎藤伸一(呼び捨てお許しを。敬称もピンと来なくて)からの返信です。



1976年11月、フリーターの仕事を休んでぼろいケースに入ったギターを持って
京都に行った。(そのぼろいケースもギターも~至現在だ)
街中の木造町屋建築の二階に出演者、関係者の宿が確保されていた。
こんな大きなステージ、自分が出るものとして見たことない、無謀だった(汗)
どんなステージをしでかしたのか、覚えていない、飲んでたし。
バンドはタシとジュンとそれにモッキンもいっしょだったような気がする、
あとでジュンから❝スターだったよ❞と聞いた。(大汗)
う~ん、私はバンドの一員としてではなく単独だったような気がする
次はしうこ、とジュンが紹介してくれたような・・・
そもそも私は、バンドでセッションできる才能がない、楽器も才能ほぼゼロ、
でも歌うのは好きだった。まあ、混じりけナシの、そのときの心からの身体からの声は
出していたのかもしれない。
恥ずかしい、いやいや、なんも恥ずかしがることないって。
三上寛さんもいたような気がする。
伸(と呼ばせてください)の京都篇の詩でわかるかもしれない。


その年の夏、奄美大島の宇検村久志でポンたちがやっていた無我利道場
夏祭りがあって混沌のエネルギの一か月ほどをそこで過ごした。
とにかく蒸し暑くてハブの侵入防止のため戸を閉め切って寝るのだった。
そのときミオさんのお腹にいた蛯名宇摩ちゃんは津軽三味線と奄美島唄の演奏と指導で
多忙な日々を送っている。
次の年だったか、数年後か?無我利道場は右翼に襲撃され大きな被害を被った。



検索すると、スワノセが台風17号に襲われたのは9月12日、5人の犠牲者が出た。
1970年前後から『部族』の人たちがこの島に入植していたのだ。私は行ったことがない。
山形にいたとき『思想の科学』誌で穴井さんのスワノセ・レポートを読んで、この日本にこのような人々が棲息しているんだ、と知ったものの100%ピンとは来なかった。
そのあと清水平にらーださんがトビウオの干物とラッキョウを送って下さったことがある。まさに最高の息吹きとうまさを今も鮮やかに覚えている。

奄美からの帰りに屋久島に無銭で寄って尾之間から楠川に3泊4日で縦断した。
屋久島は私のNATUREのイメージを変えた。
❝屋久島は行かなくてはダメだよ!❞、ナナオの定番の文句の一つ、まさにその通りだった。
スワノセを襲った台風で根こそぎ倒れた屋久杉が何か所かで道をふさいており
(屋久杉は根が浅いと知った)道に迷いながら、鹿児島で買った地図を頼りに進んだ。
その前1975年のトモたちの一大イベント、MILKY WAY CARAVANのとき、
ポン、ナナオ、サンタナと一緒に、沖縄読谷村の金武湾の闘争小屋、奄美大島の石油基地反対闘争、屋久島の屋久杉を守る行動、を回らせてもらった。ただついて行っただけ、いかんせん
幼稚なガキの私でした。
なおポン、トシ、ボブ、エヘラ一行は、すでにその前の年に南西諸島をキャラバンしている。ポンの詳細なレポートがある。




あれからかれこれ50年、
思いがけなく新潟から伸が詩集を送ってくれた。
伸が清水平に来たことは覚えている、でも私の知らない、覚えていないことが多くて
未知の土地の記事のようだ。
思い出す時間、あじわう時間、記録して残す時間ができたんだね。FACEBOOKにも
なかまたちのアーカイブ保存の様子があれこれアップされてくる。



スッキリスマートとは縁遠かったあのころ
混沌、混乱,奈落の底に降り注ぐ歓喜と祝福の雨、
ようやく少しづつ書くことができるようになりっつある感じかな。
長い歴史の中でその意味はまだまだわからない、でもこれだけは言える、
私たちは、カッコよかったかどうかは別にして、
原初のエネルギーを同時代して共にした
と。
このことが変わらずに、生きてきたエネルギーの源泉の一つになっていると。
その経験の一つ、私は 聖地 京大西部講堂のステージで歌ったことがある、
キメルことはできなかったかもしれないけれど、
アマチュアの神髄をもしかして発揮できたのかも?
やっぱり、私は誇りに思っている。

小リンゴの花。去年は咲年だったようです。

『私がダイエットに成功した時』

1129/10000 4 月7日(金)2023
今日は、
いよいよ発売開始、
『ごちそうさまダイアリーfor DIET』

4月28 日、kindleから
今日は予告編その
をお送りします。

今回のテーマは
『私がダイエットに成功した時』
それは3回ありました。
その時私は、3回とも
『やせよう』『やせねば』とか
全くあたまになかった
んです。



その①
1970年夏。4週間で4キロやせました。
どうしてか、ご飯がのどを通らなくなったからです。
なぜか?
おもしろくておもしろくてたまらなかったからです。

教員免許取得のため母校に教育実習に行きました。
中学2年担当で日本史を教えました。

好奇心にキラキラかがやく子供たちの目
新しいことを知る喜びが身体全体から溢れていました。

わがまま娘の私はまだおかあさんに弁当を作ってもらっていました。
でもご飯に手が伸びなくなっていました。
あまりにおもしろくてご飯どころでなかったのです。

教室で勉強をする子どもたちのイラスト | かわいいフリー素材集 ...



その②
マクロビオティックに出会って食養道に邁進した時。1972~73年。
身土不二、一物全体、不自然なものを身体に入れない~
劇的に心身が変化、私の人生は一変しました。
かむことが肝腎と教えて頂いて、一口200回がんばりました。
たぶん47キロくらいになったと思う。(当時は162センチ)
(必死で我慢していたので、そのあと長い長いリバウンド期間が続きましたけれど
エッセンスは身に付きました)

お菓子を我慢する人のイラスト(女性) | かわいいフリー素材集 いらすとや


その③
スロージョギングにはまったとき。2008年ころ。
単純に走るのは二十歳くらいから好きでした。
スロー・ジョギングに出会って走り始めたら
なんとスタスタスタスタいくらでも走れるではありませんか!
週5回10キロ、走ってました、中毒症状。
ふと体重計に乗ったら52キロになっていました。推定160センチ。
これこそはベスト体重!お気に入りのスカートもするすると、
身体も心も軽い!
(但しヤリスギでした。左ひざの内側がプッツン、もう走れないと
あきらめていたら、膝に負担のかからない走り方を教えて頂いて
今は一日置きに3キロくらいです)

正面から見た走る女性のイラスト(ゼッケン付き) | かわいい ...



ダイエットに成功したこの3回には共通点がありました。
そうなんです、
その時、私の頭には
ダイエットがなかった
のです。

これ、ひとつのコツかな。
では、どう応用するか、

① 目標体重をセットする
② セットしたら、それは脇においといて、
③ 今日の最優先の課題一つに集中して
④ 『ごちそうさまダイアリーfor DIET』をチェックして
  おしまい。
こんなところでしょうか?
どうでしょう?

⤵ コブシの花@帯広駅バスターミナル 花季が短いので横断歩道を渡って撮りました。

『本気になるきっかけに~「ごちそうさまダイアリーfor DIET」近日発売開始!』

1126/10000 4月4日(火)2023

熟成期間半年、
『ごちそうさまダイアリーfor DIET』
4月28日発売、kindleからです、に向けて準備再開です。
テキスト作ったり、FACEBOOK LIVEの準備したり
やることいっぱいです。

編集中です。デザインはユキちゃん。ナイスチームワーク、というよりリードしてもらってます。


このところ、❝ 私が、私がと自分が主人公では恥ずかしい❞と思うようになりまして
『 お客さまのどんなニーズにお役に立てるか 』
関心が移りまして、オトナの修行中です。


世の中をまわりまして
ダイエットのニーズがけっこう多いことがわかりました。
ダイエットの本、ノウハウ、高額からお手頃迄
溢れているのに。
ダイエットしたいけれどできないのは
どこが問題かリサーチしております。


ひとつは、◆ 本気になるきっかけ
もう一つは、◆ 毎日の習慣にしてしまう、そのやり方
この二つがキモかな。

本気になるきっかけ、
ひとそれぞれ、なんでもいいと思います。

結婚式、同窓会、大きなイベントでステキにみせたい、とか
そう、健康のため、大きいですよね。
スポーツやっている人だったら身体の管理は必須
あの服が来たいから、もありますよね。
私もはじめは、高校生のころ、見栄でした。
なんとなくふとっていてかっこわるいと
みじめな気持ちになっていました。
どうしてだったんでしょうね?

このダイアリーは、
すごい簡単ないますぐできることを
ひとつひとつクリアしていきます。
ええい、全部一緒にやっちゃえ、でもいいんですけど
一週間に一つだけと、しぼった方が集中できると思います。

1 決まった時間にいただく
2 決まった場所でいただく
3 お膳していただく
4 いただきます、してから頂く
5 集中していただく
6 噛む 一口30回以上
7 このダイアリーをチェックしてごちそうさま

なんだこんなこと!、
カンタンでしょ、
それが意外とできなかったりするのも、ま、フツーなんですよね。
そのときのやり方も提案しますね。
なにせダイエット歴55年、ですからね。

はじめから本気でなくてもOK,
毎日続けていくうちに
本気さがかもししだされてきます。
3か月100日は続けてね。

もちろんすでに本気の人は
そのままどうぞ。

このダイアリーが
本気になるきっかけとなる
ように
デザインされています。

3か月100日、
それが、続いたことないのよ、
という方は、次回
『よい習慣にしてしまうそのやりかた』を
お楽しみに!

春先楽しみにしているご近所のモクレンがほころび始めました。4/7






『わが家のファミリー・ヒストリー秘話』

1117/10000  3月26日(日) 2023
◆シリーズ 3/14~24山形・宮城報告その⑪
今日は、我が荒木一家のファミリー・ヒストリーをお話ししましょう。
23日に赤倉温泉から山形市に移動して,一番上ののり子姉さん宅で
なんと思いがけず川崎市で仕事中のの弟夫婦も合流、夜遅くまで大盛り上がりとなりました。

のり子姉さん 利明くんへ


この度はお会いできてすごくうれしかったです。
気になっていたことがわかってほっとしました。
お互い思い出すのは大石田のことばかり、明らかになる秘話の数々
深堀りファミリー・ヒストリーの一夜でした。
トシはとるもの、それぞれの思いがけない一面に深く感動もしました。



写真は『写真で見る大石田の歩み』より。大石田の図書館で見せてもらいました。
役場の向かって右隣です。

昭和30年前半の水上がりの時大人たちが階段の水の上がり具合をみながら比べていた
大正2年の洪水。大正12年と記憶していました、2年だったのか。



気になっていたこと


①賢ちゃん(二番目の兄)が受かったのに高校に進学できず弟妹を育てるために働かなければならなかったことをどう思っていたか、利明くん、きいてくれていたのですね。
賢ちゃんは、別に気にしていないと言ったとのこと、じ~んときます。
賢ちゃんの作文で、同級生は学校にいくが自分は脚絆を巻き働いている、とあったし。特に私はきょうだいのなかでひとりだけ、高校、大学と行かせてもらい、卒業後はフリーター暮らしだった、このことコンプレックスだったしで。利明くんが聞いてくれていただけで少しホッとしています。

②利明くんが生まれてすぐ丹毒に罹って生きるか死ぬかのとき、出稼ぎ先、鬼怒川温泉?でおとうさんとあんつあ(兄さん)と賢ちゃんで相談して、この年(お母さん40過ぎ)で生まれた男の子だし、金はなんぼかかってもいい(あんつあからのはがき)とペニシリンをゲットするお金を工面することに決めたこと。当時の手紙を利明くん、全部見てるんですね、よかった。そのペニシリンは産婆をしていた南通りのおばさん通しで特別に入手できたこと。
藁布団の上で真っ赤になった利明くん、看病にせわしいお母さん、おばさんの気配を覚えています。昭和25年。

川端の冬、道路に二階まで積もったものですね。

③ 私は利明くんを歯牙にもかけずいなくなってくれればいいとまで言ったとか。全く覚えていない、ごめんなさい。人格を陶冶しましてここまで来させて頂いております。
他にもひどいことしたことあったな、ま、しょうがない、今となっては。

④ 認知症の年よりとのコミュニケーションのしかた、佐々木のお爺さんを最後まで看取った利明くんのお話にはすっかり感動、ただ押しが強いだけではなかったんだと心から感心しました。勉強になりました。のり子姉ちゃんと弘明くんは今当事者なので話せただけでもだいぶ気が楽になったんじゃないかな。まずまずお元気なので大丈夫!と思いました。漫画の認知症の本を送ります。



⓹ 今宿に、私もお祭りのときお母さんの代理で呼よばれ(招待)に行ったことがあります。お祭りのお膳を前に借りてきた猫のごとくこちこちになってひとこともしゃべることができませんでした。先々代のじいさんがそこから養子に来た船乗りだったんですね。

メインストリート、本町の冬。こうでしたね。

⑥ 親しかった家々の消息 どれもこれもなんてドラマチック!
 ・南通りの早坂家はなくなってしまった。ばあちゃんがなにかあると手伝いに来てくれた。お母さんが山の畑に行く途中大八車から落ちて肩の骨を折ったときも。南通りのばあちゃんは荒木家の長女だったのだ。餅つきの返しで失敗して小指がなかった。餅つきは命がけの神事だったのだ。(だから私はお子たちの餅つきとかピンとこない)
 ・川端で一番親しかった武田家の人々・酒田、五十川の人々・・・
 ・姉ちゃんの奉公・勤務先だった理容店の人々・・・話は尽きないのでした。



のり子姉ちゃん、利明くん
ちょっとエクササイズして痩せませんか?
YouTube見てやりやすいの一つでも。大村崑さんの本を送りますね。
のり子姉さん、おうちの中の荷物片づけの手伝いに行けるようにがんばります。
みんな元気でいて下さいね。また会いましょう。
お互いなんでも笑って笑って話せる年になりましたね。

   いつまでたっても四女、かわいがられて育ったしう子より



昭和32年の水上がり、川端。これはうちかな? 違いますね。







『生まれ故郷の昭和30年前後は』

1116/10000  3月25日(土) 2023
◆シリーズ 3/14~24山形・宮城報告その⑩
生まれ故郷の、山形県北村山郡大石田町の役場と図書館をたずねて
昭和30年ごろの資料を見せて頂きました。


大石田町役場産業振興課様
大石田町図書館様



先日は突然お邪魔致しまして失礼致しました。
沢山の資料をご用意下さり本当ににありがとうございました。

川端で毎年の洪水で最初に床上浸水する家が我が家で、堤防が築かれることになり
昭和35年に立ち退き山形市に引っ越しました。私は昭和22年生まれで
庄司喜與太元町長と同級になります。この年になりますと思い出すのは、生まれ故郷の大石田のことばかりです。
おかげさまで、このあと山形市の姉宅にてきょうだい3人でもっぱら大石田時代の話で夜遅くまで大盛り上がりでした。



『写真で見る大石田のあゆみ』(昭和61年刊)には垂涎の写真が何枚もあり目を見張りました。
・2階に避難して水の上がり具合を見ながら大人たちが、比べていた大正2年の水上がり
・2階まで積もった川端の冬
・メインストリート本町の冬 などなど
・藁靴での雪踏み

『水船 昭和30年代のふるさと 次年子の暮らし』
このたび初めて 次年子 まで連れて行ってもらい、うまい蕎麦を頂いてきました。 次年子 といえば秘境でとても遠いところでしたので自動車でこんなに簡単に来ていいのかと感じたりしました。

『みちのく西川子供歳時記』
楽しいイラスト本。大石田ではありませんが、遊びはほぼ共通していて懐かしく思い出しました。

町内神社の由来と祭りの様子』平成6年刊
老人クラブの方々の貴重なお仕事。川端の金毘羅神社のページを何回も繰り返し読み、祭りがさかんだった子供のころを思い出しておりました。

中でもこの冊子には驚きました。
『最上川水運の大石田河岸の集落と職人』平成7年刊 by高橋恒夫氏
一軒一軒精密な図で表示されておりました。じっくりと拝見したいものです。


実は、私は今、
高度経済成長以前の世の中を知るものとして、子供たち、孫たちに何か伝えるべきものがあるのではないかと、自分史を振りかえりつつ冊子を作ろうとしております。
貴重な資料を数々見せて頂きまして、忘れていたものがふつふつとよみがえってきて、当時の息遣いがよみがえってきたことでした。
再びおたずねすることがあろうかと思います。
その節にはまた何卒よろしくお願い申し上げます。
この度は本当にありがとうございました。

故郷大石田の実りある発展をお祈り申しつつ失礼いたします。

こちらは姉(昭和12年生)の手書きの川端の家地図でございます。




『畑、聞き書き、おすすめしちゃうな』

1114/10000  3月23日(木) 2023
◆シリーズ 3/14~24山形・宮城報告その⑧
今日は、タマキさんの秘書役の芽生さんに宛てて手紙を書きます。

めいさん
お世話になりました。ありがとうございました。
九五郎味噌、山形の姉と帯広の息子とで分けました。
味噌も、生命力のあるものは、やっぱり違うんですよね。
今回の旅は、おかげさまでいくつもの生命力の現場にあわせてもらい
希望を目の当たりにすることができました。
とても印象に残っているのは、その穏やかさで
それはこの国のひとつの希望の種ではないかと思われました。
この穏やかさが侵食されないように生命力をアップしていきたいですね。
すでにできることが限られているシニアと違って
めいさんはこれから何でもできますね。

佐藤家の畑のお手伝い、いいですねえ!
土に触れると触れないとでは全然違いますよね。私も街中で日当たりイマイチの小さな
ガーデンを自然体でずっとやっています。今は、肥料はコメのとぎ汁と台所の洗い水、それに光合成菌、これも自分で培養しています。果菜には米ぬか少々、といったところです。無肥料栽培、仲間内ではけっこうポピュラーになっています。ビッグ・ファミリー・ファームさんも確かそうだと思います。まあ、できるところからめいさんのペースでどうぞ。
 この国の食料・食糧問題は深刻ですから、栽培技術を身に着けて食糧ルートを確保しておくことは危機管理の第一歩ですよね。

農家の女の子のイラスト(将来の夢) | かわいいフリー素材集 ...
畑は、うれしい、たのしい




親孝行したいときには親はなし、を地で行くこの私、親の葬式にも行くことできませんでした。還暦過ぎたころふっと胸から湧き上がってきたんです、
『お父さんとお母さん、胸の内に、外に出せなかったもの、言葉にならなかったものをどれだけ抱えていたんだろうか?』と。今なら親の話を聞くことができるでしょう、ワカカッタときにはとてもとても。

芽生さん
もしご両親、ご親族の方からお話を聞くなら
(ここは、自分史探検サポーターの荒木しう子の登場です)
① 雑談のなかでちらと何気に尋ねるとかして、
  聞いたことを翌日までに書きとめる  上手下手は気にしない
② ちょっとたまったら印刷してみてもらう、さりげなく
③ 聞きたいことをメモしておいて、ここぞというときにQする準備をしておく
④ たまったらファイルに綴じてプレゼントする
⓹ 年表と系図を作ってあげる

そうなると、聞かれる方は
① 生きてきたその当時
② 聞かれて話す
③ 聞かれる準備を心の中でする
④ 話したことが文字になって可視化される
⓹ もっと思い出すことがある
⑥ 新たに意味を発見する、
  新たな意味が向こうからやってくる
などなど、何倍も生きることになります。
聞かれることで、生きてきた自分に自信と誇りが持てるようにもなるでしょう。

お年寄りの手を取る女性のイラスト | かわいいフリー素材集 いらすとや


どうかしら、めいさん、
ブログでこれからのあれやこれやの記録をUPしていきませんか?

以上、わたしからのありがとうと、提案でした。
老婆心を発揮してしゃべり過ぎたかも。
もしピンとくるもの、参考になること、やってみようかなと
思うものがひつでもあったらうれしいです、
いっしょにやりましょう。

さあ、季節がスピードアップして進んでいきます、
めいさんにとって 充実+まったりのシーズンになりますように、


あ、もうひとつ、
佐藤家の年中行事をたずねて、できたら一緒にできるところはやらせてもらって
そのノートを作りませんか?
実は私、45年前に母から聞き書きしたのですが、度重なる引っ越しで紛失してしまいました。
農文協刊の『山形の食事』、それと冨田さんの和暦の冊子も参考になりますよ。
結城登美雄さん ご飯は①普段のご飯 ②祭りのご飯 ③祭祀のご飯 と三種に分かれる。
(ちょっと記憶があやふやです。『いのちをつなぐ宮城の食と農』で確かめてね。)
それぞれの献立もおもしろい。私は今一人暮らしなのでつくづく実感されるのは、この三種のご飯はいずれも家族~コミュニティあってこそのもので、ひとりではやっても心もとない、サマにならない、このことです。
久之助お爺さん、節子お婆さんのいらっしゃる佐藤家は宝庫ですよ。



⤵ 早春の摘み草  フキノトウ、タンポポ、ナズナ、冬の毒を出してくれます 4/4

『焚火ができるところ』

1105/10000 3月15日(水)2023

今日はこれから山形出張です。出かける前の準備は順調にすすみました。
掃除、洗濯もスイスイと、JRの電車と新千歳空港で頂く弁当もできました。
乗り物の中では、文庫本を用意しましたが、あれこれメモ書きもせねば。
あと30分で家を出ます。昨日局留めの手続きもしてきました。

この春は、なんだか引っ越しの予感がふわっと強まっています。
2年前から引っ越そうと駅の近くの公営住宅を探しています、
でも、もしかしたらどこか別のところになるかも、そんな予感もチラとしないこともない・・・

そんな時、素晴らしい出会いがありました。
届いたばかりの『名前のない新聞』の細かい字を追っているとなんと!
やっぱりあるんだ、望めば叶う!

島田啓介さん、 今のように流行になる前からマインドフルネスの講座や
ワークショップを重ねて来られたマインドフルネスの源流のおひとりです。すぐFACEBOOKで友達申請しました。

島田さん『15年ほど前に今住んでいる家に引っ越してくるときに、自然の中で焚火をできるところ、そして畑もできるところ、周りに全く家がないところに住もう・・・ただし二人だけでこもるんじゃなくて、そこにいろんな人が来てワークショップをやりたいから、交通の便がいいところ・・・そんなにうまい話はない・・・。けれどもそれがあったんです!それは物凄いイメージトレーニングをしたんです。ないという頭で探すと実際ないので、だからもうあるってことにして、人がすぐ来れるし、しかも完璧に自分たちが望む環境で、妥協しないと。』

(この続き、新清水平のことを、向こうに着いてから書きます、
とは言ったものの、旅慣れないおばば、書くことができずに帯広に帰ってきました。
今日は27日、いつもの場所で書いてます。)

私の未来地図帳のゴール=出発点は、
❝ しうこば~ばと縁側で❞
『コミュニティの一角、新清水平の縁側で、お子たちと日本古典文学と思想の音読教室をやっているしうこば~ば』なのです。
新清水平というネーミングは、私の原点のひとつ、信州の山の中の一軒家から来ています。
⤵ 1977年秋、@信州清水平 上の息子が生まれる数日前です。

写真の説明はありません。


新清水平は、縁側、土間、路地   内ならず外ならず 人が自然に出入りする
                 路地は山形弁では『ろうず』、家の中の土の通路です。
      室、北海道なら雪室、 食糧と食料の備蓄 漬物、味噌、醤油桶 
                 その日暮らしにならない
      井戸、または沢の水、自家発電、
      大きな台所、     漬物、干し野菜、山菜・野菜をさばく 味噌つくり
      お茶のみ処、学び舎

もちろん私一人ではできません、何らかの形で実現するように私のFACEBOOKのカヴァーにして日々イメージトレーニングしているというわけです。

ところが、今回の東北行きで、あったのです!
山が迫る小さな内海に棲息する小さな部落の階段を登ると
なんと!縁側、障子、光がクリアに透明、
柱、欄間、ほの暗い畳の部屋・・・
浜の暮らしのはまぐり堂さん、宮城県石巻市牡鹿半島の付け根に
海と山と人の生業がひとつになった空間が、あったのです。

一目見ただけで、わっと夢中になりました。
それはそれはすがすがしい空間です。
はまぐり堂さんがどうやってできたのか、などなど
この続きは、この度の東北行きの報告で致します。

焚火のできる、縁側と土間のあるところ、
自然と人のなりわいがひとつになった時空、をイメージしながら
フキノトウの出具合を街中で探索しています。



『すこやかでいるのが好きなのは』

1082/10000 2月19日(日)2023

今日は日曜日、あまり考えずに書けることにしましょう。
カテゴリーは、◆75歳からの挑戦 にしようかな。

私はよく言われます、そのお年には見えません、と。
そうかな、と人並みに
目の下のたるみ、75過ぎると違うな、なんとかしたいとか、ほうれい線を上げてみたり、
スキンケアは趣味なんです。こころが美しいのは自信があったので、化粧とか、お肌の手入れとかまったく興味がありませんでした。それがある会社のある製品との出会いで一変、せっせとケアしてます。皮膚と脳は直結していると知って、ますます入れ込むようになって4半世紀たちます。その会社の信者です。

それはさておき、今のところまずまず元気でいられるそのわけを振り返ってみますと・・・

① 13歳まで高度経済成長前の田舎で育ったこと
 お母さん手作りが当たり前、野菜も豆もゴマも芋もつくっていました。化学農薬ゼロ、食品添加物も今のように多くはなく、遺伝子操作食品もありませんでした。放射能は太平洋での核実験のが来ていました。ご飯粒と紙が落ちているのはみっともない、母に教わった私のエコロジーの原点です。
 医者にはどこの家もめったなことではいきませんでした。家の周りの薬草と富山の薬で治していました。

 13歳で県庁所在地に引っ越してスーパーマーケット経済に巻き込まれ、お母さんのご飯は全部茶色でダサいと文句をたれ、弁当は100%作ってもらうというわがまま娘でした。

② 東京に出てマクロビオティックを通じて『食養』に出会って一変、激変。心身爽快。以来かれこれ50年。出会った仲間といっしょに学びあってハマりました。このことはみいちゃんへの手紙にも書きました。
 心身が一変した時、ふっとひらめいたのです。
人が年を取ると衰えて脳も身体も弱くなっていく、これが常識である、でもこんなに爽快になれるのなら、そうでない生き方も可能なのではないだろうか?と。

身土不二、一物全体、化学添加物を身体に入れない、合成洗剤は使わない、家庭でできる自然療法をマスターしまして、二人の息子は医者に行かずに育てました。但し上の息子の生まれてすぐの大失敗と、腕の関節を外した時、下の息子が耳が痛いといったときを除いて。

③ 更年期・慢性疲労でマクロビオティックが全く効かなくなってしまったときに、Holistic Nutrition総合栄養療法に出会うことができました。助かりました。軽い鬱が1週間で解消しました。この分野の隠れ権威でいらした山本真吉博士のオープンセミナーに札幌まで月一8年以上夢中で通いました。以来しかるべき補助食品を摂るようになって25年以上になります。
山本先生に教わったことの一つが、『遺伝子には老化という因子はない』ということでした。
さらに詳しく知りたいところです。

 この三つが私の健康の自分史のメルクマールになっています。
 ではずっと健康で来れたのか、というとそんなことは全然ありません。
 体重の増減の繰り返し、顔面総崩れ、日光湿疹、アトピー、ぎっくり腰、軽い鬱が二回,全心身疲労などなど、骨折以外は家庭でできる自然療法と総合栄養療法で治してきました。学んだことの一つが、やっぱりストレスが原因なんだ、このことの体験です。

 健康のことは好きなのでしょうね、いい、よさげとなったらすぐ実行,習慣となります。
では、健康についての学びでもっとも衝撃だったことは何か?それは、
『健康が〇で病気が✖ということはない生命現象としては同じことである』
これも山本先生の講座で教わりました。さらに詳しく知りたいところです。
これを知って私は、健康を目標にしなくていいんだ!とすごい解放感を味わいました。自然食の仕事をしていたので、健康MUSTとがちがちこだわっていたからです。

 今は、意識して何か自分でやらないと目に見えるように衰えていくので、ほぼ毎日ストレッチやらいそしんでいます。
 健康はやっぱりありがたいことですね。先立った友達、尊敬する先生方、山本先生も、の最期に唇を嚙み締めつつそう思います。満100歳、自力二足歩行・脳力向上をイメージしています、もし実現出来たら自分よりも先に感謝するところはありますね。


⤵ 山本先生の講座で教わってできた『健康の家』です。
①睡眠・エクササイズ・ご飯の生活習慣が25%、後の75%は気の持ちよう
②しかるべき補助食品を併用して細胞を積極的に作って
③環境を自律神経が働くように整えます。
日進月歩、今ではこれにミトコンドリアのエネルギーを低下させないようにすることが加わります。