『お母さんの大石田料理 その1』

527/10000 10 15
毎週木曜日は、◆子供らに寄せて ①子どもたちに伝えたいこと ②私の来し方 のうち
今日は②で、荒木家のお母さんの料理のことを書いておきます。

★ おかあさんの作るものはみんな茶色でいやだ、とわがままこいていたな。カラフルなサンドイッチとかがナウくていいものだと洗脳されていたわけだ。
  それが50過ぎると、お母さんの大石田料理が食べたい、と身体が記憶をよみがえらせて思いが募る。今ならお母さんの料理だけで一向に構わない。グルメしたいとも思わない。
  お母さんの料理がいいものだったのだと目が開いたのは、1972年にマクロビオティックをを通じて食養に出会ってからだ。だから私がスーパー・マーケットの食べ物を主に食べたのは約10年ということになる。


★ 1960年、高度経済成長政策が本格化した年はまだ世帯数の半分は農業に従事していてその半分は兼業だった。

Chart showing Japan's declining farmer population.
悲惨といってよい激減ぶりだ。


http://www.crosscurrents.hawaii.edu/extra.aspx?lang=jap&site=japan&theme=work&subtheme=AGRIC&infounitid=JWORK102&choice=chart

★ 中学校には学校田も学校林もあり、田植え、稲刈り、山の下刈りの日もあった。
大石田は職人の町で、22軒の川端部落で、サラリーマンの家は二件ほどだった。川端部落のことは後程書きます。

★ お母さんの食べ物がうまかったのは、舌の味覚の記憶に加えて環境がある。
当時は食品添加物はそれなりにあったけれど今のように加工食品に頼る暮らしではなかった。殆どが、今でいう手作りだった。化学農薬はまだなくて、農家の子どもたちが確か柳の枝を持って今年は稲に虫がつかないようにと歌ってねり歩く『イナムシカンカラカン』の日があった。核実験の放射能のことはよく知らなかったけれど、雪はたべると放射能がついていると食べなくなった。排気ガスもほとんどない。自動車を持っているのは役場と店をやっている家くらいだった。そう、空気が今と違っていたのだ。
野菜は勿論家の前で作っていたし、サツマイモ、豆、ゴマまで山の畑で作っていた。大八車に肥え桶をつけて運んだ。子どもたちは食べるだけだったけれど。
 水は井戸水だった。農業人口が約半分でサラリーマンは少なくて、人人の多くは身体で生きていた。地域共同体で秩序がまもられ祭りと冠婚葬祭がとりおこなわれた。
 金回りはたいへんだったけれど、世の中全体に活力があったのだ。

 これがお母さんの料理の背景である。具体的な献立は来週に書きます。

今年は秋になってから、ひょう(スベリヒユ)を干しました。お母さんが毎年真夏にやっていた仕事です。
マツバボタンは、近所の家のまわりに植えてありました。花も子どものころ近くにあったものを植えたくなります。

『保育園がよかったからその分安心』

520/10000 2020 10 08
毎週木曜日は、◆子供らに寄せて ①子供たちに伝えたいこと ②私の来し方 のうち
今日は①です。

 三つ子の魂百迄という。うちの息子たちは保育園に恵まれていたからその分母は安心している。

 上の息子は村の小さな保育園で、県道まで保育園バスが迎えに来てくれた。友達が来ていると送り迎えをしてくれたので、バスのお世話のおばさんは色々と変わった人が入れ替わり立ち代わり来るのでびっくりしていたそうだ。そのなかまたちも息子を子ども扱いして見下ろすことはなかったから、小学校に上がる前から「そういう可能性があるよね」など大人と対等に話していた。バスのおばさんもこっちに来てから、「息子の明るい姿に元気をもらって助けられた」とお手紙を下さった。かわいがられてて大切にされていたのだと思う。

 下の子はなかなか保育園に慣れず、兄が自転車で送って行って「ダメだ、行かないって」と戻ってきたこともある。三つ目の保育園で一日目から、自分でバイバイしてくれたのでほっとした。自分が大切にされる場所なのかどうか身体全体で感じるのだ。そんなとき母はなんかもうめちゃくちゃな気持ちになったものだ。いまならそんなに急かなくてもいいと悠然としていられるだろう。

 兄は子どもが好きで、小さな弟をおんぶして保育園に連れて行くと。「おれの赤ちゃんだ、みんな見ろよ!」と誇りにしていた。弟を保育園に迎えに行っては長いこと子どもたちと遊んでいたものだ。母がヒステリーを起こすと「小さい子に乱暴するな!」ととりなし、むずかる弟の扱いもとても上手でイライラしっぱなしの母と比べ物にならなかった。

弟が二年以上喜んで通った大空保育園は当時さくらさくらんぼ保育園の影響もあり自然育児でのびのびしていた。粘土細工でいろんな複雑なものを楽々とつくるのでびっくりしてうれしかった。給食のおばさんがいたから園ごとにつくっていたと思う。

 平成の30年でどんなふうに変わってしまったのだろうか?街中で民間の保育園をよく目にするようになってだいぶ経つ。保母さんはパートなのだろうか。
 教育も保育も生きるのと暮らしに欠かせないものであるから公共であるべきものだ。こどもたちのいのちの可能性を十分に尊重する保育がなされているのだろうか?

 保育園がのびのびしていたのでその分一生安心していられる。ありがたい。書きながら今の保育界はどうなっているのだろうかと気になって胸が痛くなってきた。こどもたちが大切にされている、これが一番に大切なことだから。

日曜日のオーガニック・ヴィレッジで水遊びする子どもたち。すくすく大きくなってね。

『「わたし遺産」に応募する』

513/10000 2020 10 01
毎週木曜日は、◆子供らに寄せて ①子供たちに伝えたいこと ②私の来し方 のうち
今日は②です。

★ 東京の息子から、“ 、こういうのあるよ、応募してみない?気楽に” とメッセージが来ました。
 募集しているのは三井住友信託銀行さんです。
 始めに表彰・賞品をチェックしました。
・わたし遺産 大 賞30万円相当のギフトカード3名さま
・わたし遺産 準大賞5万円相当のギフトカード20名さま
・わたし遺産 心のふるさと賞3万円相当の旅行券1名さま
  大賞ないし準大賞の受賞者が選定対象者となります。
・わたし遺産 学校賞3万円相当の図書カード3校選定

応募殺到しそうですね。

私が綴る、未来に伝える物語。わたし遺産 

第8回応募要領 作品募集中

「わたし遺産」として、未来に伝えのこしたいと思う大切な「人」や「モノ」、「コト」。その理由やエピソードを400文字の文章にまとめご応募ください。

 2020年9月16日(水)~11月30日(月)※必着 ”

過去の受賞作品、応募例のぺージもあります。傾向をリサーチせねばなりません。

★ 何を書こうか、思案が始まりました。

● 抽象的な思いでは伝わりにくそう。

  “ 生きる基本は、うむ・はぐくむ・わかちあうです ”、とかはわかる人にしかすぐにはわからない。
  “ 何があっても生き延びること ”、ではシリアスすぎる。
  “ 家族、ソウル・メイツ、仲間を大切に ”、わかり切っている。

クサい説教を聞きたいと思う人はいないしね。

● 心に負担がかからずに軽く読めてさらっと涼風がふいて心が温まりだれでもこっくりうなずけるのがいいだろうか?

そういえば、息子たちに伝えるものをまとめておかねばと思っているから、そのうちの一つにしようか。どれがいいだろう?

 物心ついた時から飯台にのっていた醤油砂差し
 戦争中のドーナツ型蒸しパンの型
 なかまのジャンの肉筆の絵
 コツコツ貯金している招き猫のタマとマリ
 アメリカ製のステーキ・パン
 父ちゃんが最後にかぶっていた帽子

 思い切って、もっとも大切なおくるみと産着にしようか。

 過去問、じゃなくて過去の受賞作品を拝見しまして頭と心をチューニングして書いてみよう。400字、締切11月30日。書けたら息子がネットで送ってくれるとのことです。

ケイトウの花に久しぶりに出会いました。

『北海道に来て満35年』

406/10000 2020 09 24
毎週木曜日は、◆子どもらに寄せて ①子どもたちに伝えたいこと ②私の来し方 のうち
今日は②で、来道満35年の回想です。

★ この秋で北海道は十勝地方に来て満35年になる。
 ひさおの黄緑色のワゴン車に荷物と二人の子ども、松田トムと一緒にひさおの運転で私たちは、清水平を後に北海道に向かった。信州~福島―ダマリが待っていてくれて歓迎してくれた。ダマリも今は天国だ~山形―実家~岩手・花巻-もっちゃん もっちゃんが先にトラック一台分の荷物を運んでくれていた~苫小牧~日高を抜けて十勝に入った。

 道中はとても和やかで、ひさおもトムもほんとにやさしいやつで下の息子は1歳10か月、丁寧に車を止めてくれたので一回もおもらしをしなかった。トムはきれい好きで二人で車内の整理整頓につとめた。我が家の仏像はトムが彫ってくれたものだ。

 山形では父と母に会った最後になった。
 父はとってあるぬいぐるみとかいろいろとくれた。今の借家に引っ越すとき一つだけでもとっておけばよかった。家の兄が銀杏の実を沢山くれて北海道まで持って来た。
 この時かその前か父はこどもを風呂に入れてくれた。ほんとに子どもが好きなんだと胸に刻まれた。数少ないお爺ちゃんとのつきあいだ、でも覚えていないよな。
 糖尿病でずっと寝た切り状態の母が起き上がって杖をついて出て来てくれた。家の嫁さん『歩くとすぐ転ぶから杖を隠してあるのに』 何度も骨折していたのだ。その時の母の姿を思い出しては心配性のその胸の内を思いやる。
 生まれ故郷の大石田に寄り川端部落の金平神社にお参りして、私たちの北海道行きをまもってくれるようにお願いした。 

ぬいぐるみは父から。とっておけばよかったな。

★ 十勝に入ったものの、二人の子供を連れてお金も殆どなく自分が何をやろうとしているのかわかっちゃいなかったのだから、押しかけてきたので付き合わざるを得なかった友達、宇井さん、茂子さん、フカ一家にはごめんなさいと頭を下げるより他ない。ごめんなさい。山の中の一軒家からポッと出て来て世間も知っちゃいなかった。
 後で振り返ると、菜食だったこと、清水平は寒いので有名だったこと、それに産前産後の無理と重なってテンパり度100%超えていたと思う。『産前産後は冷やしてはならない』と身に沁みたのは更年期に入ってからだ。
 息子たちの父ちゃんはどこにいたかというとU.S.Aに長期滞在中でいつものように家にはいなかった。

★ 私の北海道行は、若気の至りで相当無謀だったとこれも後になって思う。今日寄ってくれた福島から移住してきた友達は移住先を決めるのに私の知っているだけで2年はかけて徹底リサーチしていた。自分と違うなあ、とひたすら感心した。
 今なら、友達、行政に相談して、松本あたりで代用教員でもしていたかもしれないと想像したりする。なにもかも一人でやらねばとの思い込みが激しかったな。何をどう表現して相談したらいいのか、コミュニケーションのすべを持っていなかった。

 一年目の途中から3年間一緒に暮らして息子たちを一緒に育ててくれたウリボウは荒木ファミリーの一生の恩人です。泊原発が動き出すというので、毎週末ウリボウの運転で息子たちをつれて札幌、泊まで駆けつけた。ウリボウは今佐渡島で穏やかに暮らしている。

★ 十勝に入るとやっぱり寒かった。寒さが違った。その空気の中でカイザイクのドライフラワーの葉がグリーンを鮮やかに残してシャープに乾いていた。
  山の方で初めて迎えた春、清冽な大気、どぶといコゴミ、群生するギョウジャニンニク、アイヌの人々が狩猟採取で暮らしていたことにうなづいたり、木々草々の美しさのなんときめ細かいことに圧倒された。

★ 清水平の引っ越しには、長野、松本、大鹿村からなかまたちが手伝いに駆けつけてくれた。荷物を出し障子を貼り雑巾がけをみんなでしてくれた。

終わって集合写真をとりました。このシーンを胸に何があっても頑張ろうと思った。
ザ・ラスト・シーン of 清水平 ひさおと
ミヅ@修那羅峠 修那羅仏と。ミヅをずっとまもってくれていると母は信じている。 1歳10か月→36歳
ユイ小学校2年生→43歳 入山部落入り口馬頭観音様と。 ユイの道中をずっと守ってくれていると母は信じている。
そして私たちは北海道に向けて出発した。

『愛されたことがある、とは? その②』

499/10000 2020 09 17
毎週木曜日は、◆子どもらに寄せて ①子どもたちに伝えたいこと ②私の来し方を振り返る の内、今日は②で、先週の続きです。

 私をまもってくれている人々をリスト・アップします。愛する、愛される、とは私にはなにかピタッと来ない言葉です。他に表現はないものでしょうか?

④ ソウルメイツのBちゃん、Cさん。
Bちゃん一家は家族ぐるみで空気のような存在だ。いつも近くにいる。実際近くで住むことも視野に入っている。
Cさんはいつも美しいあれやこれやを送って下さって私を慰めて下さる。月に1~2度長電話になってしまう。Cさんはインターネットをやらないのだ。

⑤ 70年代に出会ったネイティブ・ヤポネシアン・ネットワークのBrothers &Sisters。だいぶ前から壮年期の子供達が前面に出てきて、爺婆の私たちはアーカイブの収集と公開をしたり、意味をつらつら考えたりして時が過ぎて行く。

⑥ 北海道に来て3年一緒にくらしたD。Dがいなかったら子供たちを育てることができなかった。今佐渡島で穏やかに暮らしている様子だ。

⑦ 八百屋のとき私を信頼して下さったEさん、Fさん、Gさん、・・・多くの取引先の方々。不義理を解消できますように。頑張れ、自分!

⑧ 北海道で出会ったあの顔この顔。揉まれつつもほっとする多くの仲間、同志たち。アタマひねって手足動かしてなるべくストレスにならないアクション方法を編み出しましょう。

⑨ FACEBOOKで出会った友達。北から南まで会いに行ける時間があるだろうか?

⑨ 息子たちの父ちゃんとの出会い

⑩ 二人の息子。とんまな母ちゃんでもいつでも一緒にいてくれることに、『信頼』をまのあたりにした。小さいときは命綱なのだから選択の余地がないといえばその通りだ。でもそんなレベルではないものを母ちゃんは与えられたのだった。

⑪ 他にも多々。自分は無数の人々の寄木造りだと悟りはじめてから20年経つ。

愛、信頼ってなんだろう?程度問題はあるにせよ欠点があるからダメとはならない。その存在そのものが在る、いてくれるということだろうか?


オシロイバナの赤です。

『愛されたことがある、とは その①』

492/10000 2020 09 10
毎週木曜日は、◆子どもらによせて ① 子どもたちに伝えたいこと ② 私の来し方を振り返る の内、今日は ②で 

私をまもってくれている人々をリスト・アップします。愛する、愛される、とは私にはなにかピタッと来ない言葉です。他に表現はないのでしょうか?

① 一番目に来るのは、やっぱり荒木家の人々です。この年になると懐かしさが先に立つように変わりますね。若いときは嫌な面ばっかりに目が行って早く出よう、としていたのに。

父と母、私には、何があってもこどもをまもろうとしてくれたように思える。他のきょうだいはわからないけれど。やりたいように我が道をゆく末娘をどんなにか心配していただろう。でも一言もいわなかった。母は今でも天国から心配しているのがわかる。
 私が生まれたとき母は乳が十分に出なかったので山羊を飼って姉たちが山羊の世話をした。私をおんぶして最上川でおしめを洗っている父のイメージ像が私の中におぼろにある。今度姉に聞いてみよう。
 男兄弟も可愛がってくれたし(それだけではないけれど)3人の姉にはほんとに可愛がられたな。一番上の姉には今でもお世話になりまくっている。

② 渋谷のA先生。この世でお会いしたたった一人のコワい方です。アホで未熟で雑で幼稚な私を透視して私の可能性でおつきあいなさって下さった。ものすごく苦しんだときのお手紙、まだ直視できない。絶対に追いつくことのできないおひとりです。出会ったのは1973年の秋、埼玉の飯能で 注文したご本を手に取った時以来です。


③ 清水平にいたとき、ギブ&テイクなしに、どこの馬の骨かわからない私たちに良くして下さった日向のおばさんと池田の爺さん。


懐かしい人々、もの思いにふけってしまいます。一回では終わりそうにないので、続きます。

 

ナナカマドの実の色は2種類あるようです。こちらはオレンジ色の方です。

『大学の卒業論文』

485/10000 2020 09 03
毎週木曜日は、◆子供らに寄せて ① 子供たちに伝えたいこと ② 私の来し方
のうち ②で、卒論書きの奮闘の様子を書きます。

★ 大学5年目、卒論を残すのみ、選んだテーマは、『伊藤野枝の生活者』だった。
 なぜ伊藤野枝か?それは、全集が一巻しかなかったからである。それに古文をろくに読めなかったので読める明治以降の文献を選ぶより他なかった。専攻は日本史でした。
 なぜ生活者か?それは、7人きょうだいの内私だけが大学まで進み他の6人はほぼ中学で学歴をおえていて、申し訳なくてコンプレックスにもなっていたからである。余計なことを考えず黙々と生き抜いている父兄姉たちの姿ってどういうことなのだろうか?と胸に抱えてうつむいてもいたのだ。

★ 伊藤野枝の全集一巻に、関連資料は5つくらいだったろうか、そのうち覚えているのは、
松田道雄さんの『恋愛なんかやめておけ』一冊である。このなかで松田さんが、野枝の生活者を見る目が実にまっとうであると仰っていて、これを読んだのが直接のきっかけでこのテーマに決めたのだった。
 史料が手元になくうまく言葉にならない。今の私の言葉でいうと『生活者は劣っている下層ではなくこの人たちこそは世の中をかたちづくり支えているのだ』と野枝は感受していた。
 まわりの目を気にすることなく猛進して次々と子供を産んで人生を駆け抜けた野枝のこの感受は意外で、自分のニーズへのひとつの答えであった。

★ 迫る締切とにらっめこ、最後は時計を見ながら、字の間違いを原稿用紙に切り貼りしながら集中した。どんな質問にも答えることができた。私の勉学と集中の貴重な原体験である。
 提出して80点を頂いた。卒業してからも長い間、“ 卒論の締切が迫っている! ”と冷や汗をかいて目が覚めた。あ、もう卒業しているんだ、と胸を撫で下ろした。

★ 放送大学かどこかで今度こそ本当に勉強がしたい、といつも胸の中にある。
  もし論文を書くなら、極力周到に準備してプランを立てて時間を先取りしてコツコツかける可能性が今はある。当時はそんなノウハウなどどこにもなかった。やみくもにやるしかなかった(私の場合です)。
  大学の5年間、ほんとうにもったいなかった。今ならここぞとばかり図書館に詰めて勉学に勤しむだろう。いまからでも仕方がない。できる限り素養を積んでと心している、激変する時代なんするものぞ。
  野枝が大杉栄、橘宗一少年と共に虐殺されてこの16日で100年になる。遅ればせながら今年は胸に迫る。
  

特大サイズのエノコログサ。ムラサキエノコロのようです。

『お盆と敗戦の月を送る』

278/10000 2020 08 27
毎週木曜日は、◆子供らに寄せて ① 子供たちに伝えたいこと ② 私の来し方 のうち
今日は②で、8月の終わりに戦争のないこの国、戦争のない世界を祈ります。

 コロナ、政局、経済情勢、少子高齢化etc.と情報がかまびすしい。
 情報を無視するわけにはいかないけれど、右往左往しない、びくびくしないことだと自身を律することにつとめている。

 イノチの連続の危機が身体の真ん中に入ると、喜び、笑い、悲しみ、苦労、怒り、戸惑い、疲れ、ぼうっとなるなどなど生きてあることが危機を背景にくっきりとしてき始める。シリアスにならないように気を付けようと心する。

 『戦争後の人生は余生です』と、木村師、八光流武術と施術の神業達人だった、は仰っておられた。
 『この国の滅亡を回避するために』と、出会ったかれこれ50年前にすでに、わが師は仰っておられた。一番危ないのはアメリカと日本だと。今や日本の方が危なく見える。
私は肯くことはできたけれど果たしてどこまでわかっていただったろうか?
 子供たちの父ちゃんは、『年寄の昔話にしか聞こえないでしょ?』と戦争時の話をすることは、こちらから聞かない限り殆どなかった。こちらも聞く力を持っていなかった。戦争の時代の渦中にあったその絶望のほどに思いを寄せてみようとする。

 2015年夏以来慌てて、“ 戦争NO!”の声を上げ始めて5年、この冬から疲れが出てアクションの方は一休み状態だった。コロナも加わり考える時間ができて、拙いながらひとつまとめることができてその分心が落ち着いた。注目しているのは若い人たちの斬新でまことに素直で柔軟な発想と行動だ。そうしていると次々とアンテナにかかってくる。
  
 いのちの継続を何としてもあきらめることができない。これは生物の本能だ。
 今黄泉の国から私たちを見守ってくれている(と信じている)先立ちの言葉と存在をこれほどしみじみつくづくと思われる、お盆と太平洋戦争敗戦の8月はなかった。(この続きは金曜日に書きます)

満開のブルー・ウイング。紫に近い今年、来年はミネラルをもっとあげよう。花の色が冴えるはず。

 

 

『お盆、1960以前』

464/10000 2020 08 13
毎週木曜日は、◆子供らに寄せて ① 子供たちに伝えたいこと ② 私の来し方 のうち
今日は、②で、子供の頃のお盆の思い出です。盆と正月、それと9月15日の金平神社のお祭りは本当に特別な三大年中行事でした。

☆ 盆前にお墓掃除に行って来いと母に言われる。一度か二度、やんちゃな弟と行ったことがある。利明君はもちろん掃除なんかしないでふざけている。林の中で蚊とぶよの強力な攻撃の中、喧嘩しながら草をむしり草を刈る。骨入れの重いコンクリートの蓋をおそるおそる開けてみる。
 今では駐車場のため木が切られて広々と明るくなっているけれど、ご先祖様方眩しすぎるのではなかろうか?現世人にも霊界との交流には過剰照明感が否めない。

☆ 盆にはまず大掃除をする、母が、です。質素な畳の上に行事用のうすべりが引かれて盆の香りが漂う。
 盆灯篭を出して、仏壇にお飾りをする。棒を渡して何を掛けていただろうか?季節の何かではある。酒田のばあちゃんのところではそうめんをキレイにかけていて所変われば、と見ていた年がある。
 お供えのメイン・ディッシュは、大きな蓮の葉っぱに柳の枝の皮をむいた箸を井桁に組み、その上にご馳走をのせる。おはぎ(納豆、きなこ、ごま、小豆あん)をはじめとして、その日の献立をまずご先祖様に召し上がって頂く。季節の野菜、果物も仏壇前に揃う。
 盆灯篭は燃えやすいので火に気を付ける。
 父の実家、富並から長兄さんがお盆の挨拶に見える。お土産が仏壇に供えられる。覚えているのは、大きな夕顔、夕顔を見るたびに思い出す。

 お墓詣りのために遠い親戚の下駄やさんでぽんぽん下駄を買ってもらう。本当に大きなことだった。母のやりくりがしのばれる。下駄やさんの店のわきには下駄の大きさに切った材料が高く積んであって塔になっている。
 きれいな着物を着せてもらい帯を締めて真新しい下駄を履いて、手には小さな盆提灯を下げて父に連れられてお墓詣りに行く。荒木家はいつも他家より遅くなるのだった。小学校一年の時に着た初めて記憶に残っているメリンス生地の着物はその後母の腰巻になったのをもらってきて今でも捨てずに持っている。

 お盆が過ぎると、お供えの蓮の葉のお膳を最上川に流す。

☆ 川開きと花火大会も盆の頃だった。お昼に町中の住職様が特別の法衣で舟に乗り込み水難の供養をして無事を祈る。朝仕事で父と二人の兄が、最上川の岸に桟敷をつくる。隣近所の桟敷も並ぶ。親戚一同が集まって花火を見る。スイカを食べたりした気もする。私は花火の音が恐くて家と桟敷のあいだをびくびくしながら行ったり来たりした。
  そういえば同時開催で灯篭大会もあった。子供たちの工作の小さな灯篭が流れていき、町内会ごとに大人は大掛かりな灯篭を出して若い衆が川に入って引いていく。

☆ 私の二人の息子の原風景はどんなものだろうか?生活に追われるのみで伝えるべきもの、伝えたいことが伝えられなかった、といつも思っている。こういった生活文化は孤軍奮闘で伝えることはは難しく、風土に根差した家族と、地域共同体あってこそと実感する。
 1960年、県庁所在地に引っ越す前の私の原風景が懐かしくてたまらないトシになっている。

普段とあまり変わらない我が家のお盆。去年から登場したお飾りです。これ名前、何というんだろうか?

『もし文部省教育の体育が4だったら』

毎週木曜日は、◆子供らに寄せて
① 子供たちに伝えたいこと ② 私の来し方を振り返る の内今日は②です。

★ 私は小学校一年のときから、学校の体育、当時は“体操”といった、がまるでダメだった。走るの遅い、せめて目立たないでビリになりたかった。ボールはこわい、ダンスにはついていけない、オクラホマ・ミクサー止まり、跳び箱は跳んだ記憶がない、それに長縄跳びに入れない。ひたすら耐えた。口に出せるようになったのは30代の半ばを過ぎてからだ。耐えることとアクションして前に進むことを取り違える癖があるのはこのあたりに起因しているのかもしれない。そういえばお手玉もできなかった。

 運動会、何が面白いのか?グランドに釘が落ちていて足裏にけがをして休めますようにとイメージした。一度もそんなことはなかった。運動会は最大のビッグイベント、母が重箱に沢山ご馳走をつめて見に来るのも、なんか悲しく苦しかった。

 中学では、運動会のマスゲームで同じ位置に来れなかった生徒を教師は殴った。転校するとまさにイメージ通りの体育教師だった。高校も以下同文。

★ 明るい光が射してきたのは、大学2年の教養課程で、体育の先生が、卓球だったと思う、分解してこうすればできるようになると教えてくれたのだ。
 『思想の科学』誌で、からだの動かし方は文部省の学校教育のやりかただけではない、と知り始めてもいた。
高校の時その体育教師が、クロールを分解して教えて殆どの生徒がたちまち泳げるようになったのを見ていた。私は何かの事情で乗り遅れてその中に入らなかった。

★ 浪人していた時の夏、殆ど毎日馬見ヶ崎川の市民プールに通い練習した。家でテキストを繰り返し見て、NHKの夏休み特番の水泳教室に目をこらしてはプールに通う日々だった。しかし、平泳ぎが前に進まない。それを見ていたビキニ姿の素敵な女性がアドバイスしてくれて私はついにスイスイ前に進むようになった。
 プールで覚えたので川と海では、足が立つか確かめてから泳ぐ。それは泳げるうちに入らないという人もいる。それでも泳ぐのが一番リラックスする。姉は最上川を横切って向かいの横山まで泳ぎ着いていた。帯広ではうりぼう(ニックネームです)に拓成川の奥に連れて行ってもらい、子供達、犬のクロも一緒に泳いだ。札内川で善男善女に混じって泳ぐのも楽しかったな。
 私は身体を動かすのが好きなのだ。来世の職業の候補の一つは振付師である。盆踊りは大好きで寝ながら踊っていた。北海盆唄は動作が二つだけだし。“しうこ、もう帰ろう”(山形・大石田弁で)いやいやながら姉たちと家に帰った。


★ 他の学科はそこそこできてずっと学級委員長もやっていたのでこの落差が私の人生に与えた影響は小さくない。お情けで5段階評価の3がついたけれど実力は1だった。もし4がついたら、悩みも苦しみも殆ど体験することなくフツーに会社員か公務員になってのほほんと生きたかもしれない。

★ なぜ できるようになるやり方を教えることなく評価が固定されるのか?殴られるのか?居残りで練習させられるのか?
 できるようになる方法、技術はないのか?楽しめる程度で十分だ。
 数年前テレビかSNSで、体育専門の家庭教師さんがいるのを見て、これよ、これ!と狂喜した。体育の苦手な子供達よ、そこそこでもできるようになるやり方があるんだよ!

★ この国の体育の授業は明治維新以来貫かれている富国強兵の国策軍事教練だったのだと今では知っている。一人一人の尊厳を足蹴にしてめくら滅法に突き進み完敗した。太平洋戦争敗戦後75年、今この国は戦わずして敗戦に突き進んでいる。、私達のいのちと暮らしを足蹴にして。

帯広市稲田浄水場のハルニレの木、樹齢200年  木登りもダメでした。今となってはいいんんですけど。
できない!とそこで立ち止まってしまっただけかもしれないコワガリータの私です。それにしてもな・・思案続きます。