『お母さんの大石田料理 その1』

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毎週木曜日は、◆子供らに寄せて ①子どもたちに伝えたいこと ②私の来し方 のうち
今日は②で、荒木家のお母さんの料理のことを書いておきます。

★ おかあさんの作るものはみんな茶色でいやだ、とわがままこいていたな。カラフルなサンドイッチとかがナウくていいものだと洗脳されていたわけだ。
  それが50過ぎると、お母さんの大石田料理が食べたい、と身体が記憶をよみがえらせて思いが募る。今ならお母さんの料理だけで一向に構わない。グルメしたいとも思わない。
  お母さんの料理がいいものだったのだと目が開いたのは、1972年にマクロビオティックをを通じて食養に出会ってからだ。だから私がスーパー・マーケットの食べ物を主に食べたのは約10年ということになる。


★ 1960年、高度経済成長政策が本格化した年はまだ世帯数の半分は農業に従事していてその半分は兼業だった。

Chart showing Japan's declining farmer population.
悲惨といってよい激減ぶりだ。


http://www.crosscurrents.hawaii.edu/extra.aspx?lang=jap&site=japan&theme=work&subtheme=AGRIC&infounitid=JWORK102&choice=chart

★ 中学校には学校田も学校林もあり、田植え、稲刈り、山の下刈りの日もあった。
大石田は職人の町で、22軒の川端部落で、サラリーマンの家は二件ほどだった。川端部落のことは後程書きます。

★ お母さんの食べ物がうまかったのは、舌の味覚の記憶に加えて環境がある。
当時は食品添加物はそれなりにあったけれど今のように加工食品に頼る暮らしではなかった。殆どが、今でいう手作りだった。化学農薬はまだなくて、農家の子どもたちが確か柳の枝を持って今年は稲に虫がつかないようにと歌ってねり歩く『イナムシカンカラカン』の日があった。核実験の放射能のことはよく知らなかったけれど、雪はたべると放射能がついていると食べなくなった。排気ガスもほとんどない。自動車を持っているのは役場と店をやっている家くらいだった。そう、空気が今と違っていたのだ。
野菜は勿論家の前で作っていたし、サツマイモ、豆、ゴマまで山の畑で作っていた。大八車に肥え桶をつけて運んだ。子どもたちは食べるだけだったけれど。
 水は井戸水だった。農業人口が約半分でサラリーマンは少なくて、人人の多くは身体で生きていた。地域共同体で秩序がまもられ祭りと冠婚葬祭がとりおこなわれた。
 金回りはたいへんだったけれど、世の中全体に活力があったのだ。

 これがお母さんの料理の背景である。具体的な献立は来週に書きます。

今年は秋になってから、ひょう(スベリヒユ)を干しました。お母さんが毎年真夏にやっていた仕事です。
マツバボタンは、近所の家のまわりに植えてありました。花も子どものころ近くにあったものを植えたくなります。