『北海道に来て満35年』

406/10000 2020 09 24
毎週木曜日は、◆子どもらに寄せて ①子どもたちに伝えたいこと ②私の来し方 のうち
今日は②で、来道満35年の回想です。

★ この秋で北海道は十勝地方に来て満35年になる。
 ひさおの黄緑色のワゴン車に荷物と二人の子ども、松田トムと一緒にひさおの運転で私たちは、清水平を後に北海道に向かった。信州~福島―ダマリが待っていてくれて歓迎してくれた。ダマリも今は天国だ~山形―実家~岩手・花巻-もっちゃん もっちゃんが先にトラック一台分の荷物を運んでくれていた~苫小牧~日高を抜けて十勝に入った。

 道中はとても和やかで、ひさおもトムもほんとにやさしいやつで下の息子は1歳10か月、丁寧に車を止めてくれたので一回もおもらしをしなかった。トムはきれい好きで二人で車内の整理整頓につとめた。我が家の仏像はトムが彫ってくれたものだ。

 山形では父と母に会った最後になった。
 父はとってあるぬいぐるみとかいろいろとくれた。今の借家に引っ越すとき一つだけでもとっておけばよかった。家の兄が銀杏の実を沢山くれて北海道まで持って来た。
 この時かその前か父はこどもを風呂に入れてくれた。ほんとに子どもが好きなんだと胸に刻まれた。数少ないお爺ちゃんとのつきあいだ、でも覚えていないよな。
 糖尿病でずっと寝た切り状態の母が起き上がって杖をついて出て来てくれた。家の嫁さん『歩くとすぐ転ぶから杖を隠してあるのに』 何度も骨折していたのだ。その時の母の姿を思い出しては心配性のその胸の内を思いやる。
 生まれ故郷の大石田に寄り川端部落の金平神社にお参りして、私たちの北海道行きをまもってくれるようにお願いした。 

ぬいぐるみは父から。とっておけばよかったな。

★ 十勝に入ったものの、二人の子供を連れてお金も殆どなく自分が何をやろうとしているのかわかっちゃいなかったのだから、押しかけてきたので付き合わざるを得なかった友達、宇井さん、茂子さん、フカ一家にはごめんなさいと頭を下げるより他ない。ごめんなさい。山の中の一軒家からポッと出て来て世間も知っちゃいなかった。
 後で振り返ると、菜食だったこと、清水平は寒いので有名だったこと、それに産前産後の無理と重なってテンパり度100%超えていたと思う。『産前産後は冷やしてはならない』と身に沁みたのは更年期に入ってからだ。
 息子たちの父ちゃんはどこにいたかというとU.S.Aに長期滞在中でいつものように家にはいなかった。

★ 私の北海道行は、若気の至りで相当無謀だったとこれも後になって思う。今日寄ってくれた福島から移住してきた友達は移住先を決めるのに私の知っているだけで2年はかけて徹底リサーチしていた。自分と違うなあ、とひたすら感心した。
 今なら、友達、行政に相談して、松本あたりで代用教員でもしていたかもしれないと想像したりする。なにもかも一人でやらねばとの思い込みが激しかったな。何をどう表現して相談したらいいのか、コミュニケーションのすべを持っていなかった。

 一年目の途中から3年間一緒に暮らして息子たちを一緒に育ててくれたウリボウは荒木ファミリーの一生の恩人です。泊原発が動き出すというので、毎週末ウリボウの運転で息子たちをつれて札幌、泊まで駆けつけた。ウリボウは今佐渡島で穏やかに暮らしている。

★ 十勝に入るとやっぱり寒かった。寒さが違った。その空気の中でカイザイクのドライフラワーの葉がグリーンを鮮やかに残してシャープに乾いていた。
  山の方で初めて迎えた春、清冽な大気、どぶといコゴミ、群生するギョウジャニンニク、アイヌの人々が狩猟採取で暮らしていたことにうなづいたり、木々草々の美しさのなんときめ細かいことに圧倒された。

★ 清水平の引っ越しには、長野、松本、大鹿村からなかまたちが手伝いに駆けつけてくれた。荷物を出し障子を貼り雑巾がけをみんなでしてくれた。

終わって集合写真をとりました。このシーンを胸に何があっても頑張ろうと思った。
ザ・ラスト・シーン of 清水平 ひさおと
ミヅ@修那羅峠 修那羅仏と。ミヅをずっとまもってくれていると母は信じている。 1歳10か月→36歳
ユイ小学校2年生→43歳 入山部落入り口馬頭観音様と。 ユイの道中をずっと守ってくれていると母は信じている。
そして私たちは北海道に向けて出発した。