『好きだったこと』

681/10000 2021 03 18
毎週木曜日は、◆子どもらに寄せて ① 子どもたちに伝えたいこと ② 私の来し方・思い出の内 今日は②で、私が好きだったことを振り返ります。

❝生まれつき❞ってありますね。
物心ついて以来、好きなことはそれほど変わっていない。

生まれつき好きだったことがいくつかある。
植物、紙、本、音楽、自然
これは小学校の低学年から好きだった。

家のまわりにはが植えてあり、どこに何があったか思い出すことができる。夏休みの宿題に雑草の押し花をつくった。
新聞折込のチラシの中からきれいなを机の引き出しに入れてコレクションしていた。
紙人形、ままごとも大好きだった。着せ替え人形はてい子姉ちゃんがつくってくれた。
好きは父のDNAかもしれない。春日八郎、三橋美智也、美空ひばり・・夢中で聴いた。

も大好きで、20歳前後は世界文学全集から大長編物を読んだ。
『チボー家の人々』『戦争と平和』『アンナカレーニナ』『復活』『カラマーゾフの兄弟』
『罪と罰』『ジャン・クリストフ』『魅せられたる魂』・・・

生まれ育った大石田町は自然がいっぱいだった。最上川。朧気川,小山、金平さまの境内がが遊び場だった。
山登りも好きで、大学生のとき、月山、鳥海山、葉山、吾妻連邦の一部、蔵王山系と登った。

高校生のころから映画が大好きで月1~2本くらい見ていた。
山形にもアートシアターとミニシアターができてあれこれ見た。
夢中になった映画は、シナリオはじめ資料を必死になって漁った。
映画音楽も大好きで、ドーナツ版のサウンドトラック20枚くらいあったような気がする。手元に置いておけばよかった。

高校・大学のときは学校の勉強そっちのけで読んだのがファンタジーである。『ナルニア国物語』『メアリー・ポピンズ』『熊のプーさん』『楽しい川辺』『長い長いお医者さんの話』『アーサー・ランサム全集』・・・
『ゲド戦記』は家を出てからだろうか?『エリナ―・ファージョン集』と『指輪物語』は20代の最後だった。

今好きなことは?と問われたら
① 本 ② 音楽 ③ 植物+My LIttle Garden ④ 映画 ⑤ 台所
に加えて 学ぶこと場をつくることがある。
『場をつくること』には自動的に脳が動き出す。まだうまく言葉にならないけれど。

今日は、好きだったことと今好きなことのメモ書きでした。

 

苔から春が来ています。スマホを持つようになって写真も大好きになって、もっとうまくなって絵葉書をつくろうと思っています。

『ひさおが来る』

652/10000 2021 02 18
毎週木曜日は、◆子どもらに寄せて ① 子どもたちに伝えたいこと ② 私の来し方・思い出の内 今日は、②で今北海道に来ているひさおのことを書いておきます。

 ひさおが北海道に来て今帯広にいる。まもなく会える。35年ぶりになる。長い間、オーストラリアのタスマニアをベースにしていたのが、日本に帰ってきてコロナで帰れなくなって福井の実家に長逗留することになったのだ。

 ひさおは、私たちが北海道に来る前、清水平に突然やってきた。一雨あった後でいつものように小さな土砂崩れが起きて、それを踏み越えて作務衣姿でやってきた。シドニーの、当時ロバート・ハリスさんがやっていた店で、ゲーリー・スナイダーとナナオが詩の朗読会をやったとき、ナナオに会って、日本に行ったらということでやってきたのだ。

 ひさおは眠くなるとすぐ寝るひとでなんかいつもリラックスしていて一緒にいて楽な人だった。私たちが北海道に来るときは、ひさおの緑色のワゴン車に荷物を詰め込んで、松田トムと私と息子ふたりでの半月ツアーだった。私は産後の疲れがまだ後を引いていてテンパっていた、それを除けば夢のような道行だった。旅費もひさおが出してくれた。

 今思い出した。山形の実家に寄ったとき、寝たきりの母が杖をついて馬鹿娘を迎えに起き出してきた。歩くとすぐ転んで骨折するので杖は隠してあるのに。お母さん、このシーン、一生忘れません。

 そう、ひさおと会うのはそれ以来なのだ。
 今日は実は23日、19日の日曜日に滞在先の仲間の車でひさおがやってきた。ふたりの友達と一緒に。古い仲間たちの消息やらどうってことない話をした。ずっと近所にいた雰囲気だ。集まった4人それぞれ病気したり故障を抱えたりで動きもゆっくりだ。私も正座ができなくなって10年以上になる。帰ってからもなんか遠いところに行ってしまった感じがしない。

 私たちはファミリーなのだ。何年合わなくてもすぐに話が通じる。
 鶴見俊輔さんのこの言葉がさすがにうまいこと言って下さっている。確かに私たちは一種の難民とも言えるかもしれない。今の支配構造が成立以前の、2000年前の気風がよみがえっているのかと感じることがある。NATIVE JAPONECIAN BIG FAMILYである。


鶴見俊輔bot@shunsuke_bot
· 2021  TWITTERより
難民の行進の中で、不釣合の力をもつ数人が助けあう時、そこに家族の原型が表れる。文明が崩壊に向かう時、血縁による家族、私有財産の共有による家族は吹き飛んでしまって、それよりもっと根本のつながりが表れる。「人間と家族」

自然なグリーン、ひさおの妹さんの手織りです。


『雪国の早春』

646/10000 2021 02 11
毎週木曜日は、◆子どもらに寄せて ① 子どもたちに伝えたいこと ② 私の来し方・思い出の内 今日は ②で、
生まれ故郷の山形の大石田の早春の思い出です。

 春一番は、フキノトウだった。日も当たらない ウロカの塀のそばで 道路より一段高くなったところにフキノトウを見つけたことがある。すり鉢状の穴の底に顔を出していた。フキノトウの熱が雪を融かすのだろうか?常緑樹のヒノキの葉っぱが雪の上に落ちていたかもしれない。ウロカは屋号で三角の下に加だったろうか、大きな屋敷でぐるりと立派な塀で囲われていた。

 冬の終わり近く 日差しが強くなると、川端部落の入り口近くの、“青木の倉庫”の屋根に子どもたちが集まって、何をするでもなく黒い屋根に座って 春近いお日様の光を浴びた。まだ道路は雪で高くなっていて屋根に登れるのだ。

 家と家の間に積もった雪に掘った迷路に近いあなぐら(かまくら)には近づかないようになる。
 家の前は階段になっていて、融けた雪が水になって流れてくるので、階段のヘリに石垣沿いに
ある年のこと最上川の川面全面に、溶けた雪の塊が流れていったことがある。どこから来たのだろうか?二階から眺めた。融雪期には最上川の水位が上がる。やがてその岸辺にツクシやノカンゾウが生えてくる。

 アサヅキ取りに小山に行く。掘る鉄製の道具を見えなくしてべそをかいていたらゑい子姉ちゃんがなだめてくれた。すぐ泣きだしては姉たちがうまいこと慰めてくれた。

 ウロカの隣は空き地になっていて、塀の外に大きなコブシの木から花びらが散ってきて、その花びらで,ふくらますかして遊んだ。スモモの季節には、塀の外からウロカのお手伝いさんに呼び掛けた。❝〇〇さん(なんと呼び掛けたか忘れた))サダンキョ,けでけらっしゃい!!!❞、スモモ,下さい!!!女中さんの姿を2,3度見たことがあったような気がする。でもサダンキョ、くれたかな?

 彼岸になると役場から、春の“清潔”(大掃除)の通知が役場から来る。天気の良い日にお母さんが頬かむりして畳を上げて大掃除をする。囲炉裏の灰は灰通しを通されてリフレッシュする。大掃除が終わると役場の『清潔済』のお札を入り口に貼る。
それにしても子どもたちは手伝いもせず何をしていたんだろう?婿取りでばあちゃん子だった母はチームワークつくりは得手でなかったのかもしれない。
 彼岸にはメリケン粉で団子をつくって仏さまにお供えする。

 早春のメイン・イベントは雛祭りだ。大切に仕舞ってあるお雛様を出してきて雛壇を組み立て飾る。集まってきた人形や瀬戸物のウサギなども雛壇に並ぶ。完全なお揃いものではなかったけれど、お内裏様とお姫様は一番上ののり子姉さんが生まれたときに買ったもので、なかなかいいお顔で、時代が進んでから、この頃のお雛様の顔は・・、このお顔が一番だねと語り合ったものだ。
 雛壇にお供えするのは稲荷寿司と海苔巻き、それに生のニシン、
もう一つこれが三月節句のメインのお菓子、くじら餅である。もち米とうるち米の粉を練って一晩寝かして一日がかりで蒸篭で蒸す。白砂糖味、黒砂糖味、クルミ入り、味噌味もあったかな?上に色とりどりの細かい粒をまぶしたのと多種多様。一か月くらいお菓子はこれだったような気がする。今では年中売っているけれど、お母さんが竈で蒸篭で蒸したくじら餅が食べたい。

 民俗年中行事、自然と空とともに暮らすこと、息子たちに伝えたかったけれど、母一人では無理だった。せめてこうして書いておきます。世代を越えてあらたな年中行事が生まれると胸にイメージしつつ。

気温が上がった帯広の街の舗道で

『冬の遊びー1960年以前』

630/10000 2021 02 04
毎週木曜日は、◆子どもらに寄せて ①子どもたちに伝えたいこと ②私の来し方 のうち
今日は②で、子どものころの冬の遊びのことを書いておきます。

 迷路のようなかまくら(山形ではかまくらと言わなかった。なんと呼んでいたのか思い出せない、あなぐらかな?)が溶け始めるから危ない、と親に言われたかで、近づかないようになるのは、立春を過ぎた頃からだったろうか?
 屋根から降ろしたのが積みあがって家と家の間を埋めている雪に縦横無尽に姉たちと、たぶん近所の子どもたちで掘ったのだ。中学生、高校生の男子も一緒だった気がする。力仕事だし。

 雪の遊びは、そり滑り、竹下駄、迷路での鬼ごっこが代表的であった。
 雪でスロープをつくってそこを滑る。金平神社の脇の坂には子どもたちが集まる。大工だった父と兄たちが作ってくれたそりが物心ついたときにはすでに,3、4台揃っていた。うちは7人きょうだいだ。竹下駄は、それ用の下駄の底に竹をうちつけたもの。川端部落の桶屋さんの持っていって竹を打ち付けてもらったり修理してもらったりする。プラスチック、ビニールのない時代である。
 新雪が降ると、最上川の岸の平らなところに長靴で踏みつけて迷路をつくって鬼ごっこをする。今ではもうずいぶんと前から 雪が積もっても市内の公園はまっさらで、そのたびにこの迷路のシーンがよみがえる。

 大好きだったのが、箱ぞりである。大きな箱がそりになっていて後ろに手押しがついている。小さい子をのせて遊んだ。私は遊んだ記憶しかないけれど、母たちは荷物運びにも使ったいたのかもしれない。

 学校で、小山に雪遊びに行く日があって、今思うと大変だった。そりや竹下を持って小山までみんなで歩いて行く。もう途中から足が濡れてびしょびしょ、靴下か足袋か、履き替えても効果なし。今のような完璧な防寒着以前の話です。

 毎年冬前に、川端部落の阿部さんの爺ちゃんに、子どもたちの藁沓(この漢字、なかなかぴったりだ)を母が注文してくれる。雪踏みの俵も爺ちゃんの手編みだったのだろうか?
雪が降った朝は、家の前があいていないのは恥である、と母は思っていたから姉たちと母で道を開けた。私もやったことがある。朝目が覚めると入り口が塞がるくらい積もっていることがよくあった。

 メイン・ストリートの両側にはうず高く雪が積み上げれら、馬車が材木を運び、豆腐屋さんが箱そりに豆腐を積み込んでチャルメラを吹いて売りにまわってくる。
 やがて小学校3年か、4年のころ道路の舗装が始まり、ブルトーザーが侵入してきた。その時の違和感と屈辱感を忘れない。そのときは言葉にならなかったけれど。

この冬の公園での子どもたち。イラスト描く時間がなくてこの写真で代用します。

『こたつの思い出』

632/10000 2021 01 28
毎週木曜日は、◆子どもらに寄せて ① 子どもたちに伝えたいこと ② 私の来し方 のうち今日は②で、こたつの思い出を思いつくままに書きます。

 大石田の生まれ育った家の冬の暖房は、囲炉裏とこたつだけだった。囲炉裏は途中で、おおきなやぐらをつくって、たぶんお父さんが、建具もできたから、こたつになった。
 こどもだったこともあり、寒いと感じた覚えはない。豪雪地帯で家は、文字通りすっぽり雪に埋もれていたから保温もしてくれていたのだろう。

大晦日になるとこたつに足を入れてお寺の除夜の鐘を聴きながら紅白歌合戦を最後まで見るんだと決意しても最後まで聞いた覚えがない。


 一番の思い出は、お母さんが、子どもたちが学校から借りてきた本を私たちに読んでくれたことだ。弟と姉と私でお母さんを挟んで耳を傾けた。まだ小さい弟はなにか別のことをしていたかもしれない。お母さんが今日はここまでと読むのをやめると、私は決まって「それでどうなったの?」と聞くのだった。日常口語訳にしてもらわないとわからないのだ。姉は、馬鹿みたいと鼻をまげていた。『嵐が丘』『怪人二十面相』『少年探偵団』などだったかな?
 この年になって思い出すと、生きるよすがとして身の内に定着していたのを感じる。本、知識、ストーリー、お母さん、きょうだい、出稼ぎに行っているお父さんと兄たち、豪雪地の冬、がトータルな記憶となって甦る。

雪遊びで濡れた、今のように防雪服などはない、手袋、足袋、など衣類をこたつの中に入れて乾かした。囲炉裏のこたつには、お父さんたちがネットを張ってそこにのせた。

冬の洗濯、どうやって乾かしていたんだろう?覚えていない。ごろごろと4枚か5枚着せられた。とにかく寒くないようにと。上着、セーターは冬の半年着替えがなかった、一枚だけだった、気がする。

こたつはもうひとつ小さいのがあって、それは、今思い出して数えると六畳間、もっと広く見えた、の真ん中に冬用の炬燵が切ってあって、夏の間は畳の蓋をかぶせてある。このこたつに家族全員足を突っ込んで寝るのである。
 残ったご飯を握ってこたつに入れて保温して朝ごはんにした。温さで味噌とご飯がねまっていた、今なら食べるだろうか?その頃はそんなもんで風呂敷を開いてみんなで食べた。懐かしい。

 火の用心、火の用心、お母さんを中心に気を着けていた、でも、衣類が焦げたことがあったような気がする。焦げのにおいがよみがえる。

 信州の清水平、ここでは囲炉裏とルンペン・ストーブと炬燵、間に合わなかった、外との間が障子と毛布のカーテン一枚で柱と荒壁の間から外が見えた。菜食だったこともあって、あのころ体温はおそらく36度なかったと思う。今は気をつけて36.5度あるから大丈夫です。若かったから旺盛な気力でキーキーと乗り切りつつ、私たちの前の世代嫁さん方の苦労を偲んだ。一部屋でいいから冬にタンクトップで過ごせる部屋が欲しかった。
 
 こたつに足を入れて毎日,うるかした玄米をすり鉢で摺って沸かして母乳の代わりに飲ませた。哺乳瓶にあけた穴の大きさが、大きすぎないか、小さくて飲みにくくないかと気遣った。おかげで10ヶ月ころには粉ミルクアレルギーも消えてつるんときれいなお顔になった。これは上の息子です。

このこたつが活躍してくれたのは、麹つくりと納豆つくりのときだ。農文協のバイブル『わが家の農産加工』と首っ引きでがんばった。湯たんぽも動員してよくやったわ。

 今では立ったり座ったりが大変になって椅子の方がいいけれど、
 畳にこたつ部屋、ほっこりする。

 
 

つららが下がってきました。豪雪地うまれなので雪ハネはわりと苦になりません。

『はじめての記憶』

593/10000 2020 12 10
毎週木曜日は、◆子どもらに寄せて ① 子どもたちに伝えたいこと ② 私の来し方 のうち
今日は ②で,私のはじめての記憶を書きますね。

☆ 思い出せる初めての記憶は、くっきりと映像を結んでいない。何かの用事で汽車に乗って楯岡に行く父の背中におんぶされている自分である。ねんねこにくるまっている。

☆ 次が、生まれてすぐ皮膚に菌が繁殖してほぼ全身やけど状態になって藁布団に寝かされいる弟を、布団の傍らで小さな私が見ている。弟は薬を塗られて全身赤い。1950年の春だから私は3歳である。当時は今の様に消毒消毒でなく、自宅で藁布団の上での出産だった。母は40を過ぎていた。

☆ 小学校に上がる前、どろどろに汚れた着物をきて家の前にいる。気に入らないことがると大きな声で泣いた。
 家の前には、布団干しの木の棒があり、笹、キク科の花、なでしこ、大根が植えてあり、隣のまこと君の家の敷地との間にグミの木があった。笹は七夕の時に使い、大根からは種を取り、いつか甘いグミの実を食べることができるようになるだろうかと悩んだものである。熟れるのを我慢できずに渋いうちに食べてしまうから。これは小学校に上がってからの記憶だ。
 グミの渋みって抜けるのだろうか?この辺でもグミはときどき見かけて食べてみるけれど、渋みのないグミはいまだに食べたことがない。

☆ 小学校に入学するときには、二人の姉が手取り足取り世話してくれた。荷物をかけるところはここだよとか。石板と石筆を持って学校に行った。担任はベテランの女教師荒井先生で和服姿だった。川端部落22軒で全学年に子どもたちがいて5,6年生が自動的に後輩の面倒をみてくれた。吹雪の朝にはマントを広げて先頭に立ち小さな私達はしっかりとまもられて後ろからついて行くのだった。

☆ 小学校に入ると覚えていることはは急に増える。そうそう、入学だというので武田の昭ちゃんに頼んで記念の写真を撮ってもらった。昭ちゃんはサラリーマンで一歩先をいっていてカメラを持っていたのだ。晴れた空のもとで最上川の岸でおかっぱ頭にセーラー服の私が笑ってポーズをとっている。
 この写真もデジタル保存のため息子のところに送った。

思い出せるはじめての記憶はこんなところかな。

仮称・エゾミヤマクガイソウに降りた霜です。

『我が家の災難史』

576/10000 2020 12 03
毎週木曜日は、◆子どもらに寄せて ①子どもたちに伝えたいこと ②私の来し方
の内今日は①と②にまたがります。

★「お前は帯広育ちだから台風も洪水も自然災害を知らないよねえ」
ある日下の息子が小学生のとき話しかけたら、
「僕知ってるよ、おかあさんと兄ちゃんの親子喧嘩。」
し、失礼しましたっ。
それはさておき、本人抜きでプライバシーに配慮した上で私が書きます。

★息子その1の場合
① 生後一か月で「90%ダメでしょう」と医師に言われた。どうしても母乳で育てたかった私は神経が立っていて母乳が出ていないのに気付けかった。わが人生の最大の失敗である。
→ お医者さんの手当はもちろん、宇野先生,佐々井先生、木村先生が「いのちの綱を切らないで」と寝ずに祈って下さり、生還させて頂いた。

② 中学の時、だめだこりゃと母は独断、「それならうちに来ればよい」とのねむの一言で父ちゃんと一緒に能登に向かった。途中音威子府の砂沢ビッキさん(父ちゃんと親友同士)を尋ねるというなかなかの旅であった。
→ ねむ一家と一緒に暮らし、その後宮さん一家にお世話になり、女性の長橋(?)校長先生と金沢の教育委員会の村井様の特別な配慮で能登の中学校に転校できてそこを卒業した。高校は全道一区の釧路へ。八木教頭先生、マシオン恵美香ちゃんのご配慮を忘れない。結婚式には担任の先生と同級生が何人もかけつけてくれた。このことだけで小冊子ができそうだ。今日は詳細略。

③ JRの運転士になりたてで人が飛び込んできた。おろおろしたのは母だった。
→ お客様のいのちをあずかる運転士仲間の結束は固い。「同じ釜の飯を食べてますから」とのこと。

★ 息子その②の場合
 子育てとは思い通りにならぬものと悟った私は手抜きでリラックスした上多忙で夏休み何をしていたか覚えていない。何事もないなあと間延びしていたら、
① 3.11のとき都心の飯田橋のビルの何階かにいた。歩いて板橋の赤塚のアパート迄帰った。
「どうする、引っ越す?」「4月から行く会社が決まっているから」
しょっちゅう東京を離れてもいるのでその分少し母は安心、でも何事もないようにと祈っている。

② 今年はコロナでテレワーク中。ここ帯広でも状況は変わらない。

★ 二人とも高校生のときからバイトしまくり、小遣いは勿論、学費、自動車免許取得料も自分で稼いだ。お金のことが下手だった私のおかげで逞しくなったかも(?)
信州の清水平にいたときは、一雨降ると小さな山崩れが何か所も発生して車道をふさいだ。これはたいしたことない。生まれ故郷では最上川の洪水が毎年だったから。

時代が変わる。あれやこれやあるのが当たり前だったのだと思う。
  ☆ 溢れるネガティブ情報は抑えつつ引き摺られないで、
    ポジティブ情報をキャッチするアンテナを磨いておこう。
  ☆ 既成の思考と技術では間に合わないのだから、頭は柔軟に保っておこう。
  ☆ 「目の前の人はあなたを生かそうとしているのか、
         あなたを殺そうとしているならあなたはどうするか?」
  ☆ それに、ウマいことかわすコツも大事だね。
  ひとり孫姫のみいちゃんといっしょに元気にやっていきましょう。
  私は遅まきながら「これからだ」と思っています。

冬枯れです。

『息子からのラブレター』

669/10000 2020 11 26
毎週木曜日は、◆子どもらに寄せて ①子どもたちに伝えたいこと ②私の来し方 のうち
今日は②で、
三井住友信託銀行様の『わたし遺産』に応募する原稿を書きます。締め切りはこの30日と迫って来ました。字数は400字以内です。
では書いてみましょう。

題名  息子からのラブレター

『ひらいてね。/ おかあさんへ
おかあさんいつもおこらないでくだ / さい。そして、いつもいつもやさしくしてく / ださい。そしていつも心(こころ)を、こめて / いて下さい。5/12(日)よう日 』
  破ったノート一枚を四つ折りにして書かれた上の息子からのラブ・レター、これが私の
「わたし遺産」です。そのとき息子は小学校2年生、1985年でした。
 家庭を持ったら絶対に、なんでも話し合える和やかな家にする、という夢もどこへやら、
私はいつもキリキリカリカリしていました。息子たちにあまりにダメ出しばっかりする私を、
「追いつめてはいけない、どこかに逃げ道を用意してあげなくては」と、殆ど家に居ること
のなかった父ちゃんが諭したものです。
 不思議なことに息子たちは、母親の過剰なテンパりを受け継ぐこともなく独自に大きくなってくれました。<母親の目には、自分がはっきりと言葉に出せないけれども一番伝えたかったことをからだでキャッチしてくれている気がするのですけれど、息子たちにはどうでしょうか?>
 この「わたし遺産」は、母の形見の簪と鼈甲の飾り櫛の桐の箱に納めて大切に保管しています。

 これを寝かせて29日までに推敲します。<>の部分は大幅に書きかえるか省きます。

このブログをご覧下さった方にのみ、我が家の秘宝を特別公開致します。

私って“おかあさん”なんだなあ

  

納めている母の形見の桐の箱と髪飾りです。こちらも家宝です。

『生まれつき歌が好きだった』

562/10000 2020 11 19
毎週木曜日は、◆子どもらに寄せて ①子どもたちに伝えたいこと ②私の来し方のうち
今日は②で、うまれつき歌が好きだったことを書いておきます。

 私が歌が好きなのは父の血を引いていると思う。母はいわゆる音痴だったし飲んで歌って騒ぐタイプではなかった。父は民謡を習っていたらしくコンテストに出たとき三橋美智也が審査員だったといっていた。このあたりの話も聞いておけばよかった。

 流行りの歌謡曲で最初の記憶は、岡春夫と思っていたら岡本敦郎の“高原列車は行く”“白い花の咲くころ”、藤山一郎の“青い山脈”あたりだ。雪解けのころ金平様の回廊で川端部落のお姉さんたちと遊んでいた記憶と重なる。小学校の2年かそこらだったから昭和20年代の後半である。
 小学校3年か4年のとき我が家にもラジオが入って、春日八郎のヒットソング、題名歌詞、思いだせない、がかかるとそれこそ一生懸命にラジオに耳を寄せて鉛筆を握りしめて歌詞をヒアリングして書きとめようとした。全部が書き出せるには何回かかかった。歌詞の意味は完全にはわからなかった。三橋美智也も好きだった。“お富さん” “別れの一本杉” “哀愁列車” “夕焼けとんび”などなど。夕焼けトンビの歌詞そのものの風景があった。
時は過ぎて、美空ひばり、雪村いづみ、江利チエミの3人娘の時代から、ザ・ピーナッツへ。グループ・サウンズ~のころはBGMな感じでそれほど入れ込んで聴くことはなかった。

 そうそうそのころ日本にもフォーク・ソング・ブームが来たのだ。1960年代後半のことだ。高石ともや、岡林信康、中川五郎、知人の事務所では吉田拓郎のアルバム“古い船を動かせるのは古い水夫じゃないだろう”を扱っていた。岡林信康のアルバムは2枚くらい買って聴きこんだ。“私達の望むものは” “自由への長い旅”などなど。友達がフォークソング・フェスティバルをやって友部正人がゲスト出演で山形に来た。

 ほしくてたまらなかったレコード・プレーヤーが家に来ると始めて買ったのは、Peter Poul and Maryの“Puff”で、ウッディ・ガスリーのメモリアル・コンサートのアルバムも買った。
 その前のこと、1963年4月に(今検索して調べた)“9500万人のポピュラー・リクエスト”が始まった。毎週齧りついて聞いていた、DJは小島正雄。“悲しき雨音”が一位を半年くらいキープしたと思う。リトル・スティービーという天才少年が“フィンガー・ティップス”の大ヒットを飛ばしています、と紹介があった。スティービー・ワンダーである。
 東京の高崎一郎のヒット・パレード番組も評判で、聞き取ろうとしたけれど雑音ばかりで難しかった。でも全国をカバーしている“9500万人の・・”よりも動きが早かった。

1960年代の後半のNHK-FMでは、芦原英了さんのシャンソンをはじめとして、カンツオーネの時間もあり、大好きな映画音楽の時間が毎週最大1時間45分あったこともある。リクエストして二回くらい“山形の荒木しう子さん”と名前を呼ばれてうれしかった!映画音楽のドーナツ盤のサントラ盤沢山集めていたのだけれどどこかにやってしまった。若気の至りである。もうひとつ確か石田一郎?がDJのリクエスト・アワー?だったと思う、があり、どれもこれも全部殆ど欠かさず聞きまくっていた。

1970年頃すごく好きだったのは森進一と浅川マキで浅川マキは山形と吉祥寺の曼荼羅のオープニング・コンサートの一つで見た。あ、越路吹雪も山形で確か二回見ることができた。
 ビートルズの初体験は、東芝のステレオの宣伝の “Let It Be”で、なんとなくうるさい流行の音楽とかの先入観を打破された。

 1971 年の11月の末に山形にあったミニ・シアターで“Woodstock”と“Let It Be”の二本立てを見て文字通り口がきけなくなって(何回も書きました)東京に出て、Carole Kingの“Tapestry”などをチラ聞きしながら、
1975年ウェスト・コースト帰りのキヨシとタシが持ち帰った大量の音楽に接して私の音楽の好みは一変するのであった。
さて、 明日20日の夕方は、ピーター・バラカンさんが今年も帯広に来て下さるので出かけて来ます。

近くの公園で木の実に音楽を感じて撮りました。

『東京は中央線』

555/10000 2020 11 12
毎週木曜日は、◆子どもらに寄せて ①子どもたちに伝えたいこと ②私の来し方
の内、今日は②で第二の故郷、東京の中央線時代のことを書いておきます。

★ 私の故郷は、三つある。生まれ故郷の山形の大石田、二番目が東京の中央線、三番目が信州の清水平である。

中央線沿いで今に続くなかまたち、BROTHERS and SISTERSと出会ったのだ。東京の中央線では国分寺あたりになると「今日は東京に行ってくる」というのだった。東京にいたときは殆ど中央線沿いで都心部にはあまり行ったことがない。

 1971年の11月の末、ミニシアターで“WOODSTOCK”と“LET IT BE”の二本立てを見て文字通り口がきけなくなった一日か二日後、山形を後にして、ここにいけばなんとでもなるだろうと当時高田馬場にあった山岸会の案内所にまず行った。
 そこで教えてもらって吉祥寺の土方コミューンに一か月いて、工事現場のガン吹き職人の手伝いに井の頭線の浜田山に通った。東京は毎日晴れていて毎日富士山が見えるのに感動して二度と日本海側には住まないと決めた。水道通りを歩いて帰って来ると、空気が乾いていて薄い靴下一枚のかかとが割れた。
 1972年新年 山岸会に集まった何人かで家を一間借りたので荻窪に移った。この出入り自由の家で何人もの友達と出会った。家は“夜迷亭”と名付けられハチャメチャだった。今の若い人ならもっと賢くマネジメントするだろう。当時吉祥寺にいたあぱっちのアパートに『名前のない新聞』発行の手伝いにいったこともある。途中夏に京都まで旅に出て戻って年を越す前に調布の布田に移った。ここに約半年いた。
 1973年大家さんが壊すので引っ越すことになり、夏に再び京都に行き長崎まで足を延ばしたのはこの時だったと思う。秋に関東に帰って佐藤工務店の工事現場のあった埼玉の飯能に九月から年明けまでいて、多摩ニュータウンの友達のお産手伝いをする予定だったのがなかなか生まれず、山形に帰って約束していた親戚筋のおばあちゃんのお手伝いに4か月もいただろうか、そのあと結城登美雄さん(地元学)の左沢のお母さんの実家に行ったことがある。その後自分の実家で断食を一週間やって『地球の上にに生きる』を見ながら楽しく縫い物にいそしんだ。
 その年1974年の8月に山形をあとにして、
(何をやっているかわからない末娘をお父さんと、特にお母さんはどう思っていたのだろうか、どんなにか心配していただろうと今頃になってその胸のうちを思いやってももう遅い。)
山形を後にして向かったのは、長野県の入笠山、ここで “いのちのまつり” なるものがあるという。
 入笠山で濃い出会いをいくつもして、雷赤鴉でしばらく暮らして国分寺へ出た。ひと冬ウロウロしていると、1975年、中央線沿いは春から始まる“MILKY WAY CARAVAN”のうわさで持ちきりになった。バッグパックの要領を教えてもらって、沖縄の読谷村から知床半島まで歩いたりヒッチしたり乗り物に乗ったりして大勢のなかまたちと縦断した。その冬は旭川で越して1976年早く再び国分寺へ、一か月西荻窪の友達の部屋を借りた後駅国立、市は国分寺のアパートに引っ越した。このころ西荻窪に“ほびっと村”ができてご自宅でなさっていた木村先生の指圧教室もそこに移って毎週西荻まで通った。約一年後信州の清水平に移住したのは1977年の4月だった。

 ★ 中央線沿いを中心にして、今も続く多くのなかまたちとシンクロ二シティな出会いがあったのだ。この出会いを何と呼べばいいのだろう? で、私は何をしていたのかというと、生計はフリーター、工事現場の掃除、美術モデルなどでやりくりして、自分がなにをしたいのかがわからない、をやっていたようなものであった。今ならもっと賢く、形が出るように学び形が出るように仕事をする、かもしれない。後悔はしていない。歓喜と混沌のごちゃごちゃの渦中で吹き飛ばされそうになりながら、若さの勢いがあったにせよ、生き延びることができたのだから、大したことないけど。



2,3日間の落ち葉です。今年は落ち葉にも見とれました。