『こたつの思い出』

632/10000 2021 01 28
毎週木曜日は、◆子どもらに寄せて ① 子どもたちに伝えたいこと ② 私の来し方 のうち今日は②で、こたつの思い出を思いつくままに書きます。

 大石田の生まれ育った家の冬の暖房は、囲炉裏とこたつだけだった。囲炉裏は途中で、おおきなやぐらをつくって、たぶんお父さんが、建具もできたから、こたつになった。
 こどもだったこともあり、寒いと感じた覚えはない。豪雪地帯で家は、文字通りすっぽり雪に埋もれていたから保温もしてくれていたのだろう。

大晦日になるとこたつに足を入れてお寺の除夜の鐘を聴きながら紅白歌合戦を最後まで見るんだと決意しても最後まで聞いた覚えがない。


 一番の思い出は、お母さんが、子どもたちが学校から借りてきた本を私たちに読んでくれたことだ。弟と姉と私でお母さんを挟んで耳を傾けた。まだ小さい弟はなにか別のことをしていたかもしれない。お母さんが今日はここまでと読むのをやめると、私は決まって「それでどうなったの?」と聞くのだった。日常口語訳にしてもらわないとわからないのだ。姉は、馬鹿みたいと鼻をまげていた。『嵐が丘』『怪人二十面相』『少年探偵団』などだったかな?
 この年になって思い出すと、生きるよすがとして身の内に定着していたのを感じる。本、知識、ストーリー、お母さん、きょうだい、出稼ぎに行っているお父さんと兄たち、豪雪地の冬、がトータルな記憶となって甦る。

雪遊びで濡れた、今のように防雪服などはない、手袋、足袋、など衣類をこたつの中に入れて乾かした。囲炉裏のこたつには、お父さんたちがネットを張ってそこにのせた。

冬の洗濯、どうやって乾かしていたんだろう?覚えていない。ごろごろと4枚か5枚着せられた。とにかく寒くないようにと。上着、セーターは冬の半年着替えがなかった、一枚だけだった、気がする。

こたつはもうひとつ小さいのがあって、それは、今思い出して数えると六畳間、もっと広く見えた、の真ん中に冬用の炬燵が切ってあって、夏の間は畳の蓋をかぶせてある。このこたつに家族全員足を突っ込んで寝るのである。
 残ったご飯を握ってこたつに入れて保温して朝ごはんにした。温さで味噌とご飯がねまっていた、今なら食べるだろうか?その頃はそんなもんで風呂敷を開いてみんなで食べた。懐かしい。

 火の用心、火の用心、お母さんを中心に気を着けていた、でも、衣類が焦げたことがあったような気がする。焦げのにおいがよみがえる。

 信州の清水平、ここでは囲炉裏とルンペン・ストーブと炬燵、間に合わなかった、外との間が障子と毛布のカーテン一枚で柱と荒壁の間から外が見えた。菜食だったこともあって、あのころ体温はおそらく36度なかったと思う。今は気をつけて36.5度あるから大丈夫です。若かったから旺盛な気力でキーキーと乗り切りつつ、私たちの前の世代嫁さん方の苦労を偲んだ。一部屋でいいから冬にタンクトップで過ごせる部屋が欲しかった。
 
 こたつに足を入れて毎日,うるかした玄米をすり鉢で摺って沸かして母乳の代わりに飲ませた。哺乳瓶にあけた穴の大きさが、大きすぎないか、小さくて飲みにくくないかと気遣った。おかげで10ヶ月ころには粉ミルクアレルギーも消えてつるんときれいなお顔になった。これは上の息子です。

このこたつが活躍してくれたのは、麹つくりと納豆つくりのときだ。農文協のバイブル『わが家の農産加工』と首っ引きでがんばった。湯たんぽも動員してよくやったわ。

 今では立ったり座ったりが大変になって椅子の方がいいけれど、
 畳にこたつ部屋、ほっこりする。

 
 

つららが下がってきました。豪雪地うまれなので雪ハネはわりと苦になりません。