『優しい人々がいる』

611/10000 2021 01 07
毎週木曜日は、◆子どもらに寄せて ①子どもたちに伝えたいこと ②私の来し方 のうち
今日は①で、この秋から年始に会った優しい人のことを書いておきます。

その① 信州の山里住まいも長い旧い友だち、年月と加齢が重なる、お互い様。近くにいる一人暮らしになった友達をさりげなく訪ねている。この人の場合、生まれつきの心身が動いているのだ。ほっとする、温かいものが胸に広がる。難しいけどね、とは言っていたけど傍目にはそう見えない。

その② 年越新年会も3回目。ホストの友達は、何も持って来るなよ、と念を押す。お母さんを最後まで介護し切って何年になるかな。ほいほいと言葉通りにしてもノープロブランな、こんな友達、気楽でいいもんです。

その③ その②の宴で一緒になる友達のひとりが、果てしない馬鹿話の途中でそっと目立たないように話しかけてきた。
仲間のひとりの息子が新聞に出ていたのでちょっと札幌の警察署まで行ってきた、コロナで面会はできないけれど、差し入れを置いてきた、お父さんはもういないしお母さんとも音信不通だし。世の一隅にともる灯りである。「真実」とはこんなときに使うのではないだろうか?

その④ ダンナが病気で入院中の古い友だち、このご時世で面会に行っても顔を見ることもできない。本人は歩くのに杖が必要、なのに自転車で転んだって。立った座ったりが楽な座椅子を買ったよ、これはうちの息子。わが家は、3人とも❝優しい星❞のもとに生まれている、と四柱推命で見てくれた人に言われている。身内ネタはここでは省略します。

その⑤ ①の友達から年明けにギフトが届いたとの知らせがあり、②の友達まで④の息子がとり取りに行った。何の改良もしていないリンゴ(ジャムになった)もち米、何袋ものホーリーバジルのお茶(誰かにおすそ分けしよう)。このお茶にこのリンゴジャムをちょっと入れるとほんとに美味しい。秋に来た時もちゃんと心づくしのお土産と一緒だった。

 きょうびの正月はあっという間だ。数々の祝福を胸に今年も出発しよう、コロナには十分に気をつけて、国の最高機関に居座る優しくないゾンビ集団も要注意、なんとかしなくちゃな。

今冬初積雪。帯広市内は30cmくらい。

  

『よい年越しです』

604/10000 2020 12 31
毎週木曜日は、◆子どもらに寄せて 
今日はLIVEでアラキ・ファミリーの年越しの様子を書いておきます。

 私の息子は二人です。
 28日に、弟の方がが帰ってきました。帰省中の二階の大掃除はなんとか敢行、下は見て見ぬ振りを要請しました。

 29日は、歳末買い出しです。帰省しても友達に会うことも今年はないのでレンタカーなしで、兄の登場です。兄の車で、エスコート二人も付くという何とも豪華な道行となり、三人ともマスクして乗り込みました。生協→メガネやさん二軒、二件目が親切丁寧で検眼してもらって新年10日にはできるとのことでした。細々したことは判断の早い兄ペースでスイスイと進みました。靴屋さんには二番目と二人で行ってスロー・ジョギング用と冬用の二足を新調してもらいました。


 30日は、年越し料理のめどをつけて、年賀状の宛名を書いて出しました。
 31日は、いよいよ居間兼オフィス(というか)の大掃除です。抜本的にソファ、テーブルも退けて埃をふき取ります。荷物と紙が多すぎる(確かに)のクレーマーさんが救援に乗り出し意識朦朧の老母をリードして何とかひとまずスッキリかたちがつきました。私は踏み台にのって埃払いをしながら、息子の質問、いるのかいらないのか?に答えながらこの数年の自分の頑張りを偲びつつ、転げ落ちないようにひたすらそれだけは気をつけました。
 途中で兄が、年越しオードブルを配達に来てくれました。私は準備していた年に一度のプレゼントを渡し、叔父さんはみいちゃん(兄の娘)へのお年玉を渡しました。そこで兄の嫁さんのお父さんとこまで往復乗せてもらって、朝に準備した私の年越し料理を届けました。なんとGo Toキャンペーンだかで買ったというもち米10kg、頂きました。

 というわけで、台所の大掃除は去年に続き新年に持越しと観念しまして、いよいよまったり年越しです。兄の極めて豪華なオードブルのため、ビールを空けて、日本酒を燗するくらいしかすることがなくて、丈の足りないソファで寝転んで夢うつつでありました。鏡餅と自家製年越し正月料理をお供えするのは元旦にすることになったので父ちゃんにはちょっと淋しい思いをさせてしまいました。年越し蕎麦も明日でいっかということになりました。

タンパク質はぜ~~んぶ美味、満足満腹。サラダと酢漬けは自家製です。右の魚はごま油と塩で、とグルメな舎弟殿。
心の中で、寒風の中露頭をさまよう人々(明日は我が身)を思い、支援活動に挺身しておられる人々に敬意を表しつ頂きました。暮れには僅かながら寄付致しました。

『起業準備を今からしておこうー孫姫みいちゃんへ』

590/10000 2020 12 17
毎週木曜日は、◆子どもらに寄せて ①子どもたちに伝えたいこと ②私の来し方 のうち、今日は①で孫姫へのメッセージです。

 みいちゃんはパソコン、俺よりできるよ、とお父さんが言っていました。しうこばーばは今日の午後、情報技術の最前線情報をYOUTUBEで見ていました。今すぐパッとはできないけれど、来年の目標の一つに入れました。正解不在の時代の中でなかまとアイディアと思いを交換しながら答えをつくるには欠かせない技術だというのはわかりました。

私は、来年から『しうこばーばの自分史講座』を開講してそれでやって行こうと今準備中です。あとせめて10年早かったら、という思いはもちろんあります、でもやろう、やるしかないと自分の内から湧いてきているものに従っていこうとしています。

 みいちゃんには、高校一年生の今から、起業することを念頭に知識とノウハウを蓄積していってほしいと願っています。もちろん、決めるのはみいちゃんです。私は本当に呆れるくらい何も知らなかった、それでこの20年ほど何が不足していたのかを私なりに学んできました。13歳で知っていれば、と何度思ったかわかりません。

さらに今はIT技術の急速な進歩で発想そのものが様変わりしていて、しうこばーばは追いつくことは無理としても必要なことはひとつひとつがんばってできるようになろう、ならねば、と新年を目前にしての決め事です。みいちゃんはIT NATIVEで羨ましい!

これからは会社中心ではなく、仕事はプロジェクトごとなるだろうと予測されています。これから急速に変わっていくでしょう。
 知識とノウハウのみならず、仕事そのものの発想、コミュニケション法も全く変わっていく、すでに最前線ではチェンジ、進化しています。
 上意下達、上の言うことには従うしか答えはない、これでは生産力は上がらないし、今この列島~地球が抱える数々の問題にも対処できません。

 みいちゃんはこれから何でもできます
お金には不自由しないと決めて、どんどん知識とノウハウを吸収して下さい。
 一番大切なことは、WHY、なぜ私はそれをやるのか、を言葉で言えて、それをなかまと、クライアントさんと共有できることだと思います。
 みいちゃんは、まわりのああせいこうせいに惑わされて自身を格下げすることなく、堂々とやっていけると信じています。迷い、失敗は人生につきもの、それは恥ずべきものではなく経験です。それによって生きることはより深みをましてきます。年季がかかります。

 みいちゃんがみいちゃんでいられるように、しうこばーばはいつでも応援していますよ。

 みいちゃんへのプレゼントが揃いました。
 本はなるべく沢山読んで下さいな。

たのしい自分ノートです。
この国の知性20人が中高生に送ります。濃い内容です。

『はじめての記憶』

593/10000 2020 12 10
毎週木曜日は、◆子どもらに寄せて ① 子どもたちに伝えたいこと ② 私の来し方 のうち
今日は ②で,私のはじめての記憶を書きますね。

☆ 思い出せる初めての記憶は、くっきりと映像を結んでいない。何かの用事で汽車に乗って楯岡に行く父の背中におんぶされている自分である。ねんねこにくるまっている。

☆ 次が、生まれてすぐ皮膚に菌が繁殖してほぼ全身やけど状態になって藁布団に寝かされいる弟を、布団の傍らで小さな私が見ている。弟は薬を塗られて全身赤い。1950年の春だから私は3歳である。当時は今の様に消毒消毒でなく、自宅で藁布団の上での出産だった。母は40を過ぎていた。

☆ 小学校に上がる前、どろどろに汚れた着物をきて家の前にいる。気に入らないことがると大きな声で泣いた。
 家の前には、布団干しの木の棒があり、笹、キク科の花、なでしこ、大根が植えてあり、隣のまこと君の家の敷地との間にグミの木があった。笹は七夕の時に使い、大根からは種を取り、いつか甘いグミの実を食べることができるようになるだろうかと悩んだものである。熟れるのを我慢できずに渋いうちに食べてしまうから。これは小学校に上がってからの記憶だ。
 グミの渋みって抜けるのだろうか?この辺でもグミはときどき見かけて食べてみるけれど、渋みのないグミはいまだに食べたことがない。

☆ 小学校に入学するときには、二人の姉が手取り足取り世話してくれた。荷物をかけるところはここだよとか。石板と石筆を持って学校に行った。担任はベテランの女教師荒井先生で和服姿だった。川端部落22軒で全学年に子どもたちがいて5,6年生が自動的に後輩の面倒をみてくれた。吹雪の朝にはマントを広げて先頭に立ち小さな私達はしっかりとまもられて後ろからついて行くのだった。

☆ 小学校に入ると覚えていることはは急に増える。そうそう、入学だというので武田の昭ちゃんに頼んで記念の写真を撮ってもらった。昭ちゃんはサラリーマンで一歩先をいっていてカメラを持っていたのだ。晴れた空のもとで最上川の岸でおかっぱ頭にセーラー服の私が笑ってポーズをとっている。
 この写真もデジタル保存のため息子のところに送った。

思い出せるはじめての記憶はこんなところかな。

仮称・エゾミヤマクガイソウに降りた霜です。

『我が家の災難史』

576/10000 2020 12 03
毎週木曜日は、◆子どもらに寄せて ①子どもたちに伝えたいこと ②私の来し方
の内今日は①と②にまたがります。

★「お前は帯広育ちだから台風も洪水も自然災害を知らないよねえ」
ある日下の息子が小学生のとき話しかけたら、
「僕知ってるよ、おかあさんと兄ちゃんの親子喧嘩。」
し、失礼しましたっ。
それはさておき、本人抜きでプライバシーに配慮した上で私が書きます。

★息子その1の場合
① 生後一か月で「90%ダメでしょう」と医師に言われた。どうしても母乳で育てたかった私は神経が立っていて母乳が出ていないのに気付けかった。わが人生の最大の失敗である。
→ お医者さんの手当はもちろん、宇野先生,佐々井先生、木村先生が「いのちの綱を切らないで」と寝ずに祈って下さり、生還させて頂いた。

② 中学の時、だめだこりゃと母は独断、「それならうちに来ればよい」とのねむの一言で父ちゃんと一緒に能登に向かった。途中音威子府の砂沢ビッキさん(父ちゃんと親友同士)を尋ねるというなかなかの旅であった。
→ ねむ一家と一緒に暮らし、その後宮さん一家にお世話になり、女性の長橋(?)校長先生と金沢の教育委員会の村井様の特別な配慮で能登の中学校に転校できてそこを卒業した。高校は全道一区の釧路へ。八木教頭先生、マシオン恵美香ちゃんのご配慮を忘れない。結婚式には担任の先生と同級生が何人もかけつけてくれた。このことだけで小冊子ができそうだ。今日は詳細略。

③ JRの運転士になりたてで人が飛び込んできた。おろおろしたのは母だった。
→ お客様のいのちをあずかる運転士仲間の結束は固い。「同じ釜の飯を食べてますから」とのこと。

★ 息子その②の場合
 子育てとは思い通りにならぬものと悟った私は手抜きでリラックスした上多忙で夏休み何をしていたか覚えていない。何事もないなあと間延びしていたら、
① 3.11のとき都心の飯田橋のビルの何階かにいた。歩いて板橋の赤塚のアパート迄帰った。
「どうする、引っ越す?」「4月から行く会社が決まっているから」
しょっちゅう東京を離れてもいるのでその分少し母は安心、でも何事もないようにと祈っている。

② 今年はコロナでテレワーク中。ここ帯広でも状況は変わらない。

★ 二人とも高校生のときからバイトしまくり、小遣いは勿論、学費、自動車免許取得料も自分で稼いだ。お金のことが下手だった私のおかげで逞しくなったかも(?)
信州の清水平にいたときは、一雨降ると小さな山崩れが何か所も発生して車道をふさいだ。これはたいしたことない。生まれ故郷では最上川の洪水が毎年だったから。

時代が変わる。あれやこれやあるのが当たり前だったのだと思う。
  ☆ 溢れるネガティブ情報は抑えつつ引き摺られないで、
    ポジティブ情報をキャッチするアンテナを磨いておこう。
  ☆ 既成の思考と技術では間に合わないのだから、頭は柔軟に保っておこう。
  ☆ 「目の前の人はあなたを生かそうとしているのか、
         あなたを殺そうとしているならあなたはどうするか?」
  ☆ それに、ウマいことかわすコツも大事だね。
  ひとり孫姫のみいちゃんといっしょに元気にやっていきましょう。
  私は遅まきながら「これからだ」と思っています。

冬枯れです。

『息子からのラブレター』

669/10000 2020 11 26
毎週木曜日は、◆子どもらに寄せて ①子どもたちに伝えたいこと ②私の来し方 のうち
今日は②で、
三井住友信託銀行様の『わたし遺産』に応募する原稿を書きます。締め切りはこの30日と迫って来ました。字数は400字以内です。
では書いてみましょう。

題名  息子からのラブレター

『ひらいてね。/ おかあさんへ
おかあさんいつもおこらないでくだ / さい。そして、いつもいつもやさしくしてく / ださい。そしていつも心(こころ)を、こめて / いて下さい。5/12(日)よう日 』
  破ったノート一枚を四つ折りにして書かれた上の息子からのラブ・レター、これが私の
「わたし遺産」です。そのとき息子は小学校2年生、1985年でした。
 家庭を持ったら絶対に、なんでも話し合える和やかな家にする、という夢もどこへやら、
私はいつもキリキリカリカリしていました。息子たちにあまりにダメ出しばっかりする私を、
「追いつめてはいけない、どこかに逃げ道を用意してあげなくては」と、殆ど家に居ること
のなかった父ちゃんが諭したものです。
 不思議なことに息子たちは、母親の過剰なテンパりを受け継ぐこともなく独自に大きくなってくれました。<母親の目には、自分がはっきりと言葉に出せないけれども一番伝えたかったことをからだでキャッチしてくれている気がするのですけれど、息子たちにはどうでしょうか?>
 この「わたし遺産」は、母の形見の簪と鼈甲の飾り櫛の桐の箱に納めて大切に保管しています。

 これを寝かせて29日までに推敲します。<>の部分は大幅に書きかえるか省きます。

このブログをご覧下さった方にのみ、我が家の秘宝を特別公開致します。

私って“おかあさん”なんだなあ

  

納めている母の形見の桐の箱と髪飾りです。こちらも家宝です。

『生まれつき歌が好きだった』

562/10000 2020 11 19
毎週木曜日は、◆子どもらに寄せて ①子どもたちに伝えたいこと ②私の来し方のうち
今日は②で、うまれつき歌が好きだったことを書いておきます。

 私が歌が好きなのは父の血を引いていると思う。母はいわゆる音痴だったし飲んで歌って騒ぐタイプではなかった。父は民謡を習っていたらしくコンテストに出たとき三橋美智也が審査員だったといっていた。このあたりの話も聞いておけばよかった。

 流行りの歌謡曲で最初の記憶は、岡春夫と思っていたら岡本敦郎の“高原列車は行く”“白い花の咲くころ”、藤山一郎の“青い山脈”あたりだ。雪解けのころ金平様の回廊で川端部落のお姉さんたちと遊んでいた記憶と重なる。小学校の2年かそこらだったから昭和20年代の後半である。
 小学校3年か4年のとき我が家にもラジオが入って、春日八郎のヒットソング、題名歌詞、思いだせない、がかかるとそれこそ一生懸命にラジオに耳を寄せて鉛筆を握りしめて歌詞をヒアリングして書きとめようとした。全部が書き出せるには何回かかかった。歌詞の意味は完全にはわからなかった。三橋美智也も好きだった。“お富さん” “別れの一本杉” “哀愁列車” “夕焼けとんび”などなど。夕焼けトンビの歌詞そのものの風景があった。
時は過ぎて、美空ひばり、雪村いづみ、江利チエミの3人娘の時代から、ザ・ピーナッツへ。グループ・サウンズ~のころはBGMな感じでそれほど入れ込んで聴くことはなかった。

 そうそうそのころ日本にもフォーク・ソング・ブームが来たのだ。1960年代後半のことだ。高石ともや、岡林信康、中川五郎、知人の事務所では吉田拓郎のアルバム“古い船を動かせるのは古い水夫じゃないだろう”を扱っていた。岡林信康のアルバムは2枚くらい買って聴きこんだ。“私達の望むものは” “自由への長い旅”などなど。友達がフォークソング・フェスティバルをやって友部正人がゲスト出演で山形に来た。

 ほしくてたまらなかったレコード・プレーヤーが家に来ると始めて買ったのは、Peter Poul and Maryの“Puff”で、ウッディ・ガスリーのメモリアル・コンサートのアルバムも買った。
 その前のこと、1963年4月に(今検索して調べた)“9500万人のポピュラー・リクエスト”が始まった。毎週齧りついて聞いていた、DJは小島正雄。“悲しき雨音”が一位を半年くらいキープしたと思う。リトル・スティービーという天才少年が“フィンガー・ティップス”の大ヒットを飛ばしています、と紹介があった。スティービー・ワンダーである。
 東京の高崎一郎のヒット・パレード番組も評判で、聞き取ろうとしたけれど雑音ばかりで難しかった。でも全国をカバーしている“9500万人の・・”よりも動きが早かった。

1960年代の後半のNHK-FMでは、芦原英了さんのシャンソンをはじめとして、カンツオーネの時間もあり、大好きな映画音楽の時間が毎週最大1時間45分あったこともある。リクエストして二回くらい“山形の荒木しう子さん”と名前を呼ばれてうれしかった!映画音楽のドーナツ盤のサントラ盤沢山集めていたのだけれどどこかにやってしまった。若気の至りである。もうひとつ確か石田一郎?がDJのリクエスト・アワー?だったと思う、があり、どれもこれも全部殆ど欠かさず聞きまくっていた。

1970年頃すごく好きだったのは森進一と浅川マキで浅川マキは山形と吉祥寺の曼荼羅のオープニング・コンサートの一つで見た。あ、越路吹雪も山形で確か二回見ることができた。
 ビートルズの初体験は、東芝のステレオの宣伝の “Let It Be”で、なんとなくうるさい流行の音楽とかの先入観を打破された。

 1971 年の11月の末に山形にあったミニ・シアターで“Woodstock”と“Let It Be”の二本立てを見て文字通り口がきけなくなって(何回も書きました)東京に出て、Carole Kingの“Tapestry”などをチラ聞きしながら、
1975年ウェスト・コースト帰りのキヨシとタシが持ち帰った大量の音楽に接して私の音楽の好みは一変するのであった。
さて、 明日20日の夕方は、ピーター・バラカンさんが今年も帯広に来て下さるので出かけて来ます。

近くの公園で木の実に音楽を感じて撮りました。

『東京は中央線』

555/10000 2020 11 12
毎週木曜日は、◆子どもらに寄せて ①子どもたちに伝えたいこと ②私の来し方
の内、今日は②で第二の故郷、東京の中央線時代のことを書いておきます。

★ 私の故郷は、三つある。生まれ故郷の山形の大石田、二番目が東京の中央線、三番目が信州の清水平である。

中央線沿いで今に続くなかまたち、BROTHERS and SISTERSと出会ったのだ。東京の中央線では国分寺あたりになると「今日は東京に行ってくる」というのだった。東京にいたときは殆ど中央線沿いで都心部にはあまり行ったことがない。

 1971年の11月の末、ミニシアターで“WOODSTOCK”と“LET IT BE”の二本立てを見て文字通り口がきけなくなった一日か二日後、山形を後にして、ここにいけばなんとでもなるだろうと当時高田馬場にあった山岸会の案内所にまず行った。
 そこで教えてもらって吉祥寺の土方コミューンに一か月いて、工事現場のガン吹き職人の手伝いに井の頭線の浜田山に通った。東京は毎日晴れていて毎日富士山が見えるのに感動して二度と日本海側には住まないと決めた。水道通りを歩いて帰って来ると、空気が乾いていて薄い靴下一枚のかかとが割れた。
 1972年新年 山岸会に集まった何人かで家を一間借りたので荻窪に移った。この出入り自由の家で何人もの友達と出会った。家は“夜迷亭”と名付けられハチャメチャだった。今の若い人ならもっと賢くマネジメントするだろう。当時吉祥寺にいたあぱっちのアパートに『名前のない新聞』発行の手伝いにいったこともある。途中夏に京都まで旅に出て戻って年を越す前に調布の布田に移った。ここに約半年いた。
 1973年大家さんが壊すので引っ越すことになり、夏に再び京都に行き長崎まで足を延ばしたのはこの時だったと思う。秋に関東に帰って佐藤工務店の工事現場のあった埼玉の飯能に九月から年明けまでいて、多摩ニュータウンの友達のお産手伝いをする予定だったのがなかなか生まれず、山形に帰って約束していた親戚筋のおばあちゃんのお手伝いに4か月もいただろうか、そのあと結城登美雄さん(地元学)の左沢のお母さんの実家に行ったことがある。その後自分の実家で断食を一週間やって『地球の上にに生きる』を見ながら楽しく縫い物にいそしんだ。
 その年1974年の8月に山形をあとにして、
(何をやっているかわからない末娘をお父さんと、特にお母さんはどう思っていたのだろうか、どんなにか心配していただろうと今頃になってその胸のうちを思いやってももう遅い。)
山形を後にして向かったのは、長野県の入笠山、ここで “いのちのまつり” なるものがあるという。
 入笠山で濃い出会いをいくつもして、雷赤鴉でしばらく暮らして国分寺へ出た。ひと冬ウロウロしていると、1975年、中央線沿いは春から始まる“MILKY WAY CARAVAN”のうわさで持ちきりになった。バッグパックの要領を教えてもらって、沖縄の読谷村から知床半島まで歩いたりヒッチしたり乗り物に乗ったりして大勢のなかまたちと縦断した。その冬は旭川で越して1976年早く再び国分寺へ、一か月西荻窪の友達の部屋を借りた後駅国立、市は国分寺のアパートに引っ越した。このころ西荻窪に“ほびっと村”ができてご自宅でなさっていた木村先生の指圧教室もそこに移って毎週西荻まで通った。約一年後信州の清水平に移住したのは1977年の4月だった。

 ★ 中央線沿いを中心にして、今も続く多くのなかまたちとシンクロ二シティな出会いがあったのだ。この出会いを何と呼べばいいのだろう? で、私は何をしていたのかというと、生計はフリーター、工事現場の掃除、美術モデルなどでやりくりして、自分がなにをしたいのかがわからない、をやっていたようなものであった。今ならもっと賢く、形が出るように学び形が出るように仕事をする、かもしれない。後悔はしていない。歓喜と混沌のごちゃごちゃの渦中で吹き飛ばされそうになりながら、若さの勢いがあったにせよ、生き延びることができたのだから、大したことないけど。



2,3日間の落ち葉です。今年は落ち葉にも見とれました。

『ひさしぶりの結婚式』

548/10000 2020 11 05
毎週木曜日は、◆子どもらに寄せて ① 子どもたちに伝えたいこと ② 私の来し方
の内今日は②で、我が家の結婚式を振り返ります。

★ 8日の日曜日は、能登の息子、ソウルと亜衣ちゃんの結婚式だ。場所は輪島市の山の中、与呂見村、そこの檀家制度をなくした龍安寺で仏前でやるという。家族、親戚、友人知人みなわいわいと集まってさぞかし賑やかで和やかな集まりになるに違いない。レイ子かあさんはさぞかしテンパっていることだろう。わが家は下の息子が代表で駆けつける。

久しぶりの結婚式だ。ここでちょっと思い出す結婚式を簡単に振り返ってみよう。

★ 最初は、1963年昭和33年荒木家の長兄の結婚式である。当時仲人は世話好きのおじさんおばさんがやるものだった。伝統に則り嫁入り道具が運び込まれる。髪結いさんが割烹着を着て髪結い道具を抱えてやってくる。結婚式も披露宴も自宅でやるのだ。料理は婦人会の手作りに加賀屋の折詰。宴たけなわとなると陽気なおばさんがドジョウ掬いをやりだす。路地(家の中の土の通路)に子供たちが鈴なりになって見物している。そう、ぜんぶ地域共同体の手作りだったのだ。

★弟の結婚式は結婚式会場だった。弟は経費を切り詰めるべくプランナーと交渉していた。私は地が水色の振袖で『あざみの歌』を歌った。波乱万丈の弟は伴侶とそのご家族に恵まれた。

★うちの兄の結婚式は、系列のホテルだった。職場の仲間たちがまるで家族のように慣れた感じで何くれとなく世話してくれた。“同じ釜の飯を食べてますから” 鉄道の運転士でお客様のいのちを預かる仕事なのだ。テーブルの細い蝋燭を見ながら、つつましくてよしとする息子夫婦を誇りに思った。翌朝二人仲良くホテルで朝ごはんを食べている姿に、しっかり慎ましく睦まじくやってくれるようにと祈った。早いもので孫姫は高校一年生になる。

★私は結婚式とは無縁だった、ところが結婚式に出るのは大好きで、こっちに来てからロック・フレンドの結婚式に頼み込んで出てステージで一曲歌を歌った。めくら蛇に怖じず。かれこれ30年前のことで、そのころ北海道では会費制で数百人規模が普通だった。今こんな大きな結婚式をやる人はいない。

★友人の結婚式もよかった。なんでAさんがまだ、勿体ないなあと友達がみな案じていた、そこに管内のある町の結婚相談員をなさっていたMさんが良い人を引き合わせて下さったのだ。友人一同ほっとした。元アナウンサーのMさんの司会は目を向くように気品高くあざやかであった。

★私達のころと違って今は、結婚しない、していない若い人はふつうで、あれこれ気になること、不安材料もあるだろう。政府の雇用政策は税金を納めている一般庶民を見ておらずその余波が、うわっ、せこっ!と身近なところに押し寄せてきている。
 でもね、私達は雑草なのだ。相性のいい出会いがあったら一緒になってあれやこれや乗り越え合ってやっていこうよ。


 ソウル、亜衣ちゃん、睦まじく元気でね。
 ご結婚おめでとうございます!



ソウルと亜衣ちゃん。一年前の入籍記念写真です。

『晩秋に思い出すこと』

541/10000 2020 10 29
毎週木曜日は、◆子どもらに寄せて ①子供たちに伝えたいこと ②私の来し方 のうち今日は②で 生まれ故郷の大石田の晩秋を思い出すままに書いておきます。

 秋のさなかには、家の前にゴマを干していた。明るいお日様がゴマの木と鞘を干し上げる。ゴマには巨大なゴマ虫がうようよと這いまわっている。サツマイモもゴマもつくっていたのだ。(母たちが、です。私は遊んでいた)
 できるものなら、あのゴマが食べたい。今は輸入物のゴマを500~1kg単位で買っている。埼玉の飯能にいたときは、米屋さんに金ゴマありますと張り紙がしてあり、いそいそと買い求めた。マクロビオティックにハマっていた時期で、地元産の金ゴマときたら手に入れる他はない。
 あの中が白いサツマイモも食べたい。独特の品のいい甘さだった。

 最上川の岸の日当たりの一番いいところには、稲を高くはせ掛けにしている。確か井刈さんのとこのだった気がする。赤とんぼが沢山飛んでいる。

 秋の終わり近くには、家の前の階段の下で大根洗いをする。大きな桶に水を入れて沢山の大根を洗う。私達子どもも遊びがてらたいして手伝いにはならなかったと思う。それを縄で編んで干す(お母さんが、です)

茅葺屋根の下に短冊に切った大根を干す。これは正月に浸し豆と合わせる。
カライモ(このごろこの辺ではキクイモと呼ばれてなかまうちではけっこう知られるようになっている)の輪切りに糸を通して干す。干して甘味が増したカライモは、やたら漬にいれる。やたら漬けに入るのは、塩でつけておいたキュウリ、ナス、大根、紫蘇の実など。
やたら漬けはもうひとつあって青菜を細かく刻んで、ニンジンが入っていた気がする、漬けたもの。
 このやたら漬けも食べたい。あのころのお母さんの手作りのが。漬物、山菜は買うものではないと思い感じて信じている。


晩秋の大きな行事は学校の文化祭である。
ていこ姉ちゃんが作ってくれた、出し物に頭につけるボール紙に描いた紅葉の葉っぱ、頭に巻くのがゴムひもでなくて紙だった、それだけでべそをかいて晩秋の冷たい雨の中,コマス呉服店と、最上川に向かって左側は誰の家だったろう?の間の道をもみじの落ち葉を踏みながら家に帰る小さな自分が見える。これだけですぐべそをかいていたのだ。それに踊りが苦手で覚えられず隣の同級生を見ながらだったのも辛いものがあったしな。
  ♪ あかいあかい もみじの葉
   もみじのはっぱは きれいだな
   ぱっと ひろげた 赤ちゃんの
おててのように かわいいな ♪

 中学校の文化祭は店も出て大変にぎやかだった。中学校のおしるこは薄いという評判だった。作品展は、かがだの(母親たちの)展覧会だとそのものずばり言ってるどこぞのおとうさんがいた。

 父と二人の兄が冬支度に帰ってくる。ソガキ(添垣か)が主な仕事である。家を雪からまもるために家に木を立てかけて板を打ち付けるのだ。ソガキ用の材は軒下に積んである。ソガキが終ると家の中は光が入らず暗くなる。家の中に裸電球一つだったのが家中に電気を配線したのは、私が小学校4年のころだったろうか。父母、きょうだいに手厚くまもられていたのだ、と素直に肯けるトシになっている。

 今年の秋はスロー・ジョギングを再開して、十勝晴れの日も続き街中の紅葉を満喫している。紅葉狩りしながら思い出されることを書きました。高度経済成長前の、化学農薬も、パソコンもなかったころの、私の原風景です。次の世代、うちの息子たちの原風景はどんなものだろうか?見せてあげたかったことの何分の一もできなかったけれど、まずまず大病もせず元気にしているのでヨシとしておくか。

@帯広中央公園北の舗道で