『“女のくせに”と言われたことはない』

毎週木曜日は、◆子供らに寄せて

今日は、“私の来し方を振り返る”シリーズで、いつも心にあることのひとつを書いておきます。

★ 私は、生まれ育った家で、“女のくせに”という言葉を聞いたことがない。あるいは7人兄弟の中で私だけかもしれない。

父が入り婿だったことはそう大きな原因ではないような気がする。

夫婦喧嘩はよくしていたけれど父が母に手をあげることはなかった。だからDV男は許せない。

姉3人も私も、キャリアウーマンというタイプではなく男と同等に、男を押しのけてとかには関心がなかった。もちろんバリバリ仕事なさっている女性は尊敬します。

★ 母は今でいう専業主婦で、私の記憶では外に働きに行ったのは一度だけ。両羽銀行大石田支店の新築工事の現場に友達と掃除に行ったときのみである。仏壇の下の引き出しに女学校時代のたくさんの賞状や鉤針編みの見本集など詰まっていた。でもそのことで、尋常高等小学校卒の父を見下すことはなかった。

でもすごいびくびくもしていて、出稼ぎから父たちが帰ってくるとなると、『ごしゃがれっから=怒られるよ』と子供たちを脅して掃除をさせた。わたしは父は怒る人と刷り込まれてしまた。ばあちゃんこだった母は怒られたことがなかったのかもしれない。顔もろくに見たことのないひとと結婚したのだ。

母も男を押しのけてでもなんていうタイプではさらになく、そんな場面ででしゃばることはなかたけれど、家の中では、『一番えらいのは母、肝心要では母の存在』ときょうだい全員雰囲気で感じていた気がする。父に知られたら怒られることは隠して子供たちをかばってくれたりもした。

★ そんなこんなで、うまくまとまらないけれど、わたしはモロにフェミニズムではない。もちろん、女だからと見下す男はスルーしているけれど。キーキーピーピーな男女同権も違うと感じている。

家事育児に賃金を、というのもピンとこない。だからといって女の過剰負担に鈍感な男もパーだと思っている。

★ 『女は男の二倍働ける』 

これは私の人生を決めた言葉のひとつだ。

別に、肉体的に、ではなく、気働きのことだ。

特に『場をつくる』こと、動きやすいように、働きやすいように場をつくること。

男が持っているのは半島で、女は,からだの真ん中の下の安定のいいところにまるい島を持つ。男が飛び出そうとするとき先回りして、その切っ先をまるく包み込もうとする。

これは『男という性』『女という性』のことで、必ずしも目に見える男、女のことではありません。まもろうとする男も選びます。

★ 大きな実績があるわけでもなく、ビギナー婆の域に入っているので勢いのいいことはもはや言えないけれど、

女に生まれてラッキー、生まれ変わったらまた女、そしてゼッタイ専業主婦!と決めている。台所大事、菜園、花壇、編み物にいそしみ、素晴らしい音楽と本に囲まれてのほほんと暮らすのである。 

“”

『行き違いの悲しみ』

毎週木曜日は、◆子供らに寄せて
今日は、私の来し方を振り返ります。私の自分史の1ページです。

☆ 小学2年か3年のころだったと思う。家を出て川に向かおうとしている私に隣のまことくんのお母さんが声をかけてくれた。「しう子ちゃん、いいもの持ってるね」

その言葉に私の胸にズキーンと鋭い痛みが走った。私は赤い魔法瓶の水筒を持っていた。中のガラスが割れてしまい、母に言われて私はそれを捨てに行くところだったのだ。(不用になったものは川に捨てる、のんきな時代だった)

最上川の岸の林についた、小さな流れにそった小道、緑の中に水筒だけが赤い。そんな記憶がある。

このことは私のはじめての行き違いの記憶である。

☆ 哲学者のマルティン・ブーバーが自伝の中で書いている。父と母の離婚のことを近所の友達の女の子に告げられた時の衝撃を。祖父母は高貴な人で世の常のことを口にすることがなかったのだ。
(私、ブーバーと誕生日が同じです)

☆ 生きていれば行き違いだらけだ。なるべく避けようとはするものの致し方ないことのほうが多いだろう。わが身を振り返っても無知な若いときはいうに及ばず、今でも自分の言動にしまったと臍を噛むことが少なくない。一生引きずっていくかもしれないこともある。

時には行き違い転じて福となることもないこともない。

☆ 行き違いの悲しみの因と極力ならぬように心しておこうと、そのときは言葉にはならなかったけれど、あのときこの願いが私の中に生まれたのだった。 

『五月節句のこと』

毎週木曜日は、◆子供らに寄せて

今日は、こどものころの思い出で

『五月節句』のことを記録しておきます。思い出す限り。

★ 100円ショップで買った小さな鯉のぼり、二棹(でいいか?)今年出してきたのは、五月六日だった。
終わってるじゃないか?と言われても内心あまり気にならない。子供のころ県庁所在地に引っ越すまでは、年中行事を中心になりわいが営まれて、その殆どは旧暦、つまり月歴によっていたからである。機械的に、であるが、なに六月五日まで出しておけばよい。

★ 五月節句が近くなると、子供会で朧気川(おぼろげがわ)に笹の葉を取りに行く。はけご{藁で編んだバッグ)を持って。それを十枚(だったと思う)に束ねて、川端部落22軒一軒一軒まわて売りに歩き、子供会の活動費用の足しにするのだ。

★ 母は、五月人形を出す。そう豪華なものはなかった。

五月節句の一番大きな仕事は、笹団子と、何と言っていたのだろう?笹で作った三角の筒にもち米を入れて蒸すの、この二つを母は一日がかりでつくる。

かまどに薪を燃やし飯釜にごんごんお湯を沸かし、その上にセイロをのせる。

もち米を蒸したのはきなこをつけて食べる。もち米を入れる笹の筒(というか、テトラパックのようなもの)は確かスゲ{だったと思う)で結ぶ。この結び方、笹の葉の筒の作り方を、家を離れてから一度教えてもらったことがあったような気がする。でも大人になってからの一回では覚えられなかった。
いつか教えてもらいたい、覚えたい。

★ もう一つの大仕事があった。鯉のぼりを立てることだ。これは父と兄の仕事だ。

天高く上がるように、長い杉の木を立てる。いつもは軒下にしまってある。てっぺんには杉の葉をつける。鯉のぼりの由来はきいたことがあったかもしれない、忘れてしまった。吹き流しは、母の手縫い。建前のときの五色の旗を縫い合わせたものだ。我が家は大工だったから。

この杉の木の棹(でいいのだろうか)は、出稼ぎ先から男手が帰ってくるまで立っていた。杉の葉は赤く変色した。

この棹は、山形市に引っ越すとき、大事にトラックに積み込んで持って来た。しかしもう立てられることはなかったと思う。そして寝かせている間に折れてしまった。

★ 五月節句の準備が終わると、夕方に茅葺屋根にヨモギと菖蒲を挿す。頭には菖蒲のはちまき、風呂は菖蒲湯。魔除けと無病息災を祈る。菖蒲とヨモギの香りに、季節、自然、時、今ここの場所、恵み、畏れを全身で感じ取る。

菖蒲はどこで刈ってきたのだろうか?記憶がはっきりしない。

★ 高度経済成長政策がこの国を席巻するまでは、このような暮らしだった。私の一家ではもう部分的にでも復元継承することは難しいけれど、

高度経済成長以前の暮らしの一端と、未来への新たなる継承の願い止まずの思いを記しておきます。

太平洋戦争体験者に続いて、高度経済成長以前の暮らしを知っている世代も間もなくあの世に引っ越すことになる。

『元気でいてね』

毎週木曜日は、◆子供らに寄せて

今日は、息子たちに、元気でいてね、とひそかにメッセージします。

☆ パソコがでっかくなりました。ありがとう。舎弟殿との画面共有も復活してもらったので大助かりです。

母の日のプレゼントに、欲張りにももう一つ、

・籾殻燻炭大袋1 ・赤玉土中2 ・赤玉土小2 お願いします。自転車だとあぶないトシになりましたのでよろしくお願いします。

☆ 自宅テレワーク、お疲れさん。地震も頻発、備蓄は大丈夫ですか?水、、コンロ、ガス、食糧、バッテリー、それに欠かせなのが携帯トイレ。安全靴、救急セット、書類袋・・・キャンプ用のテントも。冬用暖房セット(電気を使わない)も。

帯広では何とかなるべ、と油断しがちだけれど、備蓄はしています。

☆ ここぞ老母心の発揮どころと、抑え気味と心して、メッセージすると、静かな答えが返って来るので気抜けしたり、安心したり、騒ぎすぎかと首を縮めたりです。

☆ ご先祖様を振り返りますと

曽祖父ちゃんは、鉄道開通とともに駅毎に運送会社の事務所を開いて最上川の河口の酒田迄行った。昭和20年に50歳で胃癌で亡くなったあと、石代ばあちゃんは竹の籠に干物の海産物を入れて大石田まで売りに来て生計をしのいだ。

大工の爺ちゃんは棟梁もしていた。腕一本でどうやって仕事を取って来ていたのだろうか?と今は尊敬のまなざしを向けるのである。『世間というものは生き馬の目を抜く』と呟いていたことをよく思い出して胸に止めている。

父ちゃんはあの通りの人、今日びあんな人には会えません。一冊づつ詩集を読みながら、おお、なかなかええこと書いてあるわ、と感心することしきりな今日この頃。みいちゃんにもプレゼントしなくちゃ、と心してます。

ご先祖様を供養するとともに(毎朝蝋燭つけて線香あげて、玄米ご飯もお供えしています。ようやくそんな心のゆとりができました)。お助け、ご加護をお願いしています。もともと生まれつき信心深いんです。

☆ 母ちゃんは、ま、お金のことは下手くそだったけれど、ふたりのおしめを川で手で洗って育てたことをその代わりとしてもらえたら、など思わないこともないけれどご無理なきよう。家にいる間は食べ物も気を付けて育てたし病院にも殆どかかったことがないしね。体質は出来上がっているよ。

☆ 父ちゃんの詩に、‘飢饉、飢え、日照り、冷害、戦争、疫病、天災、何があっても生き抜いていけよ’といったフレーズが入っているのがあったと思うのだけれど、まだ再見できていない。年端のいかぬうちは、文学的な表現かぐらいにしか読めずふふんとやり過ごしていたけれど、3.11以後それがリアルに迫ってくる。たび重なる地震、大雨、洪水、今コロナが襲来している。

☆ 『明日世界が終るとしてもリンゴの木を植える』

食糧ルートを確保しておくこと、信頼しあっている友達を大切に。引き続きこのまま元気でやっていてね。

中央公園の夕暮れ。新緑。今パートが5時迄なのでいっときくつろいで帰ってます。