『木村翁助師のこと』

毎週木曜日は、🔷子どもらに寄せて

きょうは、私の人生を決めた出会い シリーズ②

木村翁助師のことを伝えておきます。

木村先生は、八光流鍼灸・指圧の神業達人だった。

八光流武術も免許皆伝、上位のクラスだったと思う。

木村先生との出会いで、私達は、

指圧、整体の何たるかを教えて頂いたのである。

先生の整体院(というか)は西荻窪の住宅地の質素な長屋にあった。

それはきれい好きで奥様がいつもちりひとつなく整えておられた。

「誰もが自分たちで治療と手当てが出来るように」と、

はじめはご自宅で私達に指圧を教えて下さった。

1975年のミルキーウエイ・キャラバンの前だった。

その頃私は疾風怒濤、我が身と心の調整どころではなく、なすすべ知らずであった。

そんなとき先生のもとに駆け込むと、全身指圧を施して下さり、我が身は麻酔状態となり、なんとか生き延びることができた。

無料でした。

先生は、17か18で特攻隊の生き残りとなった。

『その後の人生は余生です』と仰っておられ、

困っている人がいると夜中の2時3時でも治療にあたられた。

ミルキーウエイ・キャラバンの最後に、私は知床半島で墜落、今思うとムチウチ症になっていた。

キャラバンから中央線に戻ると、先生の指圧教室は、

同じ西荻窪のほびっと村のフリースクールに会場が移っていて、

「いいこだからいらっしゃい」と言われて、いやいやながら国立から週一通った。

鍼が入らないな、(それくらいこっていたのだ)と言いながら後頭部を治療して下さった。

またまた助けて頂いた。

この指圧教室では、集まった皆で、キクウ!! イタイ!と悲鳴をあげながら、お互いにモデルになって実習した。

スジのいい人は一回で覚えるのだった。

専門学校に入って資格を取り整体師になった同級生もいる。

私は覚えもそれほどでなく、なんか半分意識のないような感じだった。

それでも半分覚えた指圧を、清水平にいるとき、村のおじさんにやってあげて喜んでもらった。

ナナオがオランダに招かれて東欧する直前、脚に異様な腫れ物ができて痛みがひどかったときも駆け込んだ。

そのころは、長屋から洋館に住んでるおられた。

最後にお会いしたのは、上の息子の手を引いてご自宅に顔を出した時だった。

その後私は子育てと生活に追われ先生とはご無沙汰になってしまった。

風の噂に、癌に襲われお弟子さん以外に会われずに、奥様を亡くされておられた、亡くなったと聞いた。

死期を悟られ、お弟子さんにお持ちのすべてを仕込むべく、厳しくあたられたという。

お身をなげうって人を助けられたこと、そして何よりも、

指圧、整体のなんたるやを、私達は木村師の存在で知ったのだった。

これは一生持続する財産、効能なのである。

特攻隊の生き残りだった先生の、破滅型にしてサイケな面は省略します。

1975年は、太平洋戦争からわずか30年後、先生は40代だったことに驚く。1975ねんからまもなく45年になる。

ヤマアジサイの一種でしょうか?木村先生の遺影にお供えします。