“屋久島のことを話そう”

毎週木曜日は、🔷子供らに寄せて

今日は、屋久島のことを話しておきます。

屋久島高校演劇部の記事、ありがとう。

『地元宮之浦で、森林保護に立ち上がった若者を描いた「ジョン・デンバーへの手紙」を上演した。

その劇は九州大会で最優秀賞に輝いた。』

私が屋久島に行ったのは、1976年9月、

ポン達の、奄美大島の無我利道場で夏のギャザリングがあり、半月か1ヶ月?くらいそこにいて、その帰り道に寄ったのだ。

何故屋久島に?

それは、山形でよく山登りしていたこともあるけれど、

ナナオがことあるごとに屋久島を絶賛、例によって「行けば変わるよ」と。

それは本当だった‼️

山のイメージが全く変わった。

見たことのない風景だった。

大木どうしで絡み合い、ヒメシャラ、ヘゴノキ、全面苔むした渓流、そして屋久杉。

諏訪瀬島を襲い大きな被害をもたらした台風の直後で、

風で倒れた屋久杉が何ヵ所かで、登山道をふさいでいて、道に迷いそうになったことを覚えている。

屋久杉は根が浅いのだった。

宮之浦からぐるっと、安房を経て、海中温泉につかり、

途中、ハイビスカス咲き誇る美しい村で、飛び込みで泊めてもらった。

その家でご馳走になった割り干し大根の煮付けが絶妙に旨かった。

北と南では光が全く違っていて、住むなら南と思った。

山に入ったのは尾之間から、地図は鹿児島で買ったのだろうか?

地図を買うとお金が底をついた。

地図をリュックに食料を持たずに登り始めた。(無謀 山小屋に残されていた米を拾った鍋で、屋久杉の葉っぱで炊いて食べた)

二泊三日、そのダイナミックなnature に圧倒された。

縄文杉、ウイルソン株、そして楠川に下る道に、最後の三本杉。

この三本杉が、「行かないで、ここにいて」と言っているのが聞こえた。(私は普段こういう能力に長けていない)

楠川の部落に降りると、部落の何か集まりの日で、ご馳走が山のように並んでいて、一緒に食べさせてもらった。押し寿司がうまかった。

又また飛び込みでお金を借りて(返しました)鹿児島に戻った。そのあと国立迄どうやって帰ったのか?覚えていない。

その前、1974~75にかけてかな、その頃、ポン、トシ、ボブ、ヱヘラの四人で、

沖縄から南西諸島をまわり、環境破壊の現場と闘う人々を訪ね歩いた。

大野さんのこと、ポンやナナオたち、知っていたかもしれない。

屋久杉伐採問題のことを真剣に話していたから。

ナナオが屋久島に入ったのは、1955年。ナナオ32歳、太平洋戦争敗戦から10年、高度経済成長政策直前の時代である。

その頃の屋久島、屋久杉はどんな風景だったのだろうか?

1976年、屋久杉切り出し運搬のトロッコ道とことこ歩いた。

この列島の70%は森林である。この森林こそは、この列島の最高最大の資産である。

森林とともに生業と文化を育んで来た長い歴史がある。

(そのマネを信州の山の中でしてみた。)

この劇の最初に登場する場面のごとく、『畏れ多い』という感覚、信仰というか、

それは、私達が子供のころには、社会のなかに基底波としてあった。

そもそもやってはいけないことをすると、

『バチが当たる‼️』と厳しく叱られたものである。

営林署をなくし山はほったらかしになり、

南アルプスの土手っ腹をぶち抜いて穴=リニアのトンネルをぶち抜こうとしている。

今度は、森林法を変えて売買は自由化の方向に。

こんなことやっていいのか‼️

きっとバチが当たるよ。

畏敬の念を持って森林をまもり育てることも、この列島の最重要の課題です。

盛んに新芽を出して成長するがじゅまるの木 南西諸島を偲び大切にしています。s