『え、ありがとうもごめんなさいもいらないって!?』

668/10000 2020 11 25
毎週日曜日は、◆読む・書く・話す
ずいぶんと範囲が広いですね。コミュニケーション全般を含みます。

 手に取る本、手に取る本、もう知らないことばっかりで、目がしょぼしょぼになる前に読めばよかったと思う一方で、時代が猛スピードで動いているので、今の新たな視点に目がぐいっと開かれることも少なからずあります。

 今日は昨日着いたこの本です。facebookの友達のFujikoさんのタイムラインで出会ってびびっと来て、読んだら友達の誕生日プレゼントになります。

 『“ありがとう” と“ごめんなさい” は重要なキーワードとして必要な場合はいつでもさっと出せるように構えて24時間暮らしている自分』に、この本を見て気づきました。かなりのストレスになっているのかもしれない。


 ボルネオの森の民、狩猟採取のプナンの民には、学校がない。森のなかが学校で、そこでは掛け算・割り算、外国語も役に立たない、必要がない。
 同じ魂を持つ存在として人と動物は連続し、動物たちは魂という人間的性質を失っていない、さらにモノも人間性を持っていたそうだ。

 プナンでは、気前よく振る舞うことが当然で、お金を貸しても返って来ない、何かをあげても「ありがとう」がない。貸したバイクはガソリンをすべて使い切り壊してもそのまま返す。「ごめんなさい」もない。反省もない。プナン語には「貸す」「借りる」という言葉もない。

 プナンでは、気前のよさが「よい心がけ」とされて何を貸すのもあたりまえである。では欲はないのかと言えば、子どもには諭して矯正している。リーダーは気前のよいことが第一条件である、しかし、本音の欲張りを建前の「よい心がけ」で打ち消している場面に出くわすこともある。
  むしろ分け与えるというより、捨てるに近い。プナン語には「捨てる」はあるが、「あげる」はない。捨てた食べかすは犬が漁り、人が食べた果実の種は排便されて植物が広がっていく。捨てることで人と自然に循環を生み出す暮らしである。

 以上は第2章までです。ここまででもなかなシンプルとだけは言えないところが面白いですね。仮にプナンの村で暮らして(何でも「捨てる」ので汚いそうです)いっとき開放感に気分ゆるゆるとなったとしても、慣れ親しんだストレスフルなこちらが恋しくなる、なんてことになるかもしれません。

 この後も、人類学の視点は勿論、心理学、仏教哲学、危機に直面しており今後如何とも不明な今の資本主義文明 “人新世”と重ねての思考と、マンガの紙面から深いものが迫ってきます。

 “人新世”は今後どうなるのか、どうするのか、を考えて作業をするとき、今必要とされているのは、カチカチの己の金と利権しか見えていない旧価値観で間に合わないのは明らかで、やわらかい頭脳、斬新な感覚、新しい科学と哲学です。この意味でこの本は、おおいに開放感を与えてくれます。次の思考のヒントときっかけが満載です。

 やっぱり読書会やりたいですね。自分だけでなく,あれこれ違った視点と感覚の刺激をうけて頭くらくらぐるぐるもいいものです。

赤いメギノキの実です。