『県庁所在地での10年②』

毎週木曜日は、◆子供らに寄せて

今日は、母の来し方を振り返るシリーズのうち、『県庁所在地での10年』の後編です。

☆ 一年自宅浪人して、歩いて13分の山形大学文理学部文学科に入った。当時は学習メソッドなど聞いたこともなくひたすらやみくもでよく合格したものだと思う。

7人兄弟のうち普通高校から大学に行けたのは私ひとり、かなり気が引けていた、口には出せず自分を押し通した。

浪人中だったと思うけれど、向かいのおばさんが縁談を持ってきてくれた。そうだね、まだ世話好きのおじさんおばさんがいて仲人役を買って出るのが一般的な時代だったのだ。ピンと来なかったので断った。

★ 授業で最高だったのは。宝月圭吾教授の集中講義『日本中世の度量衡について』

研究とはこういうものか!と深く感動した。中世の文書の簡素な力強さに打たれた。

☆ 今なら、授業つまらないとかぶつぶつ言わんと、図書館の本を片っ端から読み、特に日本の古典を読破して素養を積み、英語をマスターし、図書館司書他取れる資格をとり・・・勉学に勤しむだろう。時間の使い方を知らなかった。今頃になって臍を噛んでいる。

☆ 入った「歴史学研究会」では、一年先輩の人たちが合宿で、『「期待される人間像」はここがおかしい』、農業政策の問題など教えてくれた。当時は一年先輩でも自分よりずっと優秀でこちらはまるでガキだった。一年の差は大きく、感性、学力、追及力、全体の生命力が、自分を含めて年々薄くなっていく気がした。

☆ 1965年、アメリカがベトナムを侵略、ベトナム戦争が始まった。

『思想の科学』を読んでいたので、べ平連、「ベトナムに平和を!市民連合」にはできた当初から共鳴し、べ平連ネットのデモの後ろにくっついていった。当時は全国の大学にベトナム反戦の運動体ができて毎週のようにデモが行われた。当時はジグザグデモが普通だった。

1968年、何がきっかけだったのだろう?全国の大学で大学闘争山形大学は、確か全国初?の学園封鎖となり学生会館を全共闘が占拠した。キャンパスでは連日デモがあり、それを見ながら『これはいったいどういうことなんだ?』と心の中で自問した。

この自問が私のその後の50年の人生を決めた。

これは1960年、三井三池闘争、第一次安保闘争の年に県庁所在地に引っ越して直面した『疎外』の状況に連なっている。

この疑問が、ジグソーパズルのピースがピタッとはまるように、ハッと解けたのは2015年夏の後、山本義隆さんの『私の1960年代』を読んだときだった。

今日はここまで。来週に続きます。