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つらつらとときどきよぎる、ふり返って私が、これだ、と誇れることはなんだろうか?と。別に人にいうためにではなくて、自身が納得するために。
何があろうとあきらめなかったこと、何があろうと結局ひっこまなかったこと、
生まれつき「本当のこと」を追求してきたこと、13歳で県庁所在地に引っ越したときから、その思いは塊りとなった、でもまだ言葉にはならなかった。
何が本当なのか?70過ぎて少し見えてきた気がする。いまそれを言葉にする作業をうめきながらやっている。去年の秋くらいから妙に身体が元気になって、76年分の世間でのネガティブ体験の数々をプラスに転換しようとやや無謀な未知の森に片足突っ込んでやっているうちにおもしろくなってきたところです。
SNSには、景気のいい、結果がすぐ出ます!すぐ売上爆上がります!これひとつだけやれば大丈夫!華やかな見栄えのよさげな講座の広告が次々と入ってくる。プレ講座をサーフィンしてだんだん経験値が上がって来て、私はこれで行こうとようやく決まりつつある。いい出会いをさせてもらってもいる。でもなんか違うんでないの、というにおいをばあさんはクンクン嗅いでいる。優秀なお若い方々、これで大丈夫かしら?20年後30年後も同じだろうか?
そんなとき今朝、文化人類学の辻真一さんのお話がSNSに入って来た。
『 脱・陰謀論 文化人類学者が重視する、「分からない」に耐える力』
長年にわたりスローライフ運動を展開してきた文化人類学者の辻信一さん(71)は、今こそ「分からない」に時間をかけてつき合う力が必要だと説く。
https://mainichi.jp/articles/20240111/k00/00m/040/096000c?fbclid=IwAR2FDGTDL6_g-K9lUE01BItcHOVRCDAlGJ8Jm5kOIjKiuFJ4e5w58LSjBeI
・役に立つということが、ある種の強迫観念になりつつあるのではないか
・今ほど「ネガティブケイパビリティー」( 「答えの出ない事態に耐える能力」、 異質なものや役に立たないこととつき合う能力」 )が重要な時はありません。
・それは「待つ」「聴く」などの「受け身の力」でもある。でも最近はこうした力の欠如で、よく分からないことに耐えきれず、分かりやすい答えに飛びついて、分かったことにしてしまう風潮が強まっています。
・僕たちは違うものと一緒にいることが、あまりにも下手になってしまっています。ただ、「陰謀論か科学か」といった二者択一に陥るのも危険です。
・グレーゾーンやあいまいさを排除してしまう効率主義や科学の絶対化といった危うさにも注意する必要があります。
・一見苦痛を和らげてくれるかのような「分かりやすい場所」から、外に一歩でも踏み出してほしいと思います。出たり入ったりでもいいじゃないですか。
・僕たちが見捨ててきた物事にこそ実は希望があるんじゃないか
ついスマホに手が伸びて、長い文が読みづらくなって、結論だけ書いてよ、とかイラついたり
千年単位の古典の一行にも満たないとわかっていても貴重な時間をロスしてしまう。スマホ向けににみょうな短文で行を変えて書くのも正直違和感強い。
『「わからない」に時間をかけてつきあう力』!
ハイ、これこそは自信あります!とひとりほくそ笑んで手をあげたくなる。
すでに突入している『答えを自分たちで手探りでつくっていく他ない』時代だからこそ、 「答えの出ない事態に耐える能力」 が必要とされる。 一方で、『そもそもこれだけは』というものがある、と70過ぎると見えてくるものがある。 その、そもそもこれだけは、はどんな時代になっても変わらないと感受される。それを伝えてわかちあうことで、 「答えの出ない事態に耐える能力」 の土台にしてほしい、そんな思いと願いを込めていま内容構築をやっています。見捨てがちなこと、ネグレされていることも大活躍します。
意味、効果、成果、結果、役に立つか立たないか、その埒外にある無意味、ナンセンスを心から笑える能力、これも自信あります。それと『そもそもこれだけは』を同居させたい、こころに、思い通りにならないことを笑えるゆとりがほしいので。 キマラなくてもいい、急がなくてもいい、こころ、内面の成長はインスタント栽培不可能だから。
なんかまとまらなくなってきたな・・
そんなこんな『ココロのガーデニング 人生の基礎打ち講座』の構築真っ最中です。
⤵今日も十勝晴れ@市役所の植え込み、向かいはNHKさん。