1117/10000 3月26日(日) 2023
◆シリーズ 3/14~24山形・宮城報告その⑪
今日は、我が荒木一家のファミリー・ヒストリーをお話ししましょう。
23日に赤倉温泉から山形市に移動して,一番上ののり子姉さん宅で
なんと思いがけず川崎市で仕事中のの弟夫婦も合流、夜遅くまで大盛り上がりとなりました。
のり子姉さん 利明くんへ
この度はお会いできてすごくうれしかったです。
気になっていたことがわかってほっとしました。
お互い思い出すのは大石田のことばかり、明らかになる秘話の数々
深堀りファミリー・ヒストリーの一夜でした。
トシはとるもの、それぞれの思いがけない一面に深く感動もしました。
写真は『写真で見る大石田の歩み』より。大石田の図書館で見せてもらいました。
役場の向かって右隣です。
気になっていたこと
①賢ちゃん(二番目の兄)が受かったのに高校に進学できず弟妹を育てるために働かなければならなかったことをどう思っていたか、利明くん、きいてくれていたのですね。
賢ちゃんは、別に気にしていないと言ったとのこと、じ~んときます。
賢ちゃんの作文で、同級生は学校にいくが自分は脚絆を巻き働いている、とあったし。特に私はきょうだいのなかでひとりだけ、高校、大学と行かせてもらい、卒業後はフリーター暮らしだった、このことコンプレックスだったしで。利明くんが聞いてくれていただけで少しホッとしています。
②利明くんが生まれてすぐ丹毒に罹って生きるか死ぬかのとき、出稼ぎ先、鬼怒川温泉?でおとうさんとあんつあ(兄さん)と賢ちゃんで相談して、この年(お母さん40過ぎ)で生まれた男の子だし、金はなんぼかかってもいい(あんつあからのはがき)とペニシリンをゲットするお金を工面することに決めたこと。当時の手紙を利明くん、全部見てるんですね、よかった。そのペニシリンは産婆をしていた南通りのおばさん通しで特別に入手できたこと。
藁布団の上で真っ赤になった利明くん、看病にせわしいお母さん、おばさんの気配を覚えています。昭和25年。
③ 私は利明くんを歯牙にもかけずいなくなってくれればいいとまで言ったとか。全く覚えていない、ごめんなさい。人格を陶冶しましてここまで来させて頂いております。
他にもひどいことしたことあったな、ま、しょうがない、今となっては。
④ 認知症の年よりとのコミュニケーションのしかた、佐々木のお爺さんを最後まで看取った利明くんのお話にはすっかり感動、ただ押しが強いだけではなかったんだと心から感心しました。勉強になりました。のり子姉ちゃんと弘明くんは今当事者なので話せただけでもだいぶ気が楽になったんじゃないかな。まずまずお元気なので大丈夫!と思いました。漫画の認知症の本を送ります。
⓹ 今宿に、私もお祭りのときお母さんの代理で呼よばれ(招待)に行ったことがあります。お祭りのお膳を前に借りてきた猫のごとくこちこちになってひとこともしゃべることができませんでした。先々代のじいさんがそこから養子に来た船乗りだったんですね。
⑥ 親しかった家々の消息 どれもこれもなんてドラマチック!
・南通りの早坂家はなくなってしまった。ばあちゃんがなにかあると手伝いに来てくれた。お母さんが山の畑に行く途中大八車から落ちて肩の骨を折ったときも。南通りのばあちゃんは荒木家の長女だったのだ。餅つきの返しで失敗して小指がなかった。餅つきは命がけの神事だったのだ。(だから私はお子たちの餅つきとかピンとこない)
・川端で一番親しかった武田家の人々・酒田、五十川の人々・・・
・姉ちゃんの奉公・勤務先だった理容店の人々・・・話は尽きないのでした。
のり子姉ちゃん、利明くん
ちょっとエクササイズして痩せませんか?
YouTube見てやりやすいの一つでも。大村崑さんの本を送りますね。
のり子姉さん、おうちの中の荷物片づけの手伝いに行けるようにがんばります。
みんな元気でいて下さいね。また会いましょう。
お互いなんでも笑って笑って話せる年になりましたね。
いつまでたっても四女、かわいがられて育ったしう子より
昭和32年の水上がり、川端。これはうちかな? 違いますね。