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毎週木曜日は、◆子どもらに寄せて
次の世代とわかちあいたいと願われることが浮かんでくるトシとなりました。
そのことをあらためてメモ書きしていきます。合い間に私の来し方、自分史も入れます。
この図の中から、今日はイノリについてアトランダムにメモ書きします。
この図は生きることの中身を書いてみたものです。
★ 私は、言われなくても仏壇の前で祈る子どもだった。
初物、頂き物は、まず仏壇にお供えしてから人間が頂けるのであった。
近年ようやくそれが私の中で復活できた。ほっとしている。
正月過ぎ 大工祝の日には餅をついて 大工の神様である聖徳太子の掛図をかけた。
建前の日には無事に済むように梅干を食べて現場に出かけた。
主婦である母の最重要の仕事は民俗年中行事をつつがなく執り行うことだった。
正月、小正月、大工祝い、節分、春の彼岸、3月節句、五月節句、七夕、お盆、ここに金平様のお祭りが入る、秋の彼岸、・・・冬至、大黒祝、正月準備、私が今思い出せるのはこれくらいだ。彼岸と金平様以外は月歴に拠っていた。家族の誕生日には豆を炒ってお供えした残りを一升升から分け合って食べた。
『太平洋戦争が終わるまでは、ばあちゃんに教わった通りに毎年同じことをしていればよかった』と母は言っていた。ここにクリスマスが入ってくる。お菓子屋さんに大きなケーキが飾られて、ケーキを食べる日だった。母はなかなか買ってくれなかった。
要するに、人間は二の次、神様ファーストだったのだ。
言葉にしなくても十分だった。それがあたり前だったのだ。アミニズム、というのだろうか。
★ 1960年に県庁所在地に引っ越してからは、年中行事の生活の中に占めるウェイトは低くなっていった。母は心の中の寂しさをどのように感じていたのだろうか?私もそれどころではなくなった、別に私が年中行事をやっていたわけではないけれど。
★ これは私の自分史でも、私の一家でも最重要の出来事、それは上の息子が生後一か月で死にかけた時、私はどうやって電話したのだろうか、公衆電話からか、
3人の先生方が、寝ないで祈って下さったのだ。おかげさまで今年の10月には44歳になる。
★ イノリの時は欠かせなくなってきた。朝イチで神棚兼仏壇にお茶を上げて蠟燭をともして手を合わせるとほっとする。昨日の無事にありがとうして今日の無事をお願いする。
黄泉に還った大切な懐かしい人を思うとき、その人の魂がそっと寄り添ってくれる。写真が増えていく。
殊更に祈らなくても 炊事、洗濯、掃除、ビジネスの課題の仕事一つ一つがイノリとなっている清々しい暮らしに憧れているのである、でもちょっとそれどころでないときが多くて、朝の一分は大切な時間だけでも。
★ 『結局はイノリなのです』とわが師に教えて頂いた。それが有効である体験に恵まれたことを思い出すと 頭が下がる。