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毎週日曜日は、◆ステキにエイジング
今日は、7日の夜にステージの上で急逝したナミさん、南正人さんのことを書きます。今しか書けないだろうから。
ナミさんが突然あの世へ旅立った、LIVEの最中、ステージの上で。本望だったのでは、と思う。
1974年夏、ナミさんがバンドで山形に来た。夏の白い光に全員生成りの白い衣装だった気がする。登場して数十分、30分くらいに思えた、ナミさんは延々とワンパターンのリズムを繰り返した、ざわついていた会場が一つになるまで。
これで一発でハマった。アルバム『回帰線』を抱きしめた。中身の記憶はおぼろだけれど、一つの原体験として変わらずに胸のどこかから動かない。
演歌のような曲、フォークのような曲、プロテスト・ソングのような曲、民族音楽のような曲、どれもこれも全部、ナミさんの歌だ。
北海道に来て何年目か、1980年代の末か、ナミさんから連絡があり、道内の心当たりの何か所かに声をかけて、ツアーのスケジュールを組んだ。帯広のロック友達への情宣に、大築さんの『人間家族』から『南正人音楽活動30周年記念コンサート』のインタビュー記事をコピーして配った。
芦別駅前の『ロックハウス・ディラン』(コロナの後北海道にお越しの節はどうぞ!)の忠さん(伊藤忠司さん)に電話すると、願ってもないことです!と喜んでくれた。
3回=3年くらいやったと思う。そのうち一回は、なんとナミさんが帯広駅に現れたのは一日後だった。私の連絡不足のミスである。そのあと火の車操業の自営業が多忙で若い人に役割を譲った。帯広には来なくなっても、芦別では忠さんとこでくつろいでいたみたいだ。風の便りに、隣の釧路で、浅川マキのステージに飛び入りで出た、と聞いた。行きたかったな。
『俺は気持ちよく歌えれそれでばいいから』と言っていて、今回はあそこはもういいよ、と言うこともあった。
私はNATIVE JAPONECIANの “祭り” は、1982年の夏の松本での『オール・スピーシーズ・デー』が最後でとんとご無沙汰で、でも飛び飛びにナミさんのことは風に乗って届いていた。最近ではFACEBOOKで地球屋さんでのLIVEの模様が流れてきて、おお、ナミさんもトシ取ったな、(自分はどうなんだ?)気取ってなくて相変わらずでキメてなくてもこんなナミさんもいいよね、と年の功で獲得できた寛容さを発揮して友達とうなづきあっていたところだった。ミック・ジャガーやスティングのようにトレーナーをつけてトレーニングにいそしむナミさんってイメージ湧かないし。(トットさんがメンテナンスを担当なさっていたと知りました)頑丈だったナミさん、突然の動脈破裂、やっぱり放射能ではないかと思ってしまう。私の山形の甥も二年前突然の頸動脈破裂で亡くなった。仕事の建築現場が宮城の海端にもあり救援活動もしていた。
ナミさん、顔大きいね、というと、うん、そうだよと言った。横顔の眼差しがなんとも優しかったな。(今、書きながら思い出した)ナミさんといえば、最初に浮かぶのは。でかい馬面と、それに額も広い、本で読んだりいやでも入ってくるそのあほらしさだ。国分寺のほら貝でえらく落ち込んでいるナミさんに会ったことがある。確か何回目かのレインボー・ショーのトリとしてぞろぞろと出てきて、クリアにハイになる出し物ではなくて演歌まがいの恨み節っぽいのを長々とかまして、一部の顰蹙を買ったりしたこともあったな。
いいじゃないの、水濁っていれば魚も棲むという。(ま、私は当事者じゃないし)
愛しているよ、ナミさん。
ご遺族さまのご配慮とSNSのおかげで天国に向かうナミさんの見送りをみんなと(と言っても会ったことないけど)いっしょにできるのはありがたいことです。
やっぱり、私も鼻歌でまず出てくるのは、題名も歌詞も覚えていなかったけれど、“あたしのブギウギ” だ。和気あいあいのセッションにオンラインで参加しながら涙が出てくる。
ナミさんにとってこの世もあの世も大して変わらないんじゃないかな。あの世では、ナミさんをお出迎えの連中が河原に密に集まってさぞかし賑やかなことだろう。それぞれ楽器を手に首を長くして、意外と早かったね、なんてさんざめいているに違いない。
トットさんがナミさんを送りたい人を受け付けて下さるとのことで、東京在住の友達に私の分もお願いと今朝頼みました、















