『水上がり』

毎週木曜日は、◆子どもらに寄せて
①子供たちに伝えたいこと ②私の来し方 の内今日は②で
先週に続いて 最上川の洪水 のことを、姉からの手紙で記します。

★ このところ、いちばん上の姉との手紙のやりとりが続いています。「山の畑」に続いて
洪水のことも、速攻で来ました。息子の弘ちゃんがこのブログが見えるようにしてくれているのでしょうか?

 姉からのこの紙で記憶がよみがえったことがあります。
・そうだ!「水上がり」といってたんだ、洪水なんていわなかった。
・大正12年のことはそういえばお父さんたちが話していた。
・ろうず、そうそう、家の玄関から土間の道が裏まで通っていて、ろうずといってたな。

 ねえちゃんからの手紙をワープロします。


        『水上がり』    のり子83才の思い出

 昭和27年5月 15才 山形へ行くまでの間に何度(水が)上がったことでしょう。(そうだったんんだ)父が出稼ぎに行って母と子供達だけ、二人の兄はどうだったのか?
 朝めがさめて路通 ローズに下駄がぷかぷか浮いていたよ。皆んな家族の集まる所は座敷が高い。玄関より土間の暗いろうずが通っていた。(そうそう)
 テレビもラヂオも無い時代 天気予報も知らされず 大石田方面はあまり雨が強く降った様子もないままに、月山系の200m(ミリ)降れば最上川が氾濫する。その後月山ダムが完成する。
六年生の春には雪どけで道よりも十段もの石段(そうそう、家の前は階段になっていた)を上った所に家がたっていたのに入り口まで水が来てあれほどあった雪が(豪雪地帯です)どんどん流れていった。家の裏出口から通りに行けた。
 ある時家の前 道路まで水が来てる時に南通りの叔母さんが手伝いに来てた。エツ子(母のこと)早く物を上げんべハー(←大石田弁です)と言うとまだエエとあせらない腰のすわった母でした。

父の婿入り桐箪笥 仏壇を二階に上げる。一間180㎠二段の戸棚はロープにて吊り上げる。一番大変なのは囲炉裏 りんご箱をならべて上げる。それでも水が上がって来たら(りんご箱を)二段重ねで。(囲炉裏も上げていたか) 畳はくるくると巻いて上へあげる(厚床ではなくうすべりだった。うすべりから質素なものであったけれどやや厚床になった)それから床板をはづして上へ

姉の詳細な記憶。米櫃は大きかったな。お膳はお祭りのときなど。



みんなで二階で暮らす 土間が乾くまで。本当は子どもながら(だったので)二階での生活が楽しかった

 昭和30年頃か父と兄達が山形で仕事してた時に知らせが有り車で駆けつけると新町川(これは朧気川だと思う、新町川とも言っていたのかもしれない。最上川の支流です)の橋(もちつき橋)の手前で低い道が冠水、又もどり国道13号線尾花沢より川端の家に入る

大正12年の大水には2階へのハシゴ上から二段目まで上り向かいの杉林の所に二家有った家が流されてない(そうだったんだ)

 堤防を作る話となり
堤防と同じ高さに土を持った所に家を建てるなら良いが大石田一坪500円山形市あこや町1万円 立ち退き料として50万円出た(昭和35年です)引っ越しに30万円かかった(家を解体していたな。解体して立ち退く前に並びの3軒、佐藤?叶内・荒木 を撮った写真があったけれど今となってはおそらく再見することはないだろう)
堤防ができて川端(生まれ育った部落、22軒)に残った何軒かは新築する。(堤防の下に。金平様も移転)その後川下の小マス(屋号です)まで堤防ができたときに川下より水が上がり沼の中に(沼状態となった)三日間も水が引かない。元トナリの叶内さんの母がボートで救助されたニュースを見た

 何の手伝いもせずに最上川の流れ思い出しごみなげ場あたりへ時々行って魚釣りしても知る人は少ない 、釣り人も代がわり(井刈くんのお父さんが網をうっていたなあ)昔の魚はブラックバスに大きい口で、ハヤ、オイカワ、フナ食べられてしまう。
 堤防の下で(生まれ育った家は今は堤防の真下)育った荒木です。なつかしくて来たよ。舟に上がって洗い物すると魚が列を組んで泳ぐ姿がもう無い

最上川 大橋 川端部落の住人のごみ投げ場、増水した川がきれいにしてくれる。プラスチックのなかったころ。 板舟は鍛冶屋さんの。毎年のようにはす向かいの黒滝から舟大工さんが来てつくっていた。私達の遊び場、無事故。 ゑい子姉ちゃん六年生、撮影はあんつあ(上の兄)貴重な写真。ねえちゃんが同封してくれました。私達きょうだいの原風景です。



 
 



『ファイリングせねば』

毎週水曜日は、◆読む・書く・話す
ずいぶん範囲が広いですね。コミュニケーション全般を含みます。

今日はこれまた課題のファイリングについてです。

★ 生まれつき紙が好きなこの私、しかしながら、今は紙が見えない生活をしたいものだと切望しております。机の上もあっという間に紙だらけ、郵便物、ブログの印刷したの、ダイアリー、スケジュール・ノート、パソコン・メモ、本。後ろの棚にも整理を待っている紙、紙、紙。それに所属ミニ団体の資料の箱が積み重なっています。この5年の新聞他の未整理スクラップはすべて資源ごみへと決めました。

★ もはやできることが限られているので万般シンプルにスッキリとして暮らしたい。
必要なときにはサッと資料が出てくるようにせねば(あ、今はパソコンに入れるのか?)
頭の中も整理しておきたいわけです。法律事務所さんの資料は揃いのファイルでキチンと並んでいます、当たり前ですね。市役所に行ってもキレイにに整理してあります。

★ ようやくこのブログの曜日ごとのファイルを用意しました。しかしそのあとが一仕事です。約一年分の殆どを印刷して、バックアップのためワードに曜日ごとに貼る(なにか簡単にできる方法があるのかも?過去のものは諦めるか)。教えてもらっていたので初めからやっておけばよかった。

曜日のマジック書きがイマイチですけど



★ 万般ファイリング、お盆までにはメドつけましょう、と自分を励ましています。

★ もう一つ、本があります。ブログを書いていると出典を示したり、確認作業が必要なことがあります。ここに引っ越して以来段ボールに入ったままの本の出番です。こちらは秋分までには本棚に並べましょう。

★ 何もしていないように整えて,頭も軽く身も軽くです。そうなれば掃除もラクチンですよね。道は遠い。ミカン箱二つで引っ越していたこともあったのに。

今年沢山咲いてくれている仮称・エゾミヤマクガイソウ、満開です。

『きょうだいで自分史する』

毎週火曜日は、◆自分史をつくろう、今未来に向かって
このブログのメイン・テーマです。

★ 私は7人きょうだいです。昭和7年から昭和25年までいます。2番目の姉は亡くなって長兄とは疎遠になりました。
 一番上のねえちゃん(いちばん上の姉ははただ“ねえちゃん”と呼ばれています)と最近、前よりいっそう頻繁に手紙のやりとりをしています。このブログで毎週木曜日にこのところ生まれ故郷のことを書いていてそれを送るとすぐ返事が来るんです。いっしょにサクランボやら衣類やら切手やら、ねえちゃん、ありがとう!。さすが長女、いつまでも困った時のねえちゃん頼みでねえちゃんも困るときもあります。

さて、故郷のことを書いたので、先日二番めのゑい子姉ちゃんと弟の利明君にも送りました。ノートも一冊入れました。何か書いてくれるかもしれません。
そしたら、姉ちゃんが、賢ちゃん(二番目の兄、昭和9年)にも送ったら、と手紙に添えてきました。賢ちゃんにも聞きたいことがいくつかあります。・父との大工修行 ・出稼ぎ先 鬼怒川温泉の現場などです。

★  ねえちゃんからの今度の手紙で思い出したことが三つありました。
① 洪水は、“水上がり”と言っていたこと
② 対象12年の大洪水、ああ、大人たちが言ってた言ってた!
③ “ろうず”、これは路地の意味でしょうか?玄関(というほどのものでもありませけど)から家の中に土の通り道が裏迄通っていたのです。大石田弁と共にあの“ろうず”がさっと甦りました。
 私たちが生まれてもの心つく前もたびたび“水上がり”はあったとのことです。



★ 私達きょうだいも全員70過ぎ、賢ちゃんは85歳です。今のうちです。5人で書きあえば、その時の思い、知らないことがたくさん出てきそうです。
昭和20年代、出稼ぎ先からの葉書には家族間のおもいやりが書かれていました。兄二人にも面倒みてもらったものです。その後昭和35年に県庁所在地に引っ越して、我が家もそれなりに高度経済成長政策以降の時代の波をかぶることになります。
残った5人で書きあいながら、悪口言いあいながらでも、あれやこれや共有しあって笑いあえればと願われます。
 一人で書くときと違って、グッと幅と広がり、重なりが幾重にも交差してきます。

賢ちゃん、姉ちゃんのとこでも取れていることでしょう。北海道でももう3本は食べましたよ。

 

『板坂裕治郎さんのブログ講座に参加するぞ!』

毎週月曜日は、◆小さなビジネスを始める にあたってのあれこれです。

 ★ 昨夜、ブログアップできてないな、と気にしながらパートから帰って来たら、なんと!
板坂裕治郎さんがこの24日札幌で講座を開催なさるとの報が飛び込んできました。
↓ こちらです。テーマは、どんぴしゃり
“ブログは書いてるけど、このままでいいの?”
『我流ブログを集客ブログに生まれ変わらせる2200人が成功した手法』

https://tai-gee.com/nje-blog/?fbclid=IwAR1c_q_Bb7qJAOAE1yYEMST0wDglXNVy7iiDEvA-NBMm7ITyPo_qGEkBF9E

 札幌の『作文教室ゆう』さんの藤本研一先生がFacebookで知らせて下さっておりました。フジケン先生、毎日お世話になっております。藤本先生の毎日ブログはすでに1000日を超えているのです。
 板坂裕治郎さんはこのご本の著者でいらっしゃいます。

 藤本先生にFACEBOOKで教えて頂いて即購入、胸がズキズキ、思い当たることがいっぱいでした。自営で無農薬の八百屋をやっていたときは無知の極み、当然パンク炎上して、なかなか立ち直れずなんとかしてリベンジを、と15年、パートでしのぎつつ、本を読み、小さな起業のための』講座には出来る限り、話し方教室、作文教室にも参加して、ここで藤本先生と出会うことができました。

 一晩考えました。50000円の受講料はコロナ支援金から拠出、JRは上の息子がJRなので半額、パートは融通をお願いして、と。問題は、板坂さんがコワソーなこと、体育会系だと聞いているし、キビシーこといわれたら、このトシで耐えられるだろうか?(ここでトシを持ち出す)IT始めとして内容にに追いついていけるだろうか?

★ 朝イチで事務的なことをリストアップして段取りを組みました。普段半径1㎞で暮らしているのでビッグ・イベントなのです。

★ この際、このチャンスを活用して、たまっていて遅れていて気になっている課題を一挙23日まで片付けてしまおう!とチカラもりもり、50000円効果スゴイ!です。

◆ 課題リスト
① クラウド・ファンディングについて調べて(120分)、事業計画書を書いてみる(60分×5)
② メールマガジンの発行(ひとりでできるかな?)  120分 
③ TWITTERの自己紹介の編集 120分  ブログ投稿開始
③ 板坂さんの講座の課題のノートをつくる(60分)+ゲットしたいことをリストアップ(30分)
☆ 朝4~5時起床←夜~9時半就寝 ~11時までに最優先課題を片付けるリズムの定着
☆ 55kgまでダイエット(夕方6時以降FASTING)
・ 所属ミニ団体の書類のファイリング(3~5時間)→活動報告をまとめる(3時間)→郵便振替口座取得(60~120分)→新リーフレット作成のチームワークつくり +総合活動計画(60×3~5分)
⑦ 身体が疲れたらいつでも休む 

実は今は水曜日です。毎日更新のこのブログ、今日の分まで今日中に追いついて申込みです。入金は16日、パートの給料日の翌日の支払いデーになります。

★ 板坂さんは、私にとって未知のタイプの相当こわそうな方、耐えられるだろうか?一晩迷って、
・なかなか実務が前進できずうめいていた ・コロナ支援金が来た ・大きなエネルギーをお持ちの方、共通の目標を持つ方々とナマでお会いできる機会である、とシンクロ二シティが重なったことにして決断しました。



=この1週間の前進報告=
① この24日に札幌での板坂裕治郎さんのブログ講座に参加することに決めた
② それまでの2週間でためている課題を片付けてしまう
③ 息子に画面共有+スマホでパソコン教えてもらった。スマホの写真をパソコンに入れて記事に貼れるようになった(大進歩!)
④ このブログの曜日ごとのファイルをつくった。ほぼ一年分整理が課題
⑤ My Liitle Gardenの苗の定植が終わって気持ちが落ち着いた
⑥ Diary Timeほぼ毎日◎

=今週の課題=
① 夜9時半までには就寝 夕方6時以降食べない
② ブログ追いつく~8日
  朝6時~7時半 ブログ・タイム ~9日
③ クラウド・ファンディングについて知る ブログの後に 120分 ~12日
  企画書に着手  60分 ~12日 
④ 板坂さんの本再読 30分  課題ノート 60分  ~12日

他に
・ 所属団体の会議報告  60分 9日
       資料整理に着手 分類 60分 10日
まずは溜まってる課題を片付けるぞ!





 

MY LITTLE GARDENの苗の定植が終わりましてその分心が安定しております。

 

『ルーティン・ワークを最優先する』

毎週日曜日は、◆ステキにエイジング
あと27年、(100歳まで行けるとして)この限られた時間の密度をアップすべく
ルーティン・ワークを最優先しようとあらためて態勢をつくりなおしています。

★ 『今日だけは、私は適切にエクササイズし、食事をし訓練する。自己鍛錬が私の求めていた自信をもたらす』 『今日だけは、トレーニングのルーティーンでいつものことを非常にうまくやる。小さなことが決定的な違いを生み出すからだ』(ジム・レーヤー 『メンタル・タフネス』)

★ ルーティン・ワーク表を書き出しました。
◎ 朝起床時ー歯磨きと白湯、FACEBOOKに毎朝の挨拶を投稿して→エクササイズ(ストレッチ、スロー・ジョギング、太極拳、ボイス・トレーニング)
加えて久しぶりに瞑想を復活しました。瞑想については後程書きます。

◎ 外出の前と後 買い物したら帰ってすぐ記帳、これも復活しました。
◎ 夜寝る前 足湯、からだのケア、ちょっと本~8時~9時45分就寝→朝4~5時起床

もっと細かく仔細を流さずに書き出しました。 結局はコツコツ淡々、それが私のモットーとして定着するように工夫しているわけです。書き出しただけで安心感が生まれます。所要時間も添えました。コツコツ淡々、についてもまた後程。

★ 最優先のことは他にある、目に見える結果を出さなければならないことが、と焦ります。でも忙しがってルーティン・ワークがおろそかになると、疲れてきて集中力がダウンして考えがまとまらなくなります。年齢が若いときと違って勢いだけではもはやできず、からだが休みを要求してくるのに逆らうことができません。とはいうものの、ルーティン・ワークに要する時間をちょっと短くしたいと思案しています。 ねばならぬと、こだわり過ぎてもつらくなりますしね。

『今日だけは、私はリラックスし、ぼんやりする時間をとる。リカバリーは私のトレーニングに必須のものだ』(同上)

定植した苗のために、繁茂しているゲンノショーコを摘んで場所をあけました。母に土用に摘むものだときいていたのが引っ掛かりましたけれど。ゲンノショーコ摘みも夏のルーティン・ワークです。


『新生日本に向かって・起死回生プロジェクト その⑥』

 毎週金曜日は、◆望む未来を今つくるー政治は身近・気軽に政治
 苦手、といっていられなくなった政治のことあれこれです。

 今日は、先週からの続き⑤で、4月から5月にかけてざっとまとめてみ

『新生日本に向けて、今この国の主権者たる私達は、何をどうすれば
いいのだろうか?』
その項目を追ってメモ書きを続けます。

① 最悪の状態を想定してみよう + 私達の望む未来を描こう
② 私達はどのように生きていたいか? なぜ生きているのだろうか?
③ この国の歴史を知って取り戻そう
④ 立憲民主主義、国民主権・基本的人権・平和主義、日本国憲法に
  ついて知ろう
⑤ 私達の望む未来を実現させるためには、何をどうしたらいいのだろうか?

今日は
⑥ 自分自身の言葉を持とう についてです。

 ★ 欧米のスターのインタビューの受け応え、カッコイイですよね。スターだけではありません。街角でインタビューされた人でもちゃんと自分の言葉で応答します。
 この『カッコイイ』の中身はどんなことでしょうか?
 自分が自分として生きていて自分自身の言葉で話していることがが身体から感じられます。
ひとりひとりがオリジナルとして生きています。

 1965~1975,ベトナム戦争反対行動の時代に、べ平連、『ベトナムに平和を!市民連合』では、ベトナム戦争から脱走した米兵をかくまって海外に逃がす活動を敢行しました。ちゃらんぽらんに見えるアンちゃんでも、『私はなぜ脱走したのか』を、アメリカ独立宣言を踏まえてキチッと書くことに小田実さんたちは驚いたそうです。

 5年前、安保法制反対行動を牽引する役割を担ったSEALDsのメンバーたちのスピーチは、斬新で私達を行動に奮起させました。その身体から発する危機感に私達も身体で反応しました。この列島各地で定期的にアクションを継続している人々がいます。


★ 自分自身の言葉で語るために必要なことは何でしょうか?
 ・確かな知識
 ・アタマ、口先だけでなく身体で感じている
 ・YESかNOかを言える わからないことはわからないと言える
 ・思いを共にしたいという願い 伝えずにいられない
 

★ 上手、下手抜きにアピールしてみませんか、と振られたら大抵尻込みしますよね。私達、“私はこうです。”と話すことに慣れていないしそのような場面もそうそうないですし。
 はじめはビビるし拙くて当たり前ですよね。

  “TED”を見るとプロのスピーチの上手さに感動します。実は私、スピーカー・ウオッチャーなんです。話し方教室に2年参加しました。ボイス・トレーニングもほぼ毎日しています。とはいうものの、とっさの本番となるとあわてんぼの本性丸出しで20点くらいです。出番が決まっているときは『準備』が肝腎だ、と終わってから後悔反省しきりという段階です。あら余談になってしまってごめんなさい。

★ 基本的人権=人は生まれながらにして命を尊重されて生きる権利をもっている。自分自身の言葉を持つようにこころがけていきましょう!

今日は(金曜日分を日曜日に書いております)ようやく苗を定植、鉢替えできて満足です。






 

『それでも季節は進んで行くー土曜の朝はホリデー気分』

毎週土曜の朝は、NHK FM で“weekend sunshine ”に続いて“世界の快適音楽セレクション”をかけてまったりすることにしています。

今朝は四時半ころ起きて木曜日分のブログを投稿してお弁当も作ってしまいました。

昨夜は、FACEBOOKのコメント欄2つで盛り上がりつい11時半迄起きていたので、ラジオは半分寝ながらでそれでも安心していました。

↑ こちらは今食べたお昼ご飯です。芽の出たじゃがいもを焼いたのをスープに入れて青みはレタスです。やっぱりスープでお腹も気持ちも落ち着きます。だしのミネラルの旨味の作用なんですって。

毎朝ミニ・ガーデンから収穫します。

小松菜にルッコラのグリーン・スムージーがこの季節の定番です。熱湯をくぐらせて冷ましてがーっとやります。

貴重品のキュウリです。去年から接ぎ木にしたら楽チンです。

こちらはズキニ、あっという間に花が2つ、今年は実が元気でいるようにトマトトーンなるものを散布して見ます。もう子供産むこともないしと心は少し揺れます。

ヨモギの先端にもあるのよ、と友達に教わってやってみた光合成菌の培養、うまくいって水、天水を使いました、が赤くなって来ました。私はヨモギLOVEなのです。

気になって何回か見に行ってる近所のハナミズキ、やっぱり薄紅色がかすかで今年は殆ど白いです。美しい。

ついでにさくらんぼをちょっとご馳走になって帰って来ます。無人屋敷なのです。

最後にmy little garden から何度も登場してもらっているビオラです。ますます花数が増えてます。目肥やし足肥やしカメラ目線に息がつまっているかもしれません。

手前は一重のバラです。

『洪水』

毎週木曜日は、◆子供らに寄せて
今日は、生まれ故郷の洪水のことを書いておきます。

 生まれ育った家の向かいには家がなく最上川の岸の林だった。大石田町川端、その名の通りである。この林に生えていた木々については来週に書きましょう。思い出す暇がなかったのだろうか、歳と共に思い出すのは、13歳、1960年に県庁所在地に引っ越す前のことばかりだ。

毎年洪水になったのは小学校4年くらいからだったろうか?戦争前にも洪水はあったらしい。我が家は真っ先に床上浸水するのだった。大雨になり水が上がってきそうになると、裏の鍛冶やさんに電話を借りて、父と兄ふたりの山形市の出稼ぎ先、南部建設に電話する。汽車で一時間半、父たちが帰ってくる。台所の大きな戸棚二つを一階の天井にロープで吊る。一階の床板をバールで全部剥がす。家が川に持って行かれないようにである。

 井戸が濁る前にまず水を汲む。二階の大きな木桶に水を汲みあげる。父の大工の師匠の妻=父の姉が大量の握り飯を握っている。さっと親戚が駆けつけてくるのだ。男手も来てくれていたと思う。夜中寝ずに水の上がり具合を見ながら、『前の洪水のときは階段の何段目を残すところまで来た、あの時ほどではない』『引いてきたぞ』とか語り合っていたから。全員二階に避難しているのだ。私が覚えている最高水位は階段の2段か3段を残すところまで来たときだ。最上川の中流域でゆっくりと上がってくるのだった。家の中まで来ない水はたびたび出てのんきに道路にあふれてきた水をこいで遊んだ。

 最上川がその流域を押し広げて濁流が勢いつけて流れていく。テレビもなくラジオも聞いていただろうか、行政からの避難指示はあったのだろうか、経験と知恵で静かに川に対処していた。事故といえば見回りの消防団のひとがうちの裏の肥溜めにはまったことがあるくらいなものである。私の覚えている限りではです。

 引きつつある川の水に弟は庇から小便をした。そういえばトイレ、どうしていたのだろうか?覚えていない。いかだをつくって流している人もいた。食べ物は握り飯で、『日にちが立つと腐るので今度は〇〇にした方がいいね』と親戚の手伝いにきてくれたおばさん方が話していた。6年の時には隣のまこと君が『(水が出て)海浜学校にもっていくものが用意できなくなる』とべそをかいていた。今なら『まこと君大丈夫だよ』と寄り添うだろう、しらっと傍観してないで。

水が引くと役場からDDTが支給され水につかった部分に散布するので家じゅう真っ白になる。乾くまでその年の天気にもよるけれど一か月くらいかかったような気がする。床板をはりなおしてもとの暮らしに戻る。

 全然怖いと感じることもなくどちらかというとわくわくしていた。それは家族、親戚、町の人々にしっかりとまもられていたからだと今は思える。わくわく、は人間の知恵と手を超えるもののワンダーになにか甦るものを身の内に感じるからだ。3年ほど前の十勝川の大水の時は、自転車で十勝大橋ー帯広川、札内川、との合流点(点ではなくなっていた)ー札内大橋迄まわった。

 やがて堤防工事にともない荒木家は先祖伝来の地を立ち退き県庁所在地に引っ越した。


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毎週木曜日は、◆子供らに寄せて
今日は、生まれ故郷の洪水のことを書いておきます。

 生まれ育った家の向かいには家がなく最上川の岸の林だった。大石田町川端、その名の通りである。この林に生えていた木々については来週に書きましょう。思い出す暇がなかったのだろうか、歳と共に思い出すのは、13歳、1960年に県庁所在地に引っ越す前のことばかりだ。

毎年洪水になったのは小学校4年くらいからだったろうか?戦争前にも洪水はあったらしい。我が家は真っ先に床上浸水するのだった。大雨になり水が上がってきそうになると、裏の鍛冶やさんに電話を借りて、父と兄ふたりの山形市の出稼ぎ先、南部建設に電話する。汽車で一時間半、父たちが帰ってくる。台所の大きな戸棚二つを一階の天井にロープで吊る。一階の床板をバールで全部剥がす。家が川に持って行かれないようにである。

 井戸が濁る前にまず水を汲む。二階の大きな木桶に水を汲みあげる。父の大工の師匠の妻=父の姉が大量の握り飯を握っている。さっと親戚が駆けつけてくるのだ。男手も来てくれていたと思う。夜中寝ずに水の上がり具合を見ながら、『前の洪水のときは階段の何段目を残すところまで来た、あの時ほどではない』『引いてきたぞ』とか語り合っていたから。全員二階に避難しているのだ。私が覚えている最高水位は階段の2段か3段を残すところまで来たときだ。最上川の中流域でゆっくりと上がってくるのだった。家の中まで来ない水はたびたび出てのんきに道路にあふれてきた水をこいで遊んだ。

 最上川がその流域を押し広げて濁流が勢いつけて流れていく。テレビもなくラジオも聞いていただろうか、行政からの避難指示はあったのだろうか、経験と知恵で静かに川に対処していた。事故といえば見回りの消防団のひとがうちの裏の肥溜めにはまったことがあるくらいなものである。私の覚えている限りではです。

 引きつつある川の水に弟は庇から小便をした。そういえばトイレ、どうしていたのだろうか?覚えていない。いかだをつくって流している人もいた。食べ物は握り飯で、『日にちが立つと腐るので今度は〇〇にした方がいいね』と親戚の手伝いにきてくれたおばさん方が話していた。6年の時には隣のまこと君が『(水が出て)海浜学校にもっていくものが用意できなくなる』とべそをかいていた。今なら『まこと君大丈夫だよ』と寄り添うだろう、しらっと傍観してないで。

水が引くと役場からDDTが支給され水につかった部分に散布するので家じゅう真っ白になる。乾くまでその年の天気にもよるけれど一か月くらいかかったような気がする。床板をはりなおしてもとの暮らしに戻る。

 全然怖いと感じることもなくどちらかというとわくわくしていた。それは家族、親戚、町の人々にしっかりとまもられていたからだと今は思える。わくわく、は人間の知恵と手を超えるもののワンダーになにか甦るものを身の内に感じるからだ。3年ほど前の十勝川の大水の時は、自転車で十勝大橋ー帯広川、札内川、との合流点(点ではなくなっていた)ー札内大橋迄まわった。

 やがて堤防工事にともない荒木家は先祖伝来の地を立ち退き県庁所在地に引っ越した。


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 たび重なる毎年の洪水に高度経済成長政策が加わり、我が家は立ち退き山形市に引っ越した。

『日本語に不自由している』

毎週水曜日は、◆読む・書く・話す
随分範囲が広いですね。コミュニケーション全般を含みます。

きょうは、『作文を学ばねば』がテーマです。

★ 毎日更新のブログを書き始めてすぐ気づいたのが、「自分は日本語に不自由している」ということでした。
・言い回し、事実関係、経過報告、といちいち躓きます。
・ 感情は、感じてもいないことを辻褄合わせ、その場の取り繕いでかっこつけようとしたりしていい加減になってはバレバレです。
・『』、「」、“” の使い方の違いがよくわかりません。・・・etc.

★ その一方で、え、私、こんな言葉知っていたの!と普段使わない日本語がすらすらと出てきたりします。そんなときは快感です。潜在意識に蓄積されているんですね。
『 読まなければ書けない』とさとり、スマホ、パソコンでのSNSの時間がかなり短くなっています。初めて知る日本語、素晴らしい言いまわしにはマークをつけます。本を読む時間をつくろうとしています。


★ 日本語のテキスト、今の私の場合、作文の技術の本が数冊並ぶようになりました。いちいちフレッシュで感心することしきりです。↓ こちらは息子が送ってくれた一冊です。


“気分は外国語”です。

★ めざすところは、
・読みやすい  ・あまりに個人的な表現をしない  ・ユーモアは私の生きる理由ではあるけれどもも崩しすぎない 。手練れの『虚構新聞』愛読しております。お手本のひとつです ・押し付けがましくない。読んで下さる方の身になる。クサくない。  ・坦々としている  ・伝わり共有できる部分がある  お役に立てるなどなどです。

今日のブログのこの文も突っ込みどころ満載な気がしつつ投稿致します。

技法の本と共に名著を読まねばと心しております。

『明治の女性たち』

毎週火曜日は、◆自分史をつくろう、今、未来に向かって
このブログのメイン・テーマです。

今日は、島本久恵刀自の『明治の女性たち』について書きます。

★ 奥付けを見ると、初版は昭和41年、1966年、かれこれ55年ぶりに私はこの本を手にしています。

 島本久恵刀自は1893年のお生まれでこのご本のあとがきをお書きになったのが1966年、その時私と同じ73歳でいらしたことになります。較べるのも憚られることですけれど、私はこの先も刀自と呼ばれることはなさそうです。

 この本は、出会って以来いつも私の身体の中にありました。私の人生を決めた本の一つです。ずっと手元にほしいと願っていました。『しうこばーばの自分史講座』が私のメインの課題と決まってついに手に入ることになりました。息子からのプレゼントです。

 自分史講座のために、伝記・自叙伝など100冊読むと決めています。その筆頭に来るのがこの本です。

★ この本は、島本さんが、幕末から明治、大正、昭和にかけて活躍した女性にインタビューし、お話を伺ってお書きになりました。女性に選挙権のなかった時代に、凛として自身の生き方を貫いた素晴らしい女性たちです。
 登場する主な女性は、東京女子医科大学を創設した吉岡弥生、女優の東山千栄子、新宿中村屋を創業した相馬黒光、歌人の與謝野晶子、自由学園を創設した羽仁もと子、などなど錚々たる方々です。

★ 『明治』とはいかなる時代であったのか、そのもっとも素晴しい面を、苦闘に次ぐ苦闘を重ねて体現した女性たちです。「昭和のいまの物と人をもってはくらべもつかない若々しさ瑞々しさで、」です。令和のいまではいかがなものでしょうか?というだけ野暮でしょうか?

 島本さんの筆致は、毅然として、二番手の毀誉褒貶に揺るぐことなく、その人の真実に迫るべく、真実には骨太、仔細には配慮繊細です。その両性具有な書き方は私のお手本となりました。

「老いの身とはいえ吉田妙は、心憎いほど女のなよびを離れ切っていた。・・・対座のあいだ余事が一つもまじらないのは、年の高い人の威だけのものではないようであった。」

★ 「それでは、深い印象でいまも目にある、その忍耐が無量の重さで示されていた刀自のおもかげは、下の下にも語らぬものをおししずめていて定まったもので、・・・」(『森有禮夫人のこと』)

 このページを再び目にして胸がいっぱいになりました。以来私の生き方の通奏低音の一つとなったからです。他者と接する際にもです。

★ あとがきには、これから私が自分史講座で皆さんと接するときの姿勢のお手本が示されていました。

 「そう考えてくると、仕事を中にした場合の人と人の責任のおもさ、誠実を尽くしてようやくそこに探りあたる一点があり、もしお互いがちょっとでも気をはずして話のはこびを弾みにまかせたり、自分の好みにひきつけるとか書くのにらくな方向を取るとか、何にしても仕事の苦しさに負ける弱さがどちらかに出たなら、求める真実はその瞬間に失われてしう。・・・つらい仕事というほかない。」
 「ただ、私は人間が好きであった。人間のすることや考えることや、それが備えている欠陥や、あやまりや、またその一念の不可解や、愛情や、要するに人間のすべてが好きで、だから、つらくてもつらくても、好きなものから離れなかった、そういえるのではなかったかと思う。」

TAKE IT EASY,リラックスも大事、リラックスだけでなく一つのスジを通すのも大事です。

★ 55年ぶりに島本久恵著『明治の女性たち』を手にしてひとつ安心立命を得ているいる私です。