『昭和30年のくらしから』

1134/10000 4月12日(水)2023
今週から曜日ごとにテーマを決めました。大まかですので
変わることもあります。
今日の水曜日は◇台所大事を変更しまして
子どもらに寄せてその②
『昭和30年の暮らしから』の一回目をお送りします。



坂本龍一さんが仰っておられました。
『年を重ねると自分たちの後の世代、子供たちのことが気になってくる』と。
実は私もそうなんです。生物のオヤとしての本能でしょうね。
子どもたちが、激動の時代となることがほぼ確実なこれからの山と谷と砂漠を
逞しく乗り切っていくことができるように
伝えるべきものを伝えておこう、と
『子どもらに寄せて』のテーマを設けました。



太平洋戦争を生身で体験した先輩方に続いて
高度経済成長以前の世の中を知る私たちも
まもなくこの世を去ります。
『高度経済成長以来、この国が失ったものを取り戻すには
1000年はかかるだろう』

総合栄養療法の隠れ権威でいらした山本真吉博士のお言葉です。



3月に生まれ故郷の役場と図書館を訪れて
昭和30年前後の暮らしの資料を見せて頂きました。
新たにふつふつとよみがえるものがあり
懐かしい、この言葉では間に合わないものがこみあげてきました。

私の故郷は、山形県北村山郡大石田町川端、名うての防雪地です。
ここで生まれ13歳まで育ちました。


これは雪踏み(大石田弁で何と言っていたか思い出せません)米俵に藁でひもをつけたもの。米俵ではなくて雪踏み用に編んでもらったかもしれません。川端部落の阿部さんのじいちゃんに冬前に冬の藁靴を家族分注文するのでした。
朝、降った雪で入り口がふさがれているのは珍しくなくて、雪が降ったら雪踏みしてないと恥ずかしい(怠け者とみられる 近所の人の暮らしの気をそぐ)とお母さんは気にしていました。これ、受けついでいますね。ここ帯広でも雪が降ったら気になって朝イチで雪はね(北海道弁)します。大石田の雪と比べたり、気候変動で雪が重くなったと違和感を感じたりしながら。


こちらは真冬のメインストリート。馬車が材木などの荷物を運び、豆腐屋さんが箱そりに豆腐を積んでチャルメラを吹きながらまわってきました。馬車の馬が馬車を扱う人を蹴って怪我をさせた事故がありました。

二丁目とありますが、もしかしたら川端部落の入り口ではないでしょうか?
今行くとこんなに狭くて小さかったのかと驚きます。冬は道路が雪で家の一階の高さまで来てました。

雪とのたたかい、わが家は雪をのがれて冬も仕事のある県庁所在地に引っ越すことになったのでした。1960年昭和35年のことです。



県庁所在地に引っ越しての何とも言えない違和感、
10年ほどして私は『疎外』という言葉を知ります。

『高度経済成長以来、この国が失ったものを取り戻すには
1000年はかかるだろう』


高度経済成長期とは? 以下はWikipediaからです。

『 敗戦からの復興(1946~1956年)[編集]

第二次世界大戦において、イギリス・アメリカ・中国・オランダの連合国に敗北し、朝鮮半島台湾などの領地を喪失した上に、敗北と占領下による経済活動の荒廃や混乱を経た上でも、日本は敗北から急速に復興した。

1940年代後半に発生した食糧危機の影響により経済状況が一時悪化するが、1950年朝鮮戦争特需により、占領下を脱して1年半の1953年後半ごろには戦前の最高水準を上回った。1956年10月には戦後11年で経済白書が「もはや戦後ではない」と宣言。』

この後高度経済成長黎明期に突入していきます。
わが家が県庁所在地に引っ越したのは1960年、
高度経済成長本格化の直前で、引っ越して間もなく
スーパーマーケットが出現します。


昔はよかったとか懐かしむだけでなく
そのよかったところを今に、何かアップデートしたカタチで
いかせないだろうか?

よくなかったところからは学んでやめるとして。
そんなことを思いながら
昭和25~35年のころの様子を
春夏秋冬、季節を追って思い出しながら書いていきます。
                         4/21記