🔷子供らに寄せて  母の来し方を振り返る

毎週水曜日は、“子供らに寄せて”今日は、母の生まれ故郷の大石田のことあれこれ、その②です。

先日旧友のおかげで、山形の最上町在住のOさんとFBで友達になり意気投合。

Oさん、職業表記不可なのではというくらい、縦横無尽の活躍ぶり。わが大石田でも、地域起こしのプロジェクトに関わっているという。

それでか、なんと“大石田蕎麦祭りー白井貴子さんとともに”なるイベントページが入って来た。

芋づる式に思い出すことをアトランダムに。

・父の妹、おばさんは手打ち10割蕎麦の名人で、一度打ち立てをご馳走してくれた。

打ち立てを流水でしっかりとしめて、生醤油をたらして食べるのが一番!

これが、私の蕎麦の原点です。

・父は大工で、師匠について修行した。

大石田小学校と、斎藤茂吉の庵に、棟梁として連記されている。

兄二人とともに下の四人を育てるために、出稼ぎの連続。どうやって仕事を取って来たんだろうか?

暗号のようなものを見ながら鐫を打っていた。今なら尊敬と感謝の念でいっぱいである。

小学生のころから「物事の全体像をつかもうとする」私の性向は、棟梁だった父のDNA か、と思うことがある。

花好きは明らかに父の DNA 。出稼ぎ先から、ダリアの球根や、芙蓉の苗を背負って帰って来た。

母にねだって、学校に持っていく花を新聞にくるんでもらった。ダリアが茎の切り口を囲炉裏の灰で焼いて、水揚げがよくなるようにしてくれた。

・お祭りは、9月15日琴平さま。川端部落22軒打って一丸となって遂行された。

・風呂が沸いたよー、と仲のよい近所の家からお使いが来て貰いに行くと、桧風呂のお湯の表面に垢がいっぱい浮いていた。だれもそんなこと気にしなかった。

1960年、高度経済成長政策が本格的に始まったころ、荒木一家は県庁所在地に引っ越した。

一学年2クラス100人から8クラス400人に。そこでの強烈な違和感、

疎外、という言葉をあとになって知った。

戦争体験者に続いて、高度経済成長以前の世を知る私達も間もなくあの世に。

昔はよかった、ではないけれど、伝えたいものがある。

Oさんは、地元学の結城登美雄さんともプロジェクトをともにしてるとのこと。

結城さんは大学の同期、何十年会わなくてもノープロブレンな友達です。

大石田の雛人形のことを朝日新聞に書いていたのを、八百屋してるとき古新聞で見たことがある。

口説くなってはいけないな、今日はこの辺で。

生まれた家の庭に、どこになにが植えてあったか思い出しながら夜寝ることがあります。ドクダミもあっておできの吸いだしに、ぎぼうしの葉っぱに包んで囲炉裏の灰に埋めて、母がしてくれました。しばらく前から、この辺でもドクダミが繁茂するようになってます。