『荒木一家から受け継いだもの』

毎週木曜日は、◆子供らに寄せて

今日は,父と母、きょうだい達から受け継いだものをメモしておきます。

★ 父は明治39年生まれ。隣の隣村、富並村の阿層家から母のもとに婿に来た。富並は緑したたる美しい村だった(山形から自転車で大石田迄行ったとき通った)兄が2,3人いて、妹は隣村の来迎寺に嫁に来て手打ち蕎麦の名人だった。今娘夫婦が蕎麦屋をやっているらしい。

 父は尋常高等小学校を出て、最初は建具を習って、そのあと姉の夫に弟子について大工になった。師匠が亡くなるときは見送りのため何度も山形と大石田を往復していた。

★ 母はお姫様で、父(爺ちゃん)が、鉄道開通に伴い駅毎に運送会社(丸通?)の事務所を置いて酒田まで行き酒田に定住したので、祖母ちゃん子だった。女学校にも行き、仏壇の下の引き出しに、沢山の賞状や鉤針編みの見本集などが入っていた。

この祖母ちゃんという人のことをもっと知りたい。去年山形でその話が出た。弟が送ってくれた資料もある。なんかわたしはこのばあちゃんと似ているような気がするのだ。

★ 二人は顔を合わせることも殆どなく結婚した。そんな時代だった。母は今で言う専業主婦。2~3年おきに3男4女が生まれた。7人きょうだいの私は4女です。

きょうだいが多いのはよかったと思う。その分多様性に寛容になれたかもしれない。姉3人にはひたすら面倒みてもらってるし、弟にも世話になってりうm

家の中がいつも掃除することがなく、コンプレックスで友達を呼べなかった。今思うと、母は疲れていたんだと思う。子供を産み育て、常に不足の財布でのやりくり、山の畑、1960年、生まれ故郷を離れての県庁所在地での暮らしと続く。

★ 母はからは、気の強いところと気の弱いところとの併存を受け継いだ。家事は家を出てから大好きになった。家にいるときはわがままいっぱいで勘弁してね。

父からは好奇心と歌好きを受け継いだ。まず全体を見て段取りつけようとする性向は、棟梁もしていた父からかもしれない。

威張らない、見栄をはらないことも。

★ 二人から受け継いだのは、いのちを大切にすること、神仏の信仰、といっても当時はそれは社会的に共通の暗黙の了解、生きること自明のおおもとだった。もったいない、食べ物を粗末にしてはならない、仕事は神への捧げもの、も。それは感覚というようなものではなく、生きることそのものだった。

★ 今頃になって毎朝蝋燭をともし線香をあげ、お茶とご飯をお供えしている。頂き物はまず仏壇兼神棚に、これも世の中の暗黙の了解で、川端部落は琴平さま(神社)を中心に、各家は菩提寺をひとつの欠かせない核として日頃のなりわいを行っていた。

★ ガキのころは嫌な欠点ばかり見えていつもイライラしてやつあたり、ごめんね。そんなに思い通りになるものではないとわかると、なつかしいことばかり思い出し、遅まきながら当時の父と母の言葉にならなかった胸のうちに思いを馳せる馬鹿娘は、いまでもちゃんとふたりが見守ってくれていると信じている。

馬鹿娘をいまも見まもらざるを得ないおふたり。いつもありがとう。