『卓越した文を読んでいます』

毎週水曜日は、◆読む・書く・話す

随分範囲が広いですね。

今日は、石牟礼道子さんの『食べごしらえ おままごと』

を読みながら、

『卓越したものにふれる』ことについてメモします。

★ 「子供の頃は、草の道や青芽の揃いはじめた麦畑に、わりわりと霜柱がたっている上を歩いて、足の指に霜焼けなんぞをつくっていたが、思えばきびしいあの寒さの中で、自分も一本の芽であるような感じをわたしは持っていた」

「『氷とけさり葦はつのぐむ』という早春賦の、 つのぐむという感じはなんと絶妙な感触か。ひとつひとつが、野の飛沫を浴びるような鮮烈な香りである。幼い手のひらの窪にこんもり入ってしまう若菜たちは、 色も香りも截然とちがうののだけれど、地に低く入れ混ざって、 野山の青は、まだくっきりしない表情をしているのだった。」

確かに「身」が感じていることを

きれいに見事にしかも「身」から離れることなく 見事に文字になっています。

★ 「思えば歳時記風の行事を、とりわけ大切にする家だった。 行事ごとに蓬を中心に、なんらかの野草をまじえた食べ物を神仏に供えた。」

「七つの草を頂くというのは、いのちのめでたさをいただくことぞ。

一年の祈りはここから始まるのじゃけん、しきたりはちゃんと守らなばならん」

私達の母のメインの仕事は、食べ物と一体になった 年中行事でした。「太平洋戦争の終る迄は祖母ちゃんに 教えてもらったとおりに毎年同じことをやっていればよかった」

と言っていました。

 石牟礼さんは私より20年早いお生まれです

 私が高度経済成長以前の暮らしを体験できたのは13歳までで そのあとはなんだかんだ地生えの暮らしからは遠ざかっていまや新自由主義の時代らしい。

そんな中で今年も街中で暮らしながらタンポポを摘み、今日はフキノトウ、そしてヨモギが大きくなるのを待っている。

年中行事を私なりに復活させたいと願っています。
その手つきはいかにも覚束ないものになることでしょう。

★  石牟礼さんは、草々と、人びとと、年月と、その「身」がひとつになっています。穏やかに、愛らしく、みずみずしく。えにもいわれぬ素晴らしさです。

一行一行、惜しみつつ読んでいます。

書くにしても、話すにしても

 卓越したものに触れ続けること必須だなと噛み締めながら読んでおります。

(WordPress に不慣れでお見苦しくてごめんなさい)

目下の緑の濃い野草、タンポポです。
買い物のついでにふきのとうを摘みました。おいしそうなふきのとうですぐふき味噌にしました。