毎週木曜日は、🔷子供らに寄せて
今日は、雪のことを書いておきます。
★ 生まれ育った大石田町は豪雪地だった。
朝起きると、入り口が雪に閉ざされていることもよくあった。
今思うと、その頃お母さんは50前か、父と兄二人はいつも出稼ぎで家にいなくて、雪降ろしのために山形市から家に帰って来る。
ある年、男手が間に合わず、母と姉ふたりで雪降ろしをしたことがある。私と弟は下で見ていた。
茅葺き屋根の、けっこうな急勾配で怖がりやの母は命懸けだったと思う。
最後に、なんていうんだろうか、家の正面の特に勾配が急な部分を雪降ろし中に、姉二人が雪とともに落下した!
幸い雪が深い年だったので怪我はなかった。
年三回~多い時hs五回雪降ろしをした年があったと思う。
★ 家と家の間には屋根から下ろされた雪が積もっている。
そこに姉と近所の友達で迷路を掘ったことがある。
春先気温が上がると、落とし穴になるので気をつけねばならなかった。
標準語でいうかまくらは、家の前の階段を下りた、家を背にして右側に作った。たいてい姉たちがやってくれた。お世話になったものである。
★ 雪降ろしが終わると、家の前に通り道を掘り起こし、滑り台を作った。
板のスキーと竹下駄が乗り物である。
竹下駄は、下駄の底に竹を打ち付けたもので、確か部落の桶やさんにやってもらったような気がする。
全校雪遊びの日があり、町外れの小山に行った。
今の子供たちには想像も出来ない装備だった。防雪ウエアなどなかったのだ。寒くて冷たくて大変だった。
★ とても好きだったのが、箱そりである。
短いスキーのようなもの、なんて呼ぶんだったか思いだせない、その上に箱をのせて押すようになっている。その箱に乗るのも乗せるのも好きだったな。
豆腐やさんは、箱そりを引いてチャルメラ?を吹いて売りに来た。
★ 吹雪の日に登校するときは、上級生が前に立ちマントを左右に広げて小さい下級生を守り、小さい私達は安心して付いて行った
★ 最上川逆白波の立つ迄に吹雪く夕べとなりにけるかも 茂吉
この風景を2階の障子戸を開けて見ていたような気がする。この歌のイメージから作った記憶かもしれない。
★ 雪の来る前に「そがき」をする。家を雪からまもるために、材木を家にざっと当てるのだ。添垣、かな?
だから冬は家の中はいつも薄暗い。
暖房は、囲炉裏の上にやぐらをのせた炬燵だけで、正月には火鉢を出した。
★ 町のメインストリートを馬そりが行き来していた。
そこにある年、ブルトーザーがやって来たときの違和感と屈辱感をずっと覚えている。
高度経済成長政策が始まっていた。小学校三年か四年、昭和30年代の初めである。