毎週木曜日は、🔷子供らに寄せて
今日は、母と子供たちの来しかた、の内
『日向のおばさん』のことを書いておきます。
★ 信州の清水平で、電気ガス水道なしの8年半、
私達を支えてくれた村の人が何人もいて下さった。
何をやっているのやらわからない連中、今ならおそらく無理だろう。
それでも響きあう人はいるものなのだった。
一番お世話になったのが、
日向のおばさん、山崎さんです。
☆ 当時は国内養蚕の末期で、大きな桑籠を背にした姿がまず目に浮かぶ。
中信の里山、桑畑も急坂だ。
☆ 小さかった兄と一緒によくお茶飲みに行った。
行く途中家の下のコンクリート壁から滑り落ちくるぶしを打って、それでも無理してでかけたら、帰ろうとしたら腫れ上がっていて動けなくなったことがある。その後どうなったか、よく覚えていない。
☆ 私達が知りあったときには、おばさんは、息子さんを亡くしたばかりだった。高校卒業して地元のバス会社に就職してすぐ単独事故だった。
この年になると当時よりももっと胸がつまる。
☆ 「明治の女は凄い」、お姑さん相当なものだったようだ。今なら我慢する人はいないだろう。
☆ 山崎のおじさんもいい人だった。
一言でいうと、
ギブアンドテイクなしに、ただよくして下さったのだ。
一生の私の支えのひとつです。
↑ おばさんからの荷物に入っていたお手紙。家宝です。
『がんばってください』
はい、がんばります!
☆ こっちに来てからも、毎年、
野沢菜漬、カリカリ梅干し、干し柿、餅、と勿論おばさんの手作りを送って下さった。
☆ 股関節を続けざまに骨折し、松葉杖になりました、とお手紙にあってまもなく、亡くなられたと娘さんから郵便を頂いた。
☆ 二番目が産まれたときには、
手縫いで、亀の甲を作って下さった。
ずっと大切にしまっていたのに、ここに引っ越したのが、3.11の直後でパニックしていて、処分してしまった。むこうを出るとき下さった、手作りのきめこみ人形と一緒に。
今なら絶対にこんなことしない。後悔に胸ずきずきです。
☆ 生活に追われて、こっちから送れたのは鮭一本だけのような気がする。
いつでもお返しができるように、松本の娘さんの住所を大切にしまってある。
☆ また長野に帰るときには、(本籍長野県清水平)日向のおばさん、おじさんのお仏壇に手を合わせなければ、といつも胸にある。