『鶴見俊輔さんの “I am wrong” について考える』

663/10000 2020 11 20
毎週金曜日は、◆望む未来を今つくるー政治は身近・気軽に政治
苦手、と言っていられなくなった政治のことあれこれです。

今日は先週に引き続き、鶴見俊輔さんのこの言葉について考えます。

私にとって大事なのは、you are wrongの宗派に対して同調しないことがひとつですね。それに対して私の立場は、基本的に、I am wrongなんです。

★ 現政権のありさまは刻々と凄まじさを増す一方で、こんな空気の中で子どもたち孫たちが生きていかねばならないとしたら、と爺婆どもの嘆きと危機感はは半端なものではありません。この状況の中でつらつら考えてばかりいるのも如何なものかと思いつつも、NO!と声を実際に上げる人々がこの期に及んでもなおマイノリティなのはどういうことなのか?と頭がひとりでに動きます。

 確かに私も心身を休めつつ (おかげさまでだいぶ回復、つぎは時間の捻出が必要) 次の手をひねり出そうと呻いてもいます。現政権の意識的無意識的な情報戦略、追随するマスメディアの退廃、公教育の破壊ががっつり功を奏してもいるでしょう。しかし、大阪では“都構想案”が住民投票で否決されました。現地には行かなかった、でもSNSからでも、どぶ板の必死な熱気は十分に伝わってきました。やればできるんだ!大阪の人々は、維新が悪いと天に向かって吠えるだけでなく地を這っての口コミ大作戦、背水の陣だったのです。

★ さて『私の立場は、基本的に、I am wrong』とはいったいどういうことなのか?私なりに考えてみました。

・相手のせいにしない
 こちらの力が相手よりも不足しているから負けると認識している
 相手を凌ぐチカラをつけるにはどうすればいいか、を考える
 相手の土俵に立つのではない方法で。
・自分は間違っているかもしれない、知っていることよりも知らないことの方が圧倒的に多いと知っている。だから相手を劣っていると馬鹿にしない、言葉使いに相手の尊厳を尊重する
 当然、排斥しない、分断しようとしない
 常に未知を知って学ぼうという姿勢
・だからこれまでの常識を超えた発想、アイディア、融通性、感受性、センスを生み出す必要がある
・相手が死を迫ってくるときには、当然拒否を示す。尊厳、魂の死を含む。

★ NO!と声を上げる人々が、3.11以降でさえも~この期に及んで、なぜマイノリティなのか?
この国ではまだそのための場がつくられていないことがひとつの要因だと思います。
私達は殆ど、ざっと思いつくだけでも、以下のようなことを知り考え考えあう機会を持つことがなかったのです。

・私達はなぜ生きるのか
・私とは何か 他者とはなにか
・社会、世の中とは何か

・政治とはなにか 権力とは何か
・人権、個人の尊厳の尊重とはなにか 
・マスメディア、SNSの情報選択をどのようにするか

・この国の歴史を知る
 外国に対してやった悪いこと 外国の貢献したこと
 国家権力と一般庶民との関係の歴史
・私達の誇りとは何か、国として、地域として、個人として対外的に誇ることが出来ることとは何か。必要ならばそれをどうつくるか

★ 自然療法では、病気にならないように身体をつくり、つまり健康のための場をつくっておいて、病気になったら対症療法、手当をします。
 今この国は満身創痍、桶のタガが飛び散った状態です。対症療法を急ぐとともに、
哲学・倫理・社会・政治・歴史・コミュニケーションを、10歳の子どもが一回きいてびびっとわかる表現で話し合える学びあえるそんな機会をつくっていきましょう。
 そんなのんきなことをやっている場合でない、と慌てないで腹を据えていきましょう、と自分にに言い聞かせています。
 そのとき、鶴見さんの “I am wrong” は、ひとつのキーポイントになるに違いない、と思っています。
世界で最も穏やかにくらしているというデンマークの人々が共有している言葉を来週再掲しますね。

東の友達のとこでもらってきたオトギリソウです。何回も枯らしてしまったので大切に鉢に植えました。来年の芽がスタンバイしています。

『生まれつき歌が好きだった』

562/10000 2020 11 19
毎週木曜日は、◆子どもらに寄せて ①子どもたちに伝えたいこと ②私の来し方のうち
今日は②で、うまれつき歌が好きだったことを書いておきます。

 私が歌が好きなのは父の血を引いていると思う。母はいわゆる音痴だったし飲んで歌って騒ぐタイプではなかった。父は民謡を習っていたらしくコンテストに出たとき三橋美智也が審査員だったといっていた。このあたりの話も聞いておけばよかった。

 流行りの歌謡曲で最初の記憶は、岡春夫と思っていたら岡本敦郎の“高原列車は行く”“白い花の咲くころ”、藤山一郎の“青い山脈”あたりだ。雪解けのころ金平様の回廊で川端部落のお姉さんたちと遊んでいた記憶と重なる。小学校の2年かそこらだったから昭和20年代の後半である。
 小学校3年か4年のとき我が家にもラジオが入って、春日八郎のヒットソング、題名歌詞、思いだせない、がかかるとそれこそ一生懸命にラジオに耳を寄せて鉛筆を握りしめて歌詞をヒアリングして書きとめようとした。全部が書き出せるには何回かかかった。歌詞の意味は完全にはわからなかった。三橋美智也も好きだった。“お富さん” “別れの一本杉” “哀愁列車” “夕焼けとんび”などなど。夕焼けトンビの歌詞そのものの風景があった。
時は過ぎて、美空ひばり、雪村いづみ、江利チエミの3人娘の時代から、ザ・ピーナッツへ。グループ・サウンズ~のころはBGMな感じでそれほど入れ込んで聴くことはなかった。

 そうそうそのころ日本にもフォーク・ソング・ブームが来たのだ。1960年代後半のことだ。高石ともや、岡林信康、中川五郎、知人の事務所では吉田拓郎のアルバム“古い船を動かせるのは古い水夫じゃないだろう”を扱っていた。岡林信康のアルバムは2枚くらい買って聴きこんだ。“私達の望むものは” “自由への長い旅”などなど。友達がフォークソング・フェスティバルをやって友部正人がゲスト出演で山形に来た。

 ほしくてたまらなかったレコード・プレーヤーが家に来ると始めて買ったのは、Peter Poul and Maryの“Puff”で、ウッディ・ガスリーのメモリアル・コンサートのアルバムも買った。
 その前のこと、1963年4月に(今検索して調べた)“9500万人のポピュラー・リクエスト”が始まった。毎週齧りついて聞いていた、DJは小島正雄。“悲しき雨音”が一位を半年くらいキープしたと思う。リトル・スティービーという天才少年が“フィンガー・ティップス”の大ヒットを飛ばしています、と紹介があった。スティービー・ワンダーである。
 東京の高崎一郎のヒット・パレード番組も評判で、聞き取ろうとしたけれど雑音ばかりで難しかった。でも全国をカバーしている“9500万人の・・”よりも動きが早かった。

1960年代の後半のNHK-FMでは、芦原英了さんのシャンソンをはじめとして、カンツオーネの時間もあり、大好きな映画音楽の時間が毎週最大1時間45分あったこともある。リクエストして二回くらい“山形の荒木しう子さん”と名前を呼ばれてうれしかった!映画音楽のドーナツ盤のサントラ盤沢山集めていたのだけれどどこかにやってしまった。若気の至りである。もうひとつ確か石田一郎?がDJのリクエスト・アワー?だったと思う、があり、どれもこれも全部殆ど欠かさず聞きまくっていた。

1970年頃すごく好きだったのは森進一と浅川マキで浅川マキは山形と吉祥寺の曼荼羅のオープニング・コンサートの一つで見た。あ、越路吹雪も山形で確か二回見ることができた。
 ビートルズの初体験は、東芝のステレオの宣伝の “Let It Be”で、なんとなくうるさい流行の音楽とかの先入観を打破された。

 1971 年の11月の末に山形にあったミニ・シアターで“Woodstock”と“Let It Be”の二本立てを見て文字通り口がきけなくなって(何回も書きました)東京に出て、Carole Kingの“Tapestry”などをチラ聞きしながら、
1975年ウェスト・コースト帰りのキヨシとタシが持ち帰った大量の音楽に接して私の音楽の好みは一変するのであった。
さて、 明日20日の夕方は、ピーター・バラカンさんが今年も帯広に来て下さるので出かけて来ます。

近くの公園で木の実に音楽を感じて撮りました。

『「しうこばーばの部屋」555回超えの課題』

561/10000 2020 11 18
毎週水曜日は,◆読む・書く・話す
ずいぶん範囲が広いですね。コミュニケーション全般を含みます。

今日は毎日更新のこのブログが12日で555回となりましたので課題をメモしておきます。500回のときと大きな違いはありませんけれど。

① 単純ミスを防ぐために、前日下書き当日9時投稿のペースをつくる
  時間を先取りする 遅れない、ストレスになってややこしくなるから
② 作文技術の向上のために学ぶ
本と藤本先生の講座
③ カテゴリーの編集し直しをしようかと思案中
  金曜日の◆政治は身近・気軽に政治 をグループ“とかちイナキビ・プロジェクト”に移すか このままでいいか?
◆おばあちゃんの知恵 衣食住育児 の項目が欲しい
④ 自分のことを書くのは極力避けて、
読んで下さる方の役に立つ記事の書き方に変えようか、柄でもないか、思案中
⑤ Wordpressの使い方をもっと覚える いまのところ間に合っている 凝らなくてもいい
⑥ ブログに要する時間を短縮する そのためには読書と作文技術が必要
⑦ 過去記事をサッと出せるようにそのノウハウを覚える

〇〇〇/10000 と書くとき、そのたびに “私、100歳まで元気で自力歩行・脳力向上して生きるんだった” と思い出します。
 2日、3日と遅れて寝床で遅れを数え追いつく日を思う、それでも始めたことを後悔もしないし止めようとも思いません。なるべく無心に続けますね。
 おひとりでも、見てるわよ!と言って頂くと天にも昇る気持ちになります。
 お目に止めて下さる皆さま、ありがとうございます。
 今夜はしばらくぶりにようやく当日に追いつくことが出来ました。ほっとしています。
 ではまた明日。

目が覚めるようです。何の木だろう?調べていません。図書館の前の並木です。

『五年日誌に執心』

560/10000 2020 11 17
毎週火曜日は、◆自分史をつくろう、今、未来に向かって
このブログのメイン・テーマです。
今日のテーマは『五年日誌』です。
始めたばかりの3月の終わりか4月の初めにも書きましたね。

そのメリットは、
・書き出すと意外と、何もなかったような気がしていても、やっていることがハッキリする
 私、よくやってるじゃない、と勇気がとやる気が湧いてくる
やって頂いたこと、プレゼントは書かないと損した気になる 申し訳ない気がする
 ありがたいことだから。
課題がハッキリする
進歩が見えるであろう。まだ1年目なので。

★何冊目かの10年日誌は残りを筆写帳とすることにしました。
『5年日誌』は、毎日のスケジュール帳の後ろにファイルしています。このレフィルは10年分をバーゲン(たぶん廃番)のときに買い込んであります。
 大事な項目には初めからマーカーでチェックします。これは10年日記を読みかえすのが面倒だった経験からです。

★ 五年日誌も、13歳で知りたかった生きる秘訣のひとつです。書くことで進歩と成長が目に見えて、少なくとも二倍は生きられるのですから。
 この日記がうまるころの自身のイメージ、目標と言ってもいいです、を栞にして日々コツコツです。
 より充実して生きるためのコツ、ノウハウ
も『しうこばーばの自分史講座』の大切なテーマの一つです。ご一緒に開発していきましょう。

図書館前の落ち葉です。わざわざ撮りに行きました。絵葉書もつくろうと思います。





 
                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                      

『ぼちぼち行くか』

559/10000 2020 11 16
毎週月曜日は、◆小さなビジネスを始めるにあたってのあれこれです。
私の小さなビジネスは、『しうこばーばの自分史講座~今、未来に向かって』
私はこの講座の講師とファシリテイターをつとめます。


★ コロナがここ帯広でも厳戒態勢となりました。繁華街の飲食店でもあちこちで発生、パート先のたい焼きやでも、次亜塩素酸水を四か所で噴霧、テーブルごとに、焼台・レジにも次亜塩素酸水の噴霧器を置き、マスク、透明ビニールのパーティションはもちろんです。諸説芬々のコロナですけれども、とにもかくにも気をつける以外にありません。

★ 『しうこばーばの自分史講座』でとかちプラザの一番小さい部屋のビデオ編集室を週一4回取りました、けれども迷った結果、19日と26日の木曜日の午前はリハーサルと書斎代わりに使って、12月の週一2回分はキャンセルしようと思います。とかちプラザでもキャンセルが相次いでおりキャンセルの際の料金の説明もありました。
 どうしよう、告知の投稿はしておこうか、不用か? リハーサルしてますでもFACEBOOKに投稿しておくか。

★ この一週間での前進報告です。
① 毎日更新すると決めて始めたこのブログ、12日で555回となりました。このところ遅れがちで追われています。でも、毎日更新としてよかった、と揺るぐことなくがんばって更新を続けています。課題と不明点がてんこもりで、そのことについては水曜日に書きます。

② 信頼しているあるサイトに、『冬至の12月21日までに、差し迫っている重要課題を片付けてしまおう』とあり、からだが反応するものあってそうしよう、と決意しなおしました。やるやるといってできなかったことを片付けて、それも大晦日ではなく冬至の日までに、2021年を先取りして迎えようとしています。宇宙の気が大きく作用してくれる日があるそうで素直にチカラを頂こうと思います。その課題リストとスケジュール表ができたらあとは健康管理です。計画では一日にできることをぐっと減らすことも必要です。

③ 藤本研一先生(札幌作文教室ゆう様)に事業計画書を見てもらうのを延期しますと通知したところ、大変にご丁寧なご返事を頂いてこころがほっとしました。
・事業計画書をつくる時間を取ってその日その時間にやると決めてしまうこと
・完全版でなく途中のでも見ますよ。このお言葉にリラックスできてやる気が出ました。今の最善のものを提示セネバとすぐテンパるもんで遅くなっていたからです。

④ サハラ砂漠にエコ・ファームをつくるので400万円のクラウド・ファンディングをスタートさせた、FACEBOOK友達の岩間ひかるさんのページを熟読してその豊かで柔軟な姿勢を学んでいます。勇気を頂いています。
https://www.facebook.com/hikaru.iwama.3/posts/2981300528637166
 『しうこばーばの自分史講座』では学費が必要なのでクラウド・ファンディングを考えています。
 ・自分史活用推進協議会様の講座で学び自分史活用アドバイザーの資格を取得する
 ・藤本先生の自分史を含む作文講座で学ぶ
・リサイクルで本棚を7~10台ゲットして本を整理する ためです。

⑤ そうそう、息子たちがノート・パソコンをプレゼントしてくれました。マイクとカメラ付です。近々オンライン・デビュー予定です。(ドキドキ)

★ 書き出すといろんなシーンをこなしている、というよりも、宇宙の気から師、友達、家族まで、人々の中にいて人々から教えてもらい助けてもらいながらだなあとしみじみ感じ入っております。ありがとうの連続です。
 コロナのおかげで、落ち着いて内容を編集構成して、学ぶ時間もできました。これでちょうどよかった気がします。
 さあ、またぼちぼち行くか、と粘っています。まずは12月21日夏至までです。

とかちプラザ二階の回廊から駅方面です。

『いい感じの結婚式と天国へ送る集いと』

558/10000 2020 11 15
毎週日曜日は、◆ステキにエイジング、
今日は、LIVEで結婚式があったばかりでそのことと、ついでに “天国移住を祝う集い”のことも書いておこうかな。

☆ 一週間前は、能登の息子のソウルと亜衣ちゃんの結婚式でした。ソウルのまんまる母さんからその詳細を伝える手紙が来ました。やっぱり手紙はいいですね。

『ソウルと亜衣ちゃんの結婚式が無事終りホッとしています。
 与呂見村龍昇寺の若さん(若住職)遼雲がとりしきって、般若心経の読経の中
厳かで、そしてあたたかくなごやかな、いいお式でした。
三三九度とか~~~いいなあとしみじみと思いました。
和式はいいわ。
お寿司は手造り、精進料理も懐石で、量もたくさん。
ミヅも楽しそうでよかった。
与呂見の皆が文字通り総出で、黒子の様に動いてはります。
ソウルはいい友人にかこまれて、大好きな仲間
朝とれの鯛の活造りをもってきた直き君、
ケーキ、手作りのウエディングケーキ、ともみん・かおるちゃん
花(ブーケ)さっちゃん
ソウルと亜衣ちゃんに歌を創ってきたほう(従弟)
仕事が終わり夜中に寺に来て包丁をつかった鹿君。
皆の力が結実して、予報は雨だった筈が―晴天!
お寺の庭の中を二人は歩きながら本堂へー。
幸せは今ここにある。
とにかくよかった。
  母はつかれたけど
    肩の荷が下りた。』

私もうれしいので前にも載せた宴の写真をもう一度アップします。

☆ 蛇足になりますけど、対になって思い出したのが、ナナオ(毎年三か月くらいソウルの家に居たそうだ)の天国への引っ越しを祝い送る集いです。ナナオは12年前の12月23日に黄泉に還り、その翌日各地から口コミで何人くらいだったろうか数十人~100人前後?大勢、大鹿村釜沢のボブのところに駆けつけてきました。
受付も名簿もなく、当時はSNSもYou Tubeもスマホもなかったか今ほど普及していなかったので動画を撮る人もいませんでした。棺桶で眠るナナオにそれぞれ最後の挨拶をして、中には棺桶の窓から覗くナナオとVサインでツーショットを撮る人もいたり、喪服を持参した人も、ハンガーごと車に仕舞い込んでいました。
 ボブから最期の様子の話があって、遺言は『葬式要らず、墓要らず』であったことを皆知りました。坊さんが他家のお葬式と重なり読経できなくて確かボブがお経をあげたような気がします。
 夕方からの宴には、持ち込みの手作り料理がこれでもかこれでもかと並びもちろん酒も量に不足はナシで次々と歌が飛び出し、もう大盛り上がり!です。私は、イエルカのリクエストで『最上川舟唄』を声張り上げて歌い、ノリでもう一曲持ち歌の“Moon River”を歌ったら、ひのこバンドのマスターがハーモニカを吹いてくれました。大感激、Stevie Wonderのと同じくらいよかったです。
 知らせがあったときちょうど下の息子が帰省していて息子たちがぱぱっと行路をつけて3人一緒に駆けつけることができました。そうそう、そのとき私は右足を骨折していたのだった。
飯田のバス停留所にはアキのとこのタカと森藤さんが迎えに来てくれていました。~散会となり下の息子は府中のマリたちと一緒に東京方面に帰る車に便乗させてもらい御殿場に帰りました。あのシーン、このシーンがよみがえりますけれど、今日は省略です。

☆ 皆々の笑顔とよき心根、集う歓喜、を生きるよすがに残りの人生がんばっていこうとこっくりうなずくのです。

今年はナナカマドの実が目立って豊作です。近所の交差点です。

『私達の課題ー鶴見俊輔さん「言い残しておくこと」から』

556 /10000 2020 11 13
毎週金曜日は、◆望む未来を今つくるー政治は身近・気軽に政治
苦手、といっていられなくなった政治のことあれこれです。

 今日は、鶴見俊輔さんのご本『言い残しておくこと』(2009)からの抜き書きメモです。鶴見さんは私達が今直面している課題をつとに洞察なさっておられます。では、

① 私にとって大事なのは、you are wrongの宗派に対して同調しないことがひとつですね。それに対して私の立場は、基本的に、I am wrongなんです。

② 明治元年から明治38年(1905年)までは相当の自制心が、新政府の功労者たちに働いていた。ところが日露戦争に勝ったとたんにそのたがが外れ・・・指導者側も国民も抑止力を失った。そのときから昭和の種が蒔かれたんですね。・・・それからの長い衰退は、これからも続く。その中で、自分個人はどうして生きられるのかという問題がずっとあるんです。(2004)

 (明治維新以後から今に至るまで)つくる力とつくられた力、つくる人とつくられた人とはちがう。

④ そもそもベ平連というのは、まちがい主義なんです。まちがいからエネルギーを得てどんどん進めていく、まちがえることによって、その都度先へ進む、・・・こういう運動の形というのは、日本では明治以降の百数十年間おこらなかった。それまで日本にあった反権力の運動というのは、ほとんどが・・・あくまでも自分たちが正しいと思っているから、まちがいがエネルギーになるということがない。

⑤ 私にとっても、あの状態の中で、(太平洋戦争が始まって日本に返され徴兵されて)なぜ国家権力を巻き返すような運動を組織することができなかったのかということは、いまでも基本的な問題なのです。
(1960年の)安保の強行採決に抗議するという行為は、戦争中の反戦運動が国家権力に対してトータルに対決したのとくらべれば、やはりもっと部分的な問題になってきていると思うのです。(1967年)

⑥ ベトナム戦争にいやけがさしてアメリカ軍をすてた脱走兵をかくまうという一見ラジカルな行動にしても、・・・その9割までは脱走兵援助で知られるべ平連などと無関係な日本の人々によってなされているのだ。(1968年)

 無党派の集結という似たような仕方で参加している人にたちによって、(これまでの行動の遺産を)範疇的に積み上げてゆくことがどの程度可能かという問題についていえば、私には人間にはそういうことはむずかしい、というので絶望している面があるのです。
積み上げようと努力してゆけば、それが積み上げられなくとも、ある程度の痕跡は残るであろうというふうな、いわば度合いの思想というところにいつも落ちつくんですよ。(1967年)

⑧ あの長い戦争の中で、70代、80代の老人の何人かは、戦時10代の私をとらえていた恐怖感にとらえられてはいなかった。それぞれ、日本の国の形のさだまらぬうちに生を受け、この国をつくりかえるために生涯努力した。

⑨ 歴史のなかに自分のやったことがきちんと入っている知識人が何人かいる、そういうふうには歴史を見ないのが天下の大勢ですよ。

⑩ 「抵抗運動、つまりゲリラは、同じ手を二度つかえない」(武谷三男さん)繰り返すことはできない。まったく新しい手を考えなきゃいけない。同じ手をやることはできないんですね。どんなに小さい運動であっても、そのなかに工夫があって、まったく新しい手がそのなかにあるんじゃないと続けられない。どうも、日本の戦後60数年の権力反対運動は、それとは違っていますね。(2007年)


★ 2015年夏安保法制以来追われつつ私なりに頑張ってきて、年齢もあり息切れがして週一のほぼ一人スタンディングも2月から休んで、コロナのおかげもあってあれこれ思案が続いています。
 鶴見さんの言葉には、新しい知識に目が開かれつつ、おおいに共振が湧きます。日本では、権力反対運動は、これまでの行動に敬意を表した上で、まったく新しい表現が待たれていて、まだ始ったばかりで、これからだというのが私の思いです。
 2015年以降、これまでになかった創造的なアクションに注目しています。面白くて笑えてこれぞ庶民の底力と手を打つ表現も次々と出現していて、真摯にコツコツ地味に継続している同志も全国にいます。数はたしかにマイノリティではあるけれども、まだまだめげるには早過ぎます。
 時間、体力、脳力に加えてIT力とセンスにも限界があるので言うだけの人になるのを警戒しながら、戦争だけはイヤ!個人の尊厳の蹂躙もイヤ!国家権力に税金を無駄遣いされるのはイヤ、文化が低劣に堕するのはイヤという思いだけは一人前で、あくまで希望にフォーカスしようとしています。

冬を一緒に過ごすセロリとパセリです。もう家の中に入りました。

『東京は中央線』

555/10000 2020 11 12
毎週木曜日は、◆子どもらに寄せて ①子どもたちに伝えたいこと ②私の来し方
の内、今日は②で第二の故郷、東京の中央線時代のことを書いておきます。

★ 私の故郷は、三つある。生まれ故郷の山形の大石田、二番目が東京の中央線、三番目が信州の清水平である。

中央線沿いで今に続くなかまたち、BROTHERS and SISTERSと出会ったのだ。東京の中央線では国分寺あたりになると「今日は東京に行ってくる」というのだった。東京にいたときは殆ど中央線沿いで都心部にはあまり行ったことがない。

 1971年の11月の末、ミニシアターで“WOODSTOCK”と“LET IT BE”の二本立てを見て文字通り口がきけなくなった一日か二日後、山形を後にして、ここにいけばなんとでもなるだろうと当時高田馬場にあった山岸会の案内所にまず行った。
 そこで教えてもらって吉祥寺の土方コミューンに一か月いて、工事現場のガン吹き職人の手伝いに井の頭線の浜田山に通った。東京は毎日晴れていて毎日富士山が見えるのに感動して二度と日本海側には住まないと決めた。水道通りを歩いて帰って来ると、空気が乾いていて薄い靴下一枚のかかとが割れた。
 1972年新年 山岸会に集まった何人かで家を一間借りたので荻窪に移った。この出入り自由の家で何人もの友達と出会った。家は“夜迷亭”と名付けられハチャメチャだった。今の若い人ならもっと賢くマネジメントするだろう。当時吉祥寺にいたあぱっちのアパートに『名前のない新聞』発行の手伝いにいったこともある。途中夏に京都まで旅に出て戻って年を越す前に調布の布田に移った。ここに約半年いた。
 1973年大家さんが壊すので引っ越すことになり、夏に再び京都に行き長崎まで足を延ばしたのはこの時だったと思う。秋に関東に帰って佐藤工務店の工事現場のあった埼玉の飯能に九月から年明けまでいて、多摩ニュータウンの友達のお産手伝いをする予定だったのがなかなか生まれず、山形に帰って約束していた親戚筋のおばあちゃんのお手伝いに4か月もいただろうか、そのあと結城登美雄さん(地元学)の左沢のお母さんの実家に行ったことがある。その後自分の実家で断食を一週間やって『地球の上にに生きる』を見ながら楽しく縫い物にいそしんだ。
 その年1974年の8月に山形をあとにして、
(何をやっているかわからない末娘をお父さんと、特にお母さんはどう思っていたのだろうか、どんなにか心配していただろうと今頃になってその胸のうちを思いやってももう遅い。)
山形を後にして向かったのは、長野県の入笠山、ここで “いのちのまつり” なるものがあるという。
 入笠山で濃い出会いをいくつもして、雷赤鴉でしばらく暮らして国分寺へ出た。ひと冬ウロウロしていると、1975年、中央線沿いは春から始まる“MILKY WAY CARAVAN”のうわさで持ちきりになった。バッグパックの要領を教えてもらって、沖縄の読谷村から知床半島まで歩いたりヒッチしたり乗り物に乗ったりして大勢のなかまたちと縦断した。その冬は旭川で越して1976年早く再び国分寺へ、一か月西荻窪の友達の部屋を借りた後駅国立、市は国分寺のアパートに引っ越した。このころ西荻窪に“ほびっと村”ができてご自宅でなさっていた木村先生の指圧教室もそこに移って毎週西荻まで通った。約一年後信州の清水平に移住したのは1977年の4月だった。

 ★ 中央線沿いを中心にして、今も続く多くのなかまたちとシンクロ二シティな出会いがあったのだ。この出会いを何と呼べばいいのだろう? で、私は何をしていたのかというと、生計はフリーター、工事現場の掃除、美術モデルなどでやりくりして、自分がなにをしたいのかがわからない、をやっていたようなものであった。今ならもっと賢く、形が出るように学び形が出るように仕事をする、かもしれない。後悔はしていない。歓喜と混沌のごちゃごちゃの渦中で吹き飛ばされそうになりながら、若さの勢いがあったにせよ、生き延びることができたのだから、大したことないけど。



2,3日間の落ち葉です。今年は落ち葉にも見とれました。

『伊那谷から友達が来たー土曜の朝はホリデー気分』

557/10000 2020 11 14
毎週土曜の朝は、NHK-FMで “WEEKEND SUNSHINE” に続いて“世界の快適音楽セレクション” を聞きながらまったりすることにしています。

☆ 今朝はなんとピーターさん、さっそくかけてくれました。Joni Mitchellの気になっていた最近新しく出た デビュー前の未発表音源の4枚組から1時間以上も、です。一週間再放送で聴くことができるので来週なんとか時間をつくりましょう。10~20代だったら買いこむ以外になかったところです、でも今ではたまたま聴けて十分幸せ、です。

☆ 今週の最大の出来事は、伊那谷の大鹿村から、Old Friendのアキが帯広に来たので会いに行ったことです。アキと初めて会ったのは1974年8月末、入笠山の祭りのときで、アキはウェスト・コースト帰り一行のひとりでそれこそビカビカに輝いていました。
いまでは、4人の子どもに孫が14人、まもなく曾孫も生まれるという一族繁栄ぶりです。
まずは、それぞれの家族と、仲間の消息、さらに大鹿村の様子、人口が1000人を切った、村に根を下ろして営々と暮らしていること、コミュニティ・スペースでの活気あふれる、歌や踊りや寸劇の出し物・・・と、こんなにゆっくり会えるのは初めてです。滞在先のヒロの出してくれたおやつと旨い夕ご飯を二人でもりもり食べて年寄りの食欲は旺盛なのでした。
 きっとまた会える、とハグしてさよならしました。年に二か月は旅をするんだそうです。アキは優しい、人を憂いて寄り添うが習い性以前です。

なんと沢山の手作りお土産まで! ハーブ・ティー、リンゴジャム、トマトソース、一部です。
Vivid Colourのトート・バッグ。ちょうど欲しかった、『しうこばーばの自分史講座』
の紙芝居(パワー・ポイントの代り)入れにジャスト・サイズです。

☆ ラジオを聴きながら、きょうのご飯ができました。

炒り大根、鶏肉の端切れの甘辛煮、サツマイモの天ぷら、その脇は天ぷら粉の残りを玄米粉で練って揚げたのです。
夕ご飯の弁当も自動的にできました。

☆ こちらは、質実剛健豪華絢爛、
日曜日の、ソウルと亜衣ちゃんの結婚式の、伝統の手作りご馳走です。能登半島輪島市、漆の本場ですものね。丁寧に仕舞ってあるのですね。

私達が子供のころの結婚式のようです。
良かった、よかった。目出たいめでたい。(式と宴のシーンは肖像権の都合で割愛)

☆ 一度雪が降って冬になりました。夕方の日が長くなり始めるまであと一か月とちょっと、朝の日の出が早くなり始めるまで二か月近く、など指折り数えているうちに、2月になれば光は春です。

2021年カレンダー、一冊目は共働学舎さんからです。
スロー・ジョギングを再開して街中の紅葉を満喫できました。

『息子は小さいとき暗唱していた』

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毎週水曜日は、◆読む・書く・話す
ずいぶん範囲が広いですね。コミュニケーション全般を含みます。

今日は外山滋比古先生(1923ー2020)のご本、
『頭の良い子に育てる日本語の話し方 わが子に伝える「絶対語感」』(2003)
の第一章を読みましょう。

読む・書く・話す に加えて、『聴く』が大変大切であると知りました。

生まれたときから小さいうちに子どもが耳で聴いた言葉が頭の良し悪しを一生左右する
という極めて大切なお話です。




★ 外山先生の本から抜き書きします。

・日本語を、改めて「ことば」として意識しましょう。
・ことばだけは、生まれた瞬間から、習得を始めることができます。

・耳から言葉を覚えていく赤ん坊にとって、先生である母親の言葉はとても大切です。母乳が体の糧なら、「母乳語」はこころの糧です。
・普通より、すこし高い調子の声で、抑揚を大きくして、くりかえし、おだやかに、ほほえみを浮かべて話しましょう。
・こどもは、くりかえしくりかえし聴くことで、はじめのことばを習得します。十分に母乳後を与えられた子はものとことばの結びつきを自然な形で体得することになります。この過程に必要な期間はおよそ30ヵ月です。

・母乳語を与えられていたこどもは、やがて、抽象的なことばの使い方をする「離乳語」へ切り換わらなくてはなりません。抽象語とは、目に見えない、抽象的な〝ものごと〟をあらわすことばのことです。
・具体的なものと結びついた母乳語と、抽象的なものをあらわす離乳語、この二つの言語の併用で、人間は高度な文化をつくりあげてきました。

・人間は、価値のあるウソをつぎつぎとつくり出しながら、文化をきづいてきたのです。離乳語は、豊かなウソをつくり出しながら,想像力を広げ、頭のはたらきをよくする作用があるのです。母乳語と調和しながら離乳語が発達する時期は、三つ子の魂が、つくりあげられる時期に重なります。

・まず耳で聴くことが、聡明の第一歩となります。現実には存在することのないおとぎ話や昔話を、耳から聴いて育つことで、こどもは聡明になることができるのです。

・抽象的言語というものは、すべての勉強に関係します。三つ子の魂が作り上げられる時期に、二つの言語にしつけをすることは、あとあと知的能力を伸ばすのに、欠かすことができません。

・おとぎ話は、日本のものを、暗がりのなかで、添い寝をしながら、10回は繰り返して、三歳ぐらいから、二年の間に,十から、十二、三の話で充分です。
 「自分の経験の外にある」ものが、すんなり頭に入っているかどうかで、知的学習の成果に大きく差がでてくるのです。

・母乳語を三十ヵ月、離乳語を三十ヵ月。この時期をきちんとしつけることができれば、こどもの、はじめのことばのインプリンティングつまり反復習得は、まず、完了します。
 この時期は、文字以前のことばが自然に習得される時期で、耳の賢明さというものを育てるのに、決定的に大切な時期なのです。

・幼いころから、よいこと、望ましいこと、普通のことをくりかえし、くりかえししつけ、刷り込んでいくと、自然に習慣ができあがっていきます。そうした習慣のなかから、にじみ出るように生まれてくるのがこころです。こころがはじめにあるのではなく、習慣の結果、うまれるものなのです。
では、なにを習慣化すればよいのか。いうまでもなく、まず、ことばです。

・幼いときに一生にかかわる三つ子の魂が形成されるのと同じように、ことばにおいても、一生にかかわることばの魂が決定されてしまいます。ことばの魂とは、そのひとにとってのことばの基本、「絶対語感」ともいうべきものです。
いったんことばが習得されて、絶対語感ができますと、いままで聴いたことも教わったこともないことばでも、わかり、使えるようになって、さらに自分で新しい言語表現を生み出すことができるようになります。

・英語の早期教育より、きちんとした母国語をしっかりしつけ、絶対語感をつくりあげること。これが人間のこころの原点だということを、忘れてはならないでしょう。

★ 関連して思い出すことをメモします。

・二人の息子たちは9時には照明を落として本を読んでやるようにしていたな。
・福音館の絵本はできるだけ集めて一生懸命読んで聞かせた。
・そのころ何回も読んだり歌ったりした本は、汚れてぼろぼろでも捨てられずにとってある。
・ある日、小学校に上がる前の息子が便所でうんこをしながら、何回か聴いた絵本の文章を大きな声で暗唱と意識するでもなく暗唱していたことを鮮明に覚えている。やるではないか!爽快だった。
・子供たちは岩波、福音館よりも、講談社の絵本や『コロコロコミック』の方が好きなのであった。
・大学時代何を勉強したかというと、『ナルニア国物語』『メアリー・ポピンズ』『長い長いお医者さんの話』他ファンタジーを奨学金で買って読み耽った。

 なんとなくいいと思うことを子どものためにと、脈絡もなくバタバタと、それでも一生懸命でした。
 外山先生の「絶対語感」を知って子育てできる今のお母さん方はなんてラッキーなんだろうと胸に深く思われることです。

初冬に花の色、一度雪を被ったナデシコです。