『「べ平連=ベトナムに平和を!市民連合」のメモ』

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毎週金曜日は、◆望む未来を今つくるー政治は身近・気軽に政治
苦手、と言っていられなくなった政治のことあれこれです。
今日は、「べ平連」についての私のメモ書きです。

★ 1970 年前後の10年はベトナム戦争反対運動と大学闘争の時代である。闘争は一部の高校でも行われた。
 私は活動家ではなかったけれど、『いったいこれは何なのか?』構内で連日繰り広げられるジグザグ・デモを見ながらこの疑問が胸の中に生まれ、その答えがが知りたくて今日まで来た。この時期に私がもっとも影響を受けたのは、べ平連、『ベトナムに平和を!市民連合』である。


東京都練馬区の「大泉市民の集い」写真記録製作委員会編『市民がベトナム戦争と闘った』より。以下の写真も同じです。

★ 固定した組織をつくらない、上位下達がない、個人の発想と感じ方と意見を尊重し合う、などなど、すぐにピンときたのだ。私の知っているこれまでの政治運動と全く違っていて、融通無碍のイメージをキャッチした。
 全国にべ平連系のネットワークができて、私の通っていた大学でも一年上の人が中心になってグループができて、全共闘系の学生たちと一緒に毎週のようにデモをした。共産党系の学生が一緒だったかはわからない。私は後ろの方にくっついて行った。戦争だけは嫌だったから。日本中で抗議行動が毎週連日繰り広げられた。
 

東京都練馬区「大泉市民の集い」の定例デモ

★ その自由な空気をダイレクトに感じ取り、これはなにかあると、サルトルとボーボワールを迎えての反戦集会や、全国連絡会のために上京した。小田実さんは実に気取らない人だった。
 今 鶴見俊輔さんの『言い残しておくこと』を読んでいる。鶴見さんの本には、べ平連が形となる経過が詳しく語られている。核となり活動の中心となった人々の活力、事務能力、インテリジェンス、感覚にあらためて深い感動が湧きあがる。
 高畠通敏さん30代、小田実さん、鶴見さん40代、鶴見良行さん、吉川勇一事務局長、50代、吉岡忍さん20歳そこそこ、みなさんこんなに若かったのだ。



  

佐世保に入港した空母エンタープライズのまわりを船でまわって、空母イントレピッド号から脱走した4人の反戦水兵の主張を伝える小田実さん、その後ろに吉川事務局長。

★ 『べ平連は組織ではなくて運動体。組織の維持が自己目的になってはいけない。
べ平連は入るのも自由、出るのも自由だが、なかよしクラブではない。(参加者一人ひとりが政治的有効性を求めて集まってきている。)だから運動の目的を達したら、ただちに解散する。そこでの人間関係は一期一会。いったん終わったら、その後は同窓会もないし戦友会もない。』(山口文憲さん 折込)

私がすぐ思い出せるのは、べ平連といえば、“いいだしっぺがやる”。口だけはダメ、人のせいにしない。

以下はこの本で初めて知った。
『そもそもベ平連というのは、ファリブリズム、まちがい主義なんです。・・・まちがいからエネルギーを得てどんどん進めていく。まちがえることによって、その都度先へ進む
・・・こういう運動の形というのは、日本では明治以降の百数十年間怒らなかった。
・・・思想の力というのは、・・・これはまちがっていたと思って、膝をつく。そこから始まるんだ。まちがいの前で素直に膝をつく。それが自分の中の生命となって、エネルギーになる。』

 この言葉も “13歳で知っていたら”、と思う。最近ではわずかながらの政治活動の中でも体験があり深く頷いている。リベラルどうしの完璧主義、SNSに溢れるちょっとでも違うとキーキーカリカリ相手の全人格を否定して有無を言わせない物言いは,とてもつらい。
 この他にも、日本の平和と人権運動についての深い洞察がいくつもあり、本は読むものと得した気分である。鶴見さんは小学生のころにはすでに1日4冊は読んでいたという、やっぱりな。

★ 山形を後にして東京に出たとき、最初に行ったのがべ平連の事務所だったらその後の私の行路はどうなっていただろうか?
 最後にべ平連の集会に行ったのは、1972年1月千駄ヶ谷の体育館で行われた、ジェーン・フォンダとドナルド・サザランド(当時FTAという反戦コメディ一座をつくって基地を訪問してまわっていた)を迎えての平和集会である。
1975年4月、べトナム戦争の終戦、ベトナムの勝利とアメリカの敗戦を私達は沖縄の那覇港で迎えることになる。

朝霞駅前で岩国の反戦米兵支援のデモの出発を待つ人々。この明るい笑顔。小さいお子にじ~んと来る。1970年。