『清水平と入山の再興を想像してみた』

毎週木曜日は、◆子供らに寄せて

今日は、これから向かうかもしれない時代の可能性のひとつを思案してみます。

★ おととい、古いなかまが、なんと「岩殿山」の紹介記事をFACEBOOKにあげてきた。
岩殿山とは、清水平の谷の、向かいの山陵の確かピークだったと思う。友達がたずねてきたときなど皆でよく登ったものだ。私が登ったのは、一回か二回あくらいかな?

この山陵はなんと呼ばれていたのだろうか?当時は何も知らず、この記事にある山岳信仰の山であることも知らなかった。

ある年の春、その年はコブシの花がことのほかみごとで、山が残雪のようにコブシの白で彩られた。登って帰ってきたなかまたちはコブシに酔っていた。香りがほのかではなかったようだ。

★ 清水平は、入山部落の一番の川下の一軒家で、入山川(という名前があったか?)が回り込む突き出しのわずかに平らな土地にへばりついていた。

その奥に10件以上の家があったそうだ。私がおなかの兄とともに清水平に入ったのは昭和52年で、昭和40年代の初めには過疎地をなくす政策で殆どの家が山を降りていた。

山を降りなかったのは、当時三家族で、二家族は清水平側、といっても山道を歩いて20分はかかる、もう一家族はおじいさんとおばあさんだけが残っていて向こうの、村の中心部の出口側だった。一度探索したとき、家の前に自然薯を何本も干していておばあさんかおじいさんか、またはお二人か、縁側でくつろいでいたような覚えがある。

清水平側の池田の爺さんには本当にお世話になった。池田さんがいなかったら長くいることは出来なかったと思う。ギブ&テイク抜きで野菜を山のように持ってきて下さり、山暮らしのノウハウを教えて下さっ。カッテがわからず、目を白黒させながら真似してみた。春にはすももや桃の花が咲き夢のように美しく質素に住まっておられた。

山はすでに雑木に覆われていて、流れのあるところには段々田んぼのあとがあり、平らな水田を見慣れている目にはただただびっくりだった。このような斜面に小さな田んぼを開墾した村の人々の思いと必要と体力と技術を想像するだけだった。

電気が入ったのは太平洋戦争のあとだそうだ。

稜線上に分校の跡が残っていてコンクリートの大きな天水槽が備えつけられていた。村の人皆で寄って労力を出しあってつくったのだろうか?

エコロジーな暮らし、といえばカッコいい、しかし、「な、食べるのにカツカツ必死だったですよ」、と池田のじいさんは言い、しいたけおじさんにはよく、「お前たちは貧しさというものを知らない」、とよく言われた。

今になって、数少ない地生えの方からお話を聞いておくべきだったと思う。そこは、父ちゃんはうまかった。話を引き出し心から喜び感動して教わろうとした。継続は父ちゃんのキャラではなかったけれど、そのエンタメぶりには今は感動するよ。

★ あるとき、役場が村の航空写真を撮って配ってくれたことがある。その写真も、舎弟殿に送ってある。(デジタル処理して保存するため)

その写真を見ながら思った。どこに人がいるのかわからないではないか?あるのは犀川と山だけだ。国道から入山に向かう入り口、山清路、を探した。山襞の中に人も隠れている。

平らなところは治水が難しかったり山のものの恵が薄かったりで、人は山襞の隙間から住み始めたのではなかったか?(要調査)

わずか20年ほど前(当時)までは日本中で多くの人々がこんな山暮らしをしていたのだ。

もし、この入山部落を再興するとしたらどうだろう!?

☆ 雑木山を手入れして復活させる。

☆ 稗、黍、粟、麦、豆を中心に、米も植える。食糧は自給

☆ 作物を動物からまもる技術を開発する

☆ 動物を飼う

☆ 電気は今なら自家発電の技術がいろいろある

☆ コミュニティの仕組みをつくる コミュニケイションのトレーニングは必須

☆ 祭りと年中行事を創生する

☆ 学び舎、図書館を設ける

☆ 日々、淡々と暮らす

☆ ワークショップを開催する

☆ 現金収入は、ITの仕事とか、工芸作品、音楽と劇とかで

と書いてくると、この列島でコツコツやってきた頼もしい、あの人たち、この人たちが目に浮かぶ。私にはできなかったけれど。

資本主義がすでに限界に瀕している今、新たな経済システムが必要とされている。経済システム、などと難しく言わなくても、生き方として、山で海で自然とともに身体で生き合うコミュニティ能力は確保しておきたい。

コロナ・ウイルス騒ぎで、この4月にと計画してくれた能登~信州行きは延期になるかもしれないね。そこに、友達のおかげで岩殿山を思いだすことが出来て、つらつら思われることを書いておきます。

兄をおんぶして岩殿山に登ったときの写真も送ってあります。あの写真のなかの2人はすでに天国、母も清水平は見納めかな。