『県庁所在地の10年③』

毎週木曜日は、◆子供らに寄せて

今日は、シリーズ 母の来し方を振り返る

県庁所在地の10年の3回目です。

★ 山形市にいる間、よく山に行った。ガイドブックを買い込み友達と一緒に、1人で行くこともあった。大学が封鎖されたので同級生と蔵王山に行ったところ、山小屋が人手がいるというのでそのまま残ってしまった。

秋田犬と一緒に、付近を庭の如く歩いた。夏から冬の初めまでいた。

大学が再開されたから、だったと思う。仲のよかった同級生が帰って来いよ、と山小屋に迎えに来てくれた。

結城登美雄さんも来てくれた。結城さんは宮城県在住、今では、『地元学』の第一人者である。同級生付き合いはほとんどないけれど、内心誇らしい。去年、FACEBOOKでつながった山形の友達が、結城さんとコラボして地域活性の活動をしているということで、わざわざ電話をつなげてくれて50年ぶりにお声を聞くことができた。何十年会わなくても気心通じている有難い友達のひとりです。

さて、しかし私は山小屋に残り5年で大学を卒業した。この山小屋は、だいぶ前に大雨で流されてなくなったと風の便りが届いた。

途中退学しないのが私の当時の流儀であった。大卒の資格がいつか役に立つことがあるかもしれないとも思案した。

実家には、なんかわけのわからない娘が1人いて言葉のかけようもない。私は気が引けてもいたけれど実家にしてみれば、やりたい放題で過ごした。すみませんでした。

★ 卒業論文は、『伊藤野枝にとっての生活者』がテーマで私なりに必死で書いた。

このテーマを選んだのは、「生活者」に興味があったこともある。7人兄弟のほかの6人は中学卒業してすぐ働いていて、この違和感は何なんだろう?といつも気になっていたから。

それに加えて、全集が一冊だけで大正時代なので文献を読むことが出来たからだ。自慢ではないけれど。古文の読み方、授業で教えて頂いたがマスターできなかったのだ。なんとも勿体無い話である。

卒業してからも長い間、卒論の締め切りが迫っている!と冷や汗をかいて目が覚めた。きついけれど快感でもあった。80点を頂いた。

★ 大学闘争の空気を吸い普通の就職をする気がなく、教員免許だでは取ったけれど体制教育の先生は無理と思っていたし、大学に就職斡旋は頼まないで、

卒業してから1シーズン、天童の果樹農家に、こっちでいう出面に出た。りんご、ぶどう、さくらんぼの手入れをした。除草剤撒きもやった。果樹とはおそろしく手がかかるものであった。一緒に作業する先輩のおばさん方とは、1人若い私は話もできずじっと聴くばかりであった。

★ 映画が好きでよく見た。正月の福引で“WEST SIDE STORY”の70ミリ版を見ることができるというので、弟と2人で福引に並んでいる人から福引券を譲ってもらったりした。メインストリートの福引所の雑踏、弟と私、そのシーンが目に見える。

アートシアターの映画、フランス映画、イタリア映画よく見た。

★ 1971年の11月の末、山形にあったミニシアターで、“LET IT BE”と“WOODSTOCK”の二本立てを見た。ショックは大きく文字通り言葉を失った。

その直後、山岸会を頼って東京に出た。

山岸会には、1969年の春に、三重迄“特講”という合宿に行ったことがあったのだ。その帰りの東京、銀座ではいくつもの炎が上がり交番が燃えていた。

東京で、といっても、吉祥寺、荻窪、国分寺、国立の中央線沿い、出会った仲間達とシンクロして、玄米食養食に出会い学びあって、以来ずっと食べ物、衣食住には出来る限り自然に近くを心がけてきた。

山形市での10年は、荒木家もスーパーマーケット経済に巻き込まれ、味の素にソーセージ、白パン、インスタント食材中心に変わった。母が大石田での料理をつくっていたシーンが蘇る。

★ 去年の春早く、山形市を訪れたとき、最上藩以来のか、文化の蓄積を感じた。繁華街の街並み、駅ビルに並ぶお土産品のグレードの高さ、接客の品のよさ、住宅地のたたずまい、何もかも時間の圧倒的な差を肌で感じた。50年の間に本当にレベルアップしたものだと感動しました。

初市とかもうないのだろうか?近郷から老若男女が集まりおおいに賑わっていたけれど。

帯広は今朝一年以上ぶりの積雪でした。気温が高く山形のような重い雪でした。