【哲学史から菌との共生まで】

1395/10000  月暦4月24日 太陽暦5/31(金)


Jason Hickelさんの『資本主義の次に来る世界』を読みました。
図書館に返す前に、いくつかメモしておきます。

ちょいスマホとちょいSNSサーフィンの代わりに、本、
けっこう読めますよ。

① こんなに減っているのか!野生動物、鳥、虫が。数字を示されると唖然茫然
背筋がぞ~~っとする。
この家に越してきた13年前、ハエ取りリボンを下げ、蚊取り線香を炊いたのに
この数年どちらも出していない。この近くでも雑草がラウンドアップに焼けて赤くなっている。

② デカルト VS スピノザ 他哲学史から、人間は自然をどうとらえてきたか、思想が資本主義を支えてきたのだった。

③ 資本主義の歴史が中世から示される。国内では伝統の地生えのコモンズを植民地として、収奪することで「栄えて」きたのだ。コロンブスの新大陸発見からグローバル・ノースはグローバル・サウスを植民地として収奪して「栄えて」きた。日本の構造も同じである。
自然からの収奪、「公共」からの収奪も同じく。

④ 木々の根っこも、菌もコミュニケーションしあって扶けあっている。
地球の生命体、植物、動物、菌類も、網の目を張り巡らせて共存している。
人間が支配収奪する対象ではない

⑤ グローバル・サウス、一般庶民、自然から収奪して「成長」しようとする資本主義が
地球を、自然を、私たちの暮らしを追い詰めている。
しかし、そうでない、自然をうやまい共存してきた先住民の文化は今も絶滅しておらず、破壊された自然が復元された実績もある。心から共感します。
希望はある。

⑥ 哲学、歴史、生態、その危機、希望はアニミズムの実行にある。
幸福の基準はGDPだけにあるのではない。
トータルに俯瞰してスリリングに示されている。歴史、実情、希望の全体がわかった。

⑦ 私たちの暮らしの一挙手一動が政治と結びついていることがよくわかった

⑧ 「清水平便」を書いている。30代、長野県の山の中で電気ガス水道ナシで暮らした8年半の記録です。なぜ私たちは過疎地に入り、そこで暮らそうとしたのか、その背景が言葉にされていて、あらためてその意味を、なんとなく、からハッキリと言葉にしょうと思った。

Jason Hickelさんの『資本主義の次に来る世界』 を読んでのメモは以上です。
やっぱり本、です。


⤵ ムラサキツユクサ 植物は強いですね@とかちプラザ東

『「書けば」3倍は生きることができます』

1394/10000  月暦4月23日 太陽暦5/30(木)


「書くこと」は好きですか?
日記はつけていますか?SNSに投稿していますか?
めんどう、ですか?
役所で書類書くのも、タイヘンですよね。家族や友達が付き添ってくれて一緒だと
とてもラクだったりします。



上手下手はヌキで、「書いて」みませんか?
何からがいいかな?
そうそう、山形の姉87歳に、一冊のノートを送ることにしました。
姉にはお世話になりっぱなしなのです。


ねえちゃん、毎日みっつ、
よかったこと、ありがたかったことを書いてみませんか?
みっつで足りなかったらもっと書いてもいいし。
不満なこと,おもしろくないこと、ありますよね、それが人生
そんな日には、ちょっとムリして、
ありがたかったことを、大きな字で書いてみませんか?

紙に何かを書く人のイラスト(お婆さん)



ノートにたまってきたら、
読み返してみましょう。
あら、こんなことあったんだ、こんなことも!
かきつけておくと
① その時 
② 日記に書いた時 
③ 読み返して味わうとき
少なくとも、3倍は生きることになって、お得ですよ。
書かないでいると、流れてしまってどこかに行ってしまって、
書かないでいると、つい面白くないコトにあたまが行ってしまったりします。

よかったらためしてみてくださいな。
故郷 大石田のこと、またお手紙お待ちしています。
ねえちゃんしか知らないことがまだまだたくさんあると思います。
私たち、妹、弟に教えてくださいな。
ご主人様のお世話、ごくろうさまでございます。
週に何日か、デイ・サービスに通ったらいかがでしょうか?
少しは楽をなさってくださいませ。

また手紙書きます。
元気でいて下さいな。また山形に行けるようにがんばります。❞



上手下手は関係ない、
今日の出来事、ちょっとした気づき、それのヒラメキも、
ノートが一冊、二冊・・・たまっていったら
どんな気持ちがするか?
教えてくださいな。
楽しみにしています。

⤵ シナノキ@帯広駅北。こういう写真がうまくなりたいです。














『≪ LIVE ≫  絶賛引っ越し準備中です』

1393/10000  月暦4月22日 太陽暦5/29(水)

引越しってチャンスですよね。
片づけと整理の、そして心機一転の。

3年越しの願いが叶い引っ越すことになりまして 家中荷物を広げて引越し準備中です。
段取りを細かく組み直して、壁にピンナップすれば、
あとは、終ったら赤いマジックで✖✖✖を入れていくだけ,
こうなったらゲーム感覚で。
とは言うものの引越しくらい面倒なものはないですよね。

① ②・・は予想所要時間 ①単位は 25分+5分休憩で 30分です

居間兼オフィス、2階の本、台所が3大難所、
難所から手をつけることにしました。
その中で居間兼オフィスを最優先としたのは、
最も手間がかかるのと 荷物を積み上げるスペースを作るためです。

「(私が天に還ったら)誰が片づけるのか」
ちょっとズキっとしないこともないけれど、ま、その通りだな、いくつも話を耳にしているし
この声も励みとして手と頭を動かしております。


それにしても、春からいくつものシンクロニシティが重なり
「来た!引っ越し、これで新規一転できる」
すでに前を向いています。
生まれてはじめて住む団地、その5階、見晴らしも◎、日当たりも◎
思い切り荷物を減らして、スッキリシンプルになったシーンがイメージされて
★「しうこば~ばの地味ご飯を食べよう」とか小人数の集まりもやろう
★『日本でただひとり 人生の片付けサポーター』、この肩書がサマになるようにと
引越しの片付けの一挙手一動が、それに向かってのプロセスです。ファイティン!



午前中はデスクワーク、
Kindle出版に向けての原稿書きが最優先です。
これまで77年分のエッセンスに加えて、どんな新たな気づきがひらめくか
それを楽しみに一字一字進めていきます。

この借家に住まわせて頂いて13年目、
模索と堂々巡りの遺跡はバッサリ燃えるゴミに出して
紙は10分の1になるでしょう。

今、新得の友だちが、約25年物の物干しと、大空団地にいたとき頂いた
職人さん手作りの机を軽トラでもって行ってくれました。土地があり花が好きなので
小さなコンテナにあげていた宿根草ももらわれていきました。


大整理やろうとしている方、引っ越そうとしている方
なにか共通のことはありましたか?
ご参考になれば幸いです。

引っ越したらスロージョギングのコースも変わります。ここは図書館前なので自転車で時々来ます。

『囲炉裏を囲んで 火のこと①~「清水平便り」から』

1392/10000  月暦4月16日 太陽暦5/23(木)

 30代の8年半、信州の山の中の一軒家、清水平で電気ガス水道ナシのくらしの中で二人の息子を育てました。そこの地母神に与えられた三つの言葉「うむ・はぐくむ・わかちあう」が私の生きる軸として揺るがぬものとなりました。

 水の次は、「火」のことをお話しましょう。
 今、火を焚くことがありますか?、キャンプの時くらいでしょうか。火を焚いてはいけないことになってるんですよね。街中で薪を積んでいるお宅がけっこうあって 備えているストーブも立派、「薪ストーブ 及び煙突の安全設置技能資格制度」もあります。帯広に来たばかりの頃は薪ストーブ、石炭ストーブを炊いたことがよみがえってきました。灯油をできる限り使うまいとしたのです、あれからかれこれ40年、変わりましたね。

 清水平では火の中心は、囲炉裏でした。家の中に火を焚くところがあったのです。土間があって囲炉裏があって、それが普通でした。私は64年前まで、入山部落は人去って10年、池田さん宅も伝統のつくりでした。
 囲炉裏の後ろに薪置き場があり、焚き付けに火をつけて燃やします。
 薪も焚きつけも山から頂いてきて、プラスチックはもちろん紙も燃やさないようにしていました。それは、灰を畑に撒いたこと、山菜のあく抜きは灰で、それに、信州名物の本おやきは囲炉裏の灰に埋めて焼くのが本格的だったからでもあったのですが、そもそも山にないものを混ぜない、火は山からの恵みを損なわない、とても自然ないとなみでした。
 村の中学生がここに集まって、私たちがなぜここで暮らしているのかを聞く集まりをしたとき、孫たちのためにとおじいさんが持たせてくれたおやきは、地粉のパワー溢れる実にごっついもので、ベーキングパウダーも重曹も卵も使わない手作りで、それでおやきのなんたるかを知ったわけです。今なら「売れない」でしょうね、文字通り歯が立たないだろうと思います。
 おやきは池田さんが囲炉裏で焼き方を見せてくれました。熱い灰がオーブンになると知りました。
 
 不必要に火を大きくしないのも心得です。もったいないですからね。
 囲炉裏を囲んでいろんな話が出ました。
 村の池田さんと郵便配達さんが、それぞれまったく違うことをお互いに話していました。
 ナナオ(息子たちの父ちゃん)はネイティブ・スピーカーのヘイゼルに英語での詩の朗読のチェックをしてもらっていました。
西表を引き上げてきた内田ボブに「歌ってみろ」と言われて歌ったら、「突き抜けるものがない」、とダメ出しされました。(その通りでしたわ)
上の息子は粉ミルクアレルギーだったので途中から玄米ミルクに替えて、毎日囲炉裏端ですり鉢で玄米を摺り囲炉裏の火で沸かして飲ませました。野口英世のことが頭にあって、ハイハイしはじめると息子が囲炉裏に落ちてやけどしないようにキリキリしてましたね。

 
 

『火を囲んで座っているだけで、いつもなら話さないことを友人どころか知らない人にまで話してしまうマジックです。パチパチという木の爆ぜる音を一緒に聞いているだけでも「同じ世界」で「一つになる」。
 共通前提がないと本音で話せない日本人にとって、火の共通体験は強力なアイスブレイキング機能(初対面の緊張をほぐす機能)を果たします。キャンプ(清水平)で一緒に料理し、火や食について先史に遡り、地球全体に想像力を拡げて語り合えば、それが子供たち(私たち)を「社会への閉ざされ」の外に解放します。』
(宮台真司、藤井聡『神なき時代の日本蘇生プラン』ビジネス社、2022)

 囲炉裏の熱と煙が家屋を乾燥させ保護していました。土間と囲炉裏、それと縁側のある家に住みたい、人とのつきあい方がきっと変わります。鍵のついたドアでしっかり警戒排除するようになりましたね。すでに清水平にいたとき托鉢のお坊さんに、部落に入ると有線で警戒情報が流されると聞いててショックでした。土間、縁側、囲炉裏、内ならず外ならず、そんな「場」がなつかしい。



⤵ こちらは帯広、中央公園のいつもの場所、二本のカシワの木の新緑、タンポポは綿毛になりました。

『水のこと~「清水平便り」から』

1391/10000  月暦4月15日 太陽暦5/22(水)

「毎日更新」がまたまた空いてしまいました。不規則になるとやっぱりペースが乱れますね。
毎日更新の方がすっくとします。なるべく空かないようにリズムを作ろうと思います。

 さてこの空白期間に Kindle出版に向けての第一作「清水平便り」に着手する手はずが整いました。将来目次になる項目を整理して、1週間に5日1日5枚、として7月の土用までに250ページ、と計算してみました。この課題を最優先にセットしましてリズミカルに行くようにと心しております。
まずは、一番大切な「水」のことを思い出しながら書きました。

テマリカンボクの小型のもの@帯広



 清水平は水は不便でした。。
 沢の水、川の水、湧き水、とあり、ウエイトがいちばんおおきかったのは天水でした。
飲み水、料理用の水として使いました。天水を受ける大きな甕がそのままになっていて
それを使わせてもらいました。洗い物は川で、風呂の水は川から汲みました。
 今なら不便きわまりない、ですよね、しかし私たちの前の世代のおばさん方はこれが当たり前で、これしかなかった、珍しいことではなかったのです。身体を使って生きていた、身体を使わなければ暮らしが成り立たなかったのでした。

 雨が降ってくるとまず屋根の埃が雨に洗われるのを待って、天水甕の蓋を開けて雨を受けます。どれぐらい入っただろうか、料理とお茶にしか使わないのでかなりもちました。甕からバケツに汲んで台所で大切に使いました。
 清水平を起点とする稜線の上に分校跡があり、その建物の地下に大きな天水槽がありました。人が去って10年以上過ぎておりすでに雑木に覆われており 残された教科書などが散乱していました。子どもたちが山の中を歩いて通い、生坂村と入山部落の人々が子供たちのために天水槽を造るシーンが目に浮かびます。重機がまだ一般的ではなくそもそも入れない地形であり、スコップで手堀りだったと思います。
  今住んでいる街中のご近所で物置に天水用の樋をつけて天水を受けてガーデニングに使っているお宅があります。天水はもっと活用できると思います。

◆沢水
天水がなくなると、清水平を降りてバケツを手に近くの沢水を取りに行きました。清水平の東南にそびえる「岩殿山脈」から出ている沢水です。この水は澄んでいておいしかった。
今なら一輪車にポリタンくらいの頭は働くかもしれません。
 借りている元屋敷の南隣にすでに崩れた家があり、その南端に水場があったことがわかり、枯れ草を掃除して水を汲みました。でも水量も少なくあまりおいしい水ではなかった、一辺が75㎝くらいだったでしょうか。

◆洗い物
 清水平をぐるっと取り巻く入山川が、洗い物、洗濯、風呂の水でした。洗い物の水は20リットルのバケツを両手に持って坂を上り降りして家の前に運んだものです。30代でした。今なら川迄の坂を手ぶらで下るのも一仕事です。夏には洗い物を川迄運んで洗いました。冬にはお湯を沸かして水をぬるくして食器を洗い、洗濯物は沸かしたお湯をバケツに入れて下に運び、貴重なお湯で川の水をあたためて洗いました。真冬には川面が凍り、その氷を割って水を盥に汲みました。
 「おしん」か、ですよね。でも辛いとも思わなかったし、おもしろいとも思わなかった、でもあれこれ、どうすればやりやすいか工夫しました、したつもりです。
 今こうして氷を割っておしめを洗っているのはどういうことなのか、とは、意識の上に登っていたわけではないけれど、言葉にはなっていなかったけれど、いつも胸の中にありました。
 というわけで、うちの二人の息子のおむつは99%川で手洗いでした。息子たちがこのことを誇りに思うか、恥と思うかは自由です、その意味を考える考えないかも。

◆風呂
 息子たちが赤ちゃんのときは、もちろん毎日風呂に入れました。風呂用の水をくみ上げ、沸かして、盥に移して、水で適温にしました。
 風呂は、冬は一日仕事でした。檜の風呂桶に川から水を汲んで入れるのが一仕事、薪でわかすのに結構時間がかかって、風呂に入るのも、風呂屋がなく風呂桶があるだけでしたから寒かったはず、でも覚えていない、その後お湯があるうちに洗濯を済ませて、洗濯物を家まで運んで、干すころには日が影っています。その間上の息子はダダもこねず風呂のまわりで遊んでいました。母のそばを離れずいっしょにいてくれることに感じるものがありました。
 風呂桶はあとで川べりから家の前に移しました。

◆水の力
 今よみがえってきたのは、水が、流して整えてくれて、スッキリ爽やかになったものだった、このことです。疲れたとき、去らぬ思いがあるとき、川で流れ水で手で洗っているうちにすーっと頭が軽くなり心身がスッキリとなるのでした。水とつきあってひとつになるのでした。浄め、ですね。

  面白いかおもしろくないか、辛いか辛くないか、そんなことを考えたこともなかったような気がします。荒れ性の手が冬はずっと荒れていたにせよ。そして日々繰り返しているうちに、向こうから、清水平の谷の大気の中からひびいてくるものがあり、それが私の一生の生きる軸として動かないものになったのです。

 今ならどうするか、こんな不便なままで放っておくのか、このことはまた後程。

『やすらぐということ』

1390/10000  月暦4月3日 太陽暦5/10(金)

「毎日更新」がまたまた3日空いてしまいました、ちょっと前なら
空きを埋めて追いつかネバとテンパっていたのだけれど
あっさり降参、「ま いっかペース」をゲットしております。めでたし。

20日ほど前から、① 小さなバケツ一杯の銀杏の実の皮むきをしてその皮にかぶれた
② 春になって、春の野草三昧の日々となり、冬の間にたまった毒がでてきた
③ 課題をサクサク進めるための必要としていた技術を教えて頂いて、
ほっと心がやすらいだ途端に、ここ2年分のストレスがどっと出てきた
と3っつ重なって眠くて眠くて、毒出しに身を任せて眠れるだけ寝ていました。
ほっとやすらぐと、こらえて押さえられていたストレスが出てくるものなんですね。
3年前パートをやめたときも寝込みました。
おかげさまでメドがついた感じで、少しづつ本業の課題を片付けるべく動き出しています。
「心機一転も少しづつ」と悟りました。


不調のメリットを数えると
① もう寝るしかない 眠ることが出来る
② 強いだけが人生じゃないと実感する 
人情の機微に黙って寄り添えることができるようになるかもしれない
③ 胸の奥に座って動かない自分の真実を確認できて強化できる、
過ぎ去った後に、ですけどね。

意気込まない、テンパらない、慌てない、焦らない
「あせったら負けだ」八光流柔術指圧針灸治療師の木村師の声が聞こえる。

もう一つ、最近、ペコちゃんに教えてもらったのが「立腰教育」
それと合わせて、YouTubeで丹田の養ない方、ナンバ歩きを見て
ヘソを立てるように心がけていることもあって
胸のつかえが消えて、自分をせっつかなくなってきました。めでたし。


こんなにやすらげたの生まれて初めてかも。
てんこもりの課題はまだそのままで見た目は変わらないのですが
一挙に片付けネバとあわてず少しづつのペースに慣れようとしています。

チゴユリ。小さな花がうまく撮れたら本望です。

『ヨモギ摘みが終わった』

1389/10000  月暦3月29日 太陽暦5/7(月)


気づいてみたら 待ち焦がれたフキノトウからすでに2か月
フキノトウ、タンポポ、ノカンゾウ、ヨモギ、ツクシと続き
ツクシの酢漬けは今年はほんの数本、
今はスギナの出たばかりのを摘んでいます。

ヨモギは摘み終えたことにしました。
以前は魂詰めて摘んでいたのに、
すっかり ま、いっかペースにチェンジしています。

🌿ヨモギの摘み方・干し方は
・排気ガスのかからない、ごみの落ちていない
・姿よく生えているところで
やっぱり出初めは力もあり、うまいと思う。
はじめからヨモギ以外の他の草が混ざらないように摘みます。
大きくなった先端は摘みやすい、
でも間延びした感じで苦みが入ってきます。

お湯を沸かして、
摘みたてのヨモギをサッとくぐして
冷水にさらして、しぼって
ほぐして一本一本きれいにざるに並べて
天気のいい日は1日で乾きます。
カリっと乾いたら
それをジップロックの袋に入れて
『ヨモギ2024」とシールを貼って保存します。



⤵ 今年のヨモギはこれで保存、スギナはもう少し摘みます。
銀杏は乾燥しなおし中、友達に分けて早めに食べてもらいます。



苦みが出る前は、熱湯をくぐして、グリーン・ジュースに
ハンカチに残った「カス」は米粉に練り込んで
だんごかチャパティに、この季節の楽しみです。

MY LITTLE GARDENの「よもぎ畑」はまだ小さいのが摘めますが
舗道のぐいぐい伸びているのの先端を少しもらって
何にするかというと、光合成菌の培養の大きなペットボトルに入れました。
今日は寒いですけど、30度以上になる日に備えているわけです。

薬草の薬効は1年といいますから
1年たったら浴用剤になります。
同じように、ゲンノショウコとオオバコを干して保存します。
生家の土間にかかっていたゲンノショウコがよみがえります。


⤵ ナシの花、寒空のもともってくれてます。借景です。 

『GWレポート』

1388/10000  月暦3月28日 太陽暦5/6(日)

今日はゴールデン・ウイークの最終日、
GWだからと言ってそれほど変わったことはないのだけれど、
おととい上の息子が鹿追方面に連れていってくれました。
最初のお目当ては、「神田絵里子さんの絵画展」@福原美術館です。
光透む美しい十勝の光と水と木々花々が実物そのままに、実物よりも透明に写されています。
コレクターの方が詰めておられて撮影可でした。ちょっと暗いですけど。

それからかねてより一度行きたかったナイタイ高原迄。けっこう距離がありました。日本一広い牧場で東京ドーム358個分の面積だそうです。穏やかに晴れて観光客が道外ナンバーを含めてたくさん止まっていました。
牧場に向かう道沿いにはスモモの木の並木が、白い花は5分咲きでした。
雪が降ると帯広から北方に白くなった草地が見えて気になっていたのです。

それからタウン誌で見て気になっていた「PEACOCK」というケーキ屋さんに寄りました。54年前に京都から入植、近くにお菓子屋さんがないので自分でつくりはじめてお店のオープンから25年とおばあさま。昭和な感じ、甘さ控えめ、手作り感が伝わってきておいしかったです。写真を撮らないで食べてしまいました。

帰り道、音更のDCM(元のホーマック)で籾殻燻炭の大袋をゲット、これでMY LITTLE GARDENの準備OKです。堆肥や肥やしを使わなくなった5年くらいになるかな。


さすがに農村部では、大きな鯉のぼりを何軒かで見ることが出来ました。堂々と泳いでおりました。

連休の前半、ここ中通りでは車も人も通らず、その静けさがしみわたりました。静かさを忘れていると気づかされました。


今年は花が一斉にそれも勢いづいて咲いていると、東京から、松本から、ここ帯広でも、いつもなら6月の落ち着いた緑の中に咲く紫の花がすでに満開、ジューンベリーの花もこんなに早かったかな。気候変動のさなかにいるのだと実感します。

最後はスミレを、こちらはいつも通り。濃い紫のスミレ、舗道から移植したのがMY LITTLE GARDENでこの春増えていてうれしいです。

おかげさまで 銀杏の皮にかぶれたのから始まった春の毒出しがメドつきまして、またコツコツ仕事に向かいます。気張らんとまったりやすらぎの中でできそう、おおげさなこともない新境地です。

『鯉のぼり~㈷子供の日』

1387/10000  月暦3月27日 太陽暦5/5(日)

 今日は子供の日です。
 わが家は息子が二人、満46と40歳です。母にとってはいつまでもわが子、自身の人生は子どもを授かってからといっていいくらいです。
 それで今年も鯉のぼりを掲げました。かわいかったので100円ショップで新調して、数年まえに同じく100円ショップでゲットしたもののひもを補強して下げました。


  わが家のご近所では鯉のぼりがひとつも見えません。どうしてもだんごが食べたくなって
小一時間かけて自転車でだんごやさんの大福亭に向かう道すがら、ついに一軒、ありました!
大きな鯉のぼりを上げているお宅が。その近所のつくし幼稚園さんではグランドの空にずらりと鯉が泳いでいました。昨日鹿追まで行ったらさすがに農村地帯では、数軒堂々たる鯉のぼりが泳いでおりました。

わが家の鯉のぼりは、思いは溢れてはおりますが、ちいさいしチンケなのは否めません。それは子供のころの鯉のぼりが原体験としてあるからです。
 鯉のぼりの竿は杉の一本木、軒下に保存してありました。5月節句になると、父と兄たちが鯉のぼりを立てるために出稼ぎ先から帰って来ます。てっぺんには杉の木の青葉を飾ります。
大きな鯉のぼりを朝に上げて夕方にはおろします。吹き流しがなかったので、母が、建前(我が家は大工でした)の飾りの五色の旗を縫い合わせて作ってくれた時はうれしかった、ややさめた鯉のぼりの色とはミスマッチな鮮やかさではありました。


 軒下には、ヨモギと菖蒲を挿して厄払いして無病息災を祈ります。風呂は菖蒲風呂です。
五月節句といえば、笹巻です。だんごともち米のと二種類、笹の葉に包んで蒸して、煮ます。 お母さんが、です。 一緒に手伝えばよかった。 笹の葉は子供会で朧気川沿いのささやぶに取りに行って一軒一軒回って売って子供会の活動費にしました。
 実家を離れてから、もち米のを食べたいとわがまま言って母に笹の葉をスゲの糸での結び方を教わろうとしましたが一回では覚えられませんでした。今では年中売ってますが手が伸びません。


 鯉のぼりの竿は、県庁所在地に引っ越したときトラックに積み込んで持ってきましたが、いつのまにか折れてしまった、と父か母か兄かが言っていたのを耳にしました。両親と兄たちの喪失感、父の喪失感を、今になって思いやります。それを意識していただろうかとも。あるいは、意識してあらたに何らかの伝統をつくるのは、私たちの次の世代になるのかもしれません。生活に追われて鯉のぼりどころではなくなり、山形市では上げたことがあっただろうか。
帯広市内ではほとんど見なくなった鯉のぼり、高度経済成長以前の町ではどの家にも鯉のぼりがたなびいていたものです。この違い、私たちの生命力、時と季節と一体になった暮らし、なによりも子供のすこやかな成長を祈り願うこころそのものはどうなっているのか、つらつらと思われてうすら寒くなったりもしますが、街であうお子たち、お散歩の園の子供たち、わが家の大学生とまもなく2歳の孫姫と、目の前の子供たちがいるのですから、人の道としてまもってあげなければなりません。
 わが家の鯉のぼりは月歴の五月五日まで出しておきます。

『清水平便り~『須貝アキラ 追悼集』より』

1386/10000  月暦3月26日 太陽暦5/4(土)



「私たちが信州の清水平にいたとき(1977~85年)獏原人村、大鹿村、小谷村などと、山人同士でひんぱんに行き来しあった。
 そんな冬前のある日、清水平の小さな谷に、アキラとシャイアンが大鋸担いで現れた。ヒッチで来てくれたか、軽トラだったか、ヒッチだったような気がする。そして一冬分の薪を切って帰って行った。囲炉裏で玄米を炊いて清水平の野草山菜でうまい飯を食べた、と思う。
清水平の山と川の谷の中に、今もその時のアキラとシャイアンの姿がはっきりとと見える。
 このシーンは、私の生きるよすがの一つなのです」



 ここに引っ越してからの13年分の片付けを始めたところ 早速出てきた清水平の資料が3冊、そのうちの一冊、『足に土 原人・アキラ 須貝 アキラ 追悼集』1998年「人間家族編集室」刊)から、私が寄せた「大鹿の空にあまねくなったアキラよ」から清水平関連を中心に抜き書きしてみます。


 「昭和35年ー高度経済成長政策本格化、60年安保闘争、三井三池闘争。1965年アメリカ軍
ベトナムに北爆開始∼ベトナム反戦と大学闘争の60年代後半。(私は活動家ではなかった。でも構内で毎日繰り返されるデモを見ながら「いったいこれはどういうことなのか?」それが知りたかった。2015年夏にそのジグソー・パズルのピースがピタッとはまった。)
 5年かかって大学を卒業後、フツーの就職をする気のなかった私は、リュックひとつで当時高田馬場の線路沿いにあった「ヤマギシ会」の案内所をたよって東京に出た。1971年暮のこと。
 当時、岸田哲ちゃんたちが「キブツ協会」をやっており、神宮前の事務所で「コミューンの会」が定期的に行われていた。(中略)
 60年代後半の空気がまだたくさんあって、金銭経済至上主義社会の歯車の部品として生きるのではなくて、全身でいのちまるごとで生きることを求め、模索する者たちが磁石のように引き合って、期せずして「人間家族」が自然発生していった。(中略)

 私たちにはごく当たり前のそして不思議な縁。自在闊達な中世の血と遺伝子の濃いもの同士か?いずれにせよとてもラッキーな同時代体験だった。日常の生活の中で見え隠れしながら、変わらずにフレッシュ、エネルギーの源泉となっている。70年代の10年から80年代にかけてバカバッカシ沢山やった。(今でもそれほど変わらないか)めいっぱい初めっから、教科書なしに不器用に経験体験を共にしあった。ホント、ラッキーだったよね。一方過酷な試練に耐えられなかったなかまもいたことを忘れない。


「アキラのおかげだね」「アキラがみんなをあわせてくれてるね」「もうこんなに一堂に会することないよね」 (中略)地元、大鹿のみんなの、アキラを送る気持ちがひしひしと伝わってくる。
 大勢の子どもたちがうれしい、頼もしい。(すっかりババ気分)
  🎶はなればなれにならず はなばなをまなび はなばなのみちを
   よそおいかるく あるいていけよ🎶
うちの太郎と二郎も忘れないでね。太郎も二郎も、アキラの野菜をもりもりべて食べて大きくなったのです。二郎がおなかにいるとき、南瓜やいろいろ何十㌔も大鹿から送ってくれて、清水平の入り口から担いで家に運んだ。身重の私がかついだことも気遣ってくれたアキラを思いだしてまたうるうる。
 みんな髪に白いものが混じっている。心の中にはしっかりと原石が座っている。はじめて会った頃と少しも変わっていない。キリキリイライラカリカリ、神経戦に憂き身をやつしていたころがなつかしい、トシの功、トキのチカラ、角が取れはじめているかな。
「まだまだこれからだ」電話口の向こうで。アキラの声が静かに落ち着いていて頼もしい。病の床に臥す少し前のこと。」



 それにしてもこのアキラの追悼集はすごい!1970年から28年、追悼文をよせたなかまの多くが50歳前後の働き盛り、以来26年が経つ。よくぞ編集発行してくれたものだと唸ります。 世の中の動きが併記されたアキラの年譜迄編集されている。 当時の息吹き、年月ともに世事のなかで忘れそうになる初心が鮮やかに、当時よりも深くシブく蘇ってきます。
『うむ・はぐくむ・わかちあう』この三つのことばを与えてくれた清水平のことを、今あらためて書きとどめておこうとするとき、新たに手に出来たこの追悼集の力の大きさはなかなか言葉にしきれないものがあります。
 昔語りではなく、いまとこれからの時代に、次の世代とともに考え合い、行動し合うことを念頭に清水平のことをあらためて書いてみます。