723/10000 2021 04 29
毎週木曜日は、◆子どもらに寄せ手 ① 子どもたちに伝えたいこと ② 私の来し方
のうち、今日は②で、
鯉のぼりの思い出です。
今年も鯉のぼりを出して玄関に掲げた。
遅くならないうちに、月暦もあるけれど5月5日には やはり出しておかないと落ち着かない。100円ショップで買った二本、だいぶ色がはげてきた。
掲げてふたりの息子の無病息災を祈りお願いする。
この年になると思い出すのは、13歳の夏まで 生まれ育った山形の大石田のことばかりだ。
五月節句が近づくと、出稼ぎ先から父と兄たちが帰ってきて鯉のぼりを立てる。棹は、杉の木の一本丸太だった。上の細い方は しなる。てっぺんに杉の葉を飾る。向かいの最上川の岸の林から取ってきたものだ。
兄二人は昭和7年と9年の生まれだから 色は少し褪せていたけれど、風格となっていた。
吹き流しはなかったけれど、母が建前のお飾り(父は棟梁だった)の五色の旗を縫い合わせて作った。色鮮やかで鯉のぼりの風格とちょっと不釣り合いではあった。でもわが家にも吹き流しがあるんだ、とうれしかった。
夕方には鯉のぼりを降ろして朝にまた上げる。
五月節句が過ぎると、棹を片付けねばならないのだけれど、母はできないので男手が帰ってくるまで待つことになり、杉の葉は赤くなった。いつまでも片付けなくて、と父がぶつぶつ言ってたような気がする。軒下にソガキ(冬に雪から家を守るために家を板で囲って保護する。添垣か?)の板と一緒にしまっておく。
県庁所在地に引っ越すとき、この杉の木の棹は、なかなか手に入らないからとトラックに積んで山形まで持ってきた。しかし、一回も立つことはなく小さな借家の前の作業所に積んであったのがいつか折れてしまった。
軒先に、ヨモギと菖蒲をさして、頭には菖蒲を巻き、風呂は菖蒲風呂、
全部やらなくなったような気がする。菖蒲風呂はやっただろうか?ヨモギと菖蒲を挿す茅葺屋根もない、トタン屋根に挿しただろうか?
母はなんと感じていたのだろうか?胸の内で言葉になっていたのだろうか?
笹巻つくりも、どうだろう、お母さん山形で作ってくれたかな?生意気盛りだった私の記憶は朧だ。つくっていた気もする、引っ越してすぐに全部やめたのではなかった気がする。私が家を出てから帰ると、しう子が食べたいからと、笹巻をつくってくれた(涙)。もち米を笹に入れて煮てつくる笹巻のスゲでの結び方、一度では覚えられずそのままになっている。
1日の土曜日に(5月4日に書いています)鹿追迄行ったとき、風が強くて鯉のぼりが絵のように風に泳いでそれは見事だった。でも2軒か3軒くらいで、ほんとに少ない。
そう 60年前は男の子のいる家にはどこも鯉のぼりが立ったものだった。
私たちが失ったものを思い、どうしても伝えたいことがある。新にアップデートした形で年中行事を復活させたいという願いが 食養に出会ったころからいつも胸の中にあった。
100円ショップの鯉のぼりを,手の届く限り高く掲げて、生まれ育った家で天高く泳ぐ鯉のぼりを偲ぶ。子どもたち健やかなれの願いは変わることはないにしても。

