『水上がり』

毎週木曜日は、◆子どもらに寄せて
①子供たちに伝えたいこと ②私の来し方 の内今日は②で
先週に続いて 最上川の洪水 のことを、姉からの手紙で記します。

★ このところ、いちばん上の姉との手紙のやりとりが続いています。「山の畑」に続いて
洪水のことも、速攻で来ました。息子の弘ちゃんがこのブログが見えるようにしてくれているのでしょうか?

 姉からのこの紙で記憶がよみがえったことがあります。
・そうだ!「水上がり」といってたんだ、洪水なんていわなかった。
・大正12年のことはそういえばお父さんたちが話していた。
・ろうず、そうそう、家の玄関から土間の道が裏まで通っていて、ろうずといってたな。

 ねえちゃんからの手紙をワープロします。


        『水上がり』    のり子83才の思い出

 昭和27年5月 15才 山形へ行くまでの間に何度(水が)上がったことでしょう。(そうだったんんだ)父が出稼ぎに行って母と子供達だけ、二人の兄はどうだったのか?
 朝めがさめて路通 ローズに下駄がぷかぷか浮いていたよ。皆んな家族の集まる所は座敷が高い。玄関より土間の暗いろうずが通っていた。(そうそう)
 テレビもラヂオも無い時代 天気予報も知らされず 大石田方面はあまり雨が強く降った様子もないままに、月山系の200m(ミリ)降れば最上川が氾濫する。その後月山ダムが完成する。
六年生の春には雪どけで道よりも十段もの石段(そうそう、家の前は階段になっていた)を上った所に家がたっていたのに入り口まで水が来てあれほどあった雪が(豪雪地帯です)どんどん流れていった。家の裏出口から通りに行けた。
 ある時家の前 道路まで水が来てる時に南通りの叔母さんが手伝いに来てた。エツ子(母のこと)早く物を上げんべハー(←大石田弁です)と言うとまだエエとあせらない腰のすわった母でした。

父の婿入り桐箪笥 仏壇を二階に上げる。一間180㎠二段の戸棚はロープにて吊り上げる。一番大変なのは囲炉裏 りんご箱をならべて上げる。それでも水が上がって来たら(りんご箱を)二段重ねで。(囲炉裏も上げていたか) 畳はくるくると巻いて上へあげる(厚床ではなくうすべりだった。うすべりから質素なものであったけれどやや厚床になった)それから床板をはづして上へ

姉の詳細な記憶。米櫃は大きかったな。お膳はお祭りのときなど。



みんなで二階で暮らす 土間が乾くまで。本当は子どもながら(だったので)二階での生活が楽しかった

 昭和30年頃か父と兄達が山形で仕事してた時に知らせが有り車で駆けつけると新町川(これは朧気川だと思う、新町川とも言っていたのかもしれない。最上川の支流です)の橋(もちつき橋)の手前で低い道が冠水、又もどり国道13号線尾花沢より川端の家に入る

大正12年の大水には2階へのハシゴ上から二段目まで上り向かいの杉林の所に二家有った家が流されてない(そうだったんだ)

 堤防を作る話となり
堤防と同じ高さに土を持った所に家を建てるなら良いが大石田一坪500円山形市あこや町1万円 立ち退き料として50万円出た(昭和35年です)引っ越しに30万円かかった(家を解体していたな。解体して立ち退く前に並びの3軒、佐藤?叶内・荒木 を撮った写真があったけれど今となってはおそらく再見することはないだろう)
堤防ができて川端(生まれ育った部落、22軒)に残った何軒かは新築する。(堤防の下に。金平様も移転)その後川下の小マス(屋号です)まで堤防ができたときに川下より水が上がり沼の中に(沼状態となった)三日間も水が引かない。元トナリの叶内さんの母がボートで救助されたニュースを見た

 何の手伝いもせずに最上川の流れ思い出しごみなげ場あたりへ時々行って魚釣りしても知る人は少ない 、釣り人も代がわり(井刈くんのお父さんが網をうっていたなあ)昔の魚はブラックバスに大きい口で、ハヤ、オイカワ、フナ食べられてしまう。
 堤防の下で(生まれ育った家は今は堤防の真下)育った荒木です。なつかしくて来たよ。舟に上がって洗い物すると魚が列を組んで泳ぐ姿がもう無い

最上川 大橋 川端部落の住人のごみ投げ場、増水した川がきれいにしてくれる。プラスチックのなかったころ。 板舟は鍛冶屋さんの。毎年のようにはす向かいの黒滝から舟大工さんが来てつくっていた。私達の遊び場、無事故。 ゑい子姉ちゃん六年生、撮影はあんつあ(上の兄)貴重な写真。ねえちゃんが同封してくれました。私達きょうだいの原風景です。