毎週木曜日は、◆子供らに寄せて
今日は、私の来し方を振り返るシリーズで、山の畑のことを書いておきます。
レンゲツツジが咲きだすと、山の畑を思い出す。レンゲツツジは、家々に植栽されているツツジより大振りで逞しい。新緑の勢いの中に太陽の日差しに負けじとワイルドに咲き誇る。山の畑に行く道すがらあちこちに咲いていた。
山の畑は、おそらく太平洋戦争中に開墾したのではないだろうか?今度のり子姉に聞いてみよう、覚えているかもしれない。
家のある川端部落から南へ、新町、今宿を過ぎたその奥の山の中にあった。ダート(舗装道路などというものはなかった)の道を大八車をひいてとことこ歩いていく。大八車には鍬、それに弁当が積んである。肥え桶も運んだと思う。秋には収穫を積んで帰るのだ。大八車は普段は土間に立てかけてある。リヤカーでいったこともある気がする。近所の、誰だったろう?井刈さん?誰かと共同作業で一緒に行った。山の畑は、留守を守っている母の担当である。
あまり手伝いもせず、サツマイモを掘ったことを覚えているくらいだ。あの白いサツマイモ、黄金色でない、もう一度食べたい。品の良い甘みがおいしかった。
今頃なら畑のまわりでワラビを収穫した。秋にはアケビを取ったような気がする。春には「木の芽」=アケビの新芽をとったのを覚えている。木の芽、もう一度食べたい。信州で食べてみたけれどずいぶん違っていた。乾燥地だからかもしれない。
昼時になると、泉(泉などどしゃれた呼称はなかったけれど)から水を汲む。山の中の木立の中の地面を掘ってそこに水が湧いているのだ。この泉の水、もういちど飲みたい。握り飯と煮物と漬物も食べたい。
秋になると、家の前に、大豆、ゴマを立てかけて干す。ゴマには巨大なゴマ虫がうようよと這いまわっている。ゴマも作っていたのだ。
小学校4年だったと思う。お母さんが山の畑の途中で,行きか帰りかどっちだったんだろう、大八車か、リヤカーから落ちた。肩の骨が折れてしまった。包帯でつって谷地の骨接ぎまで通った。国鉄とバスを乗り継いで一日がかりだった。お母さんが地に行く日には南通りの婆ちゃんが私達の面倒を見に来てくれた。私たちは手厚く守られていたのだと今思う。
家庭菜園という言葉もなく野菜は殆どの家で作っていた。化学肥料も化学農薬もなかった。イナムシカンカラカンという行事の日があり、夕方農家の子供たちが、確か柳の枝を振りかざして、今年は稲に虫がつかないように、と歌いながらメインストリートを練り歩くのだった。あのころの母の料理が食べたい。
1960年、高度経済成長政策と共に我が家は県庁所在地に引っ越した。
学校が休みの日にはついていって遊びに行った。
