『正月、小正月の思い出』

毎週木曜日は、◆子供らに寄せて  今日は新年2日目、子供のころの正月のことを書いておきます。

☆ 当時は、1960年に県庁所在地に引っ越すまでは、年中行事は月歴に拠っていた。

それでも、除夜の鐘は太陽暦で、聞き始めた紅白歌合戦とともに、

今年こそは絶対聞くと決心しているのだけれど、起きていられずこたつの中で寝てしまうのだった。暖房はこたつひとつでしたね。

☆ 我が家は大工だったから、1月は餅を三回搗きました。正月、小正月、それに大工祝いの日があった。

正月は元旦、小正月は15日、大工祝いは・・・何日だったろうか?

☆ まず年越しのために父と兄2人が帰って来る。餅つきは男の仕事で返しは母。こどもは見ているだけ。危険なので。姉に返しを伝授するときも「絶対に二度手を出してはならない!」と厳しく教えていた。近い親戚のおばあさんは小指がなかった。

餅つきは、命がけの神事だった。気が清められ、ハレに日に変わる。

土間に藁を置き臼が動かぬようにして、うるかしておいた餅米をふかし、臼を濡らし、ふけた餅米を冷めないように急いで入れて搗く。

搗きあがったら、のし板に移して、まず鏡餅をまるめる。次にのし餅。

大人になってから、遅まきながら自分でやってみると、出来ない、カッテがわからない。教えてもらっておくべきだったことのひとつだった。

☆ 大掃除をして清め行事用のうすべりを敷く。我が家は常日頃掃除不足だったので弥が上にも清清しくなるのだった)

神棚、仏壇は勿論掃除済み、お札も新しくなっている。お神酒をお供えする。

☆ 年越し蕎麦は、あったかな?父の妹の来迎寺のおばさんが十割蕎麦打ちの名人だった。

正月料理は、昆布巻き、ひたし豆と数の子か、割り干し大根の賽の目に切ったのか。大根とニンジンのなます、ニンジンの白和え、といったところを覚えている。

餅は、大鍋にこし餡、納豆、胡桃、雑煮はごぼう・ニンジン・油揚・鶏肉で醤油味。

☆ 父が出稼ぎ先から買ってきてくれた雑誌の新年号に載っていた福寿草の花がなんとも不思議で、冬に花が咲いているのかとけげんであった。

新暦の元旦に、初詣に町内の神社をまわる父についていったけれど、おなかがすいて先に帰ってきてしまい、なんと情けないと母に嘆かれたことがある。

☆ 生まれ故郷の山形の母の手料理が、舌の原点で、子供のころのを再現したいと年とともに願われる。その頃は化学農薬もなく加工食品も食品添加物も今のように多くなく、GMOはなく、放射能のことは知らなかった。

☆ 小正月には、また餅をつき、だんごさし(まゆだま)を天井に飾る。

だんごさしの根本に飾る、なんというのだろう鏡餅のだんごさし用の、を母がつくる。だんごさしには、八百屋さんから買ってくる飾り物と、稲藁に餅をつけてつくる粟か米かを模したものも飾る。

だんごさしの木はミズキで、家の前の最上川の林の中に一本のミズキがあり、近所のひとはこの木からもらっていく。県庁所在地に引っ越してからは山形の初市で買ったと思う。

☆ 確か小正月だったと思う。小さな鏡餅を幾つもつくり、風呂場、台所、大工道具箱にお供えして、勉強机、ランドセルにももらった。子供心に神妙な気持ちになった。

☆ 『太平洋戦争が終わるまでは、ばあちゃんに教わったとおりのことを毎年同じようにやっていればよかった』と母は言っていた。

時、天、土地、旬の食べ物、暮らし、祈りとひとつになったものが、年中行事だった。山形の内陸だったから、地生えのものだった。農業人口が50%以上で、身体で生きている人が殆どだったと思う。

アップデートした形で年中行事を、コミュニティで、家毎に新しく世代に伝えて行けたらと、街中で1人で暮らしながら密かに願っている。

出来上がりました。我が家の正月料理。殆どがトラディショナルです。