『能登のねむのこと』

毎週木曜日は、🔷子供らに寄せて
子供たちに伝えておきたいこと あれこれです。

今日は、能登の“ねむ”のことを、伝えておきます。

☆ この13,14と藤原ひろのぶさんのお話会に行って来ました。ひろのぶさんは、大阪の西成育ち、ご両親はそこで食堂をなさっているそうです。

そこですぐに、ねむとの長い約束、“西成でデートしよう”を思いだして、
ねむ一家と一緒に“藤原食堂”でご飯を食べる、このことを実現しよう!と心に決まったわけです。
少しでも当時の面影が残っているうちにね。

☆ ねむとはじめて会ったのは、ある日ねむが清水平にやって来たときである。

宮崎の海岸にあった、ヨットを造っていた一族を旅の途中でたまたま、たぶん、訪れ、そこで清水平のことを聞いたのだ。

布団干しをつくってくれた。

そのあと、れいちゃんや秀ちゃんと一緒に来た。
そして、ミヅが生まれたときには、あの
極寒の冬の清水平に、姉妹でお産扱いに来てくれた。

以下れいちゃんからの聞き書きです。記憶違いがあるかもしれません。

☆ ねむのお父さんは清河生まれ、祖国が日本の植民地になり、なんらかの経緯で日本に来て何か事業をやっていた。

その事業が破産して、ねむは拾ったコークスで弟ふたりのご飯を炊いた。そんな暮らしだった。

☆ 同じ清河が父の故郷であるブルース・シンガーの新井英一さんとは、会うことがあったら、ブラザー!とハグしあう。

☆ 「うちら日本人には、想像もできない差別、貧困、言葉にならない過酷な中を生き抜いてきたのよ」(れいちゃん)

そのクセの強さに辟易しながら、れいちゃんはずっと一緒にいる。

「ねむが私達に出会ったのは、奇跡だよね、ものすごくうれしかったと思うよ」

私達は、朝鮮人だからといって差別したりしないからね。

☆ ねむはとにかくバイタリティの塊である。殺されても死なない。

生物的な生き死にのカンが生きている。

・ 這わなければ歩けない腰痛も、
肺結核も逃げて行った。

・ キムチと肉と酒のみであったのが、野菜も食するようになったとのこと。

・ ねむがトラブルを起こすたびにれいちゃん頭下げまくりでウンザリ。

・ お金がないとき、墨絵をものして能登の食堂などを売り歩いた。長い間飾っている食堂もある。
見栄っ張りの日本人にはできないよな。

☆ ユイが帯広から出るとき、ねむの『それならうちに来ればよい』の一言で、ユイはナナオと一緒に能登へ向かった。

ねむのこの一言は、忘れることがない。
一生恩にきるよ。

☆ 立派なふたりの息子に恵まれて、今幸せだよね。

☆ ねむの友達はみな、私も、ねむが好きだ。どんな悪たれ口でもねむになら平気、いくらでも出てくる。
ナナオも毎年何ヵ月かねむのところで暮らした。

☆ お前たちは甘い、お姫様だ、とねむも負けていない。確かにねむの言うとおりだ。

 

今日思い出すのは、こんなところです。

☆ ねむよ、歩けるうちに、皆で西成でデートして、藤原食堂でうまいご飯を食べようよ。

 

大韓民国の国の花、ムクゲを見ると時々ねむを思い出す。