『六人のきょうだいのこと』

毎週木曜日は🔷子供らに寄せて

今日は、「息子たちに伝える母の来し方シリーズ」で、きょうだいのことを少し話しておきます。

★ 私達は7人きょうだいです。

昭和7,9,12,15,19,22,25年、

男、男、女、女、女、女、男で

私は四女です。

職業は、一応大工、大工、理容師→専業主婦、理容師→専業主婦、理容師、フリーター・自営業・パート・起業準備中、いろいろ・居酒屋・大企業の賄い、となります。

★ 7人、といっても当時は珍しくなく、22軒の川端部落でも小1から中3迄全学年揃っていました。

7人全員揃うことがあったかな?

兄二人と父は出稼ぎで、盆と正月、最上川の洪水、親戚付き合いの時に帰って来ました。

★ ねえちゃん(一番上の姉)は、山形の床屋さんで住み込みで見習いでもう家にいなかった。その床屋さんのお客さんと結婚しました。

ねえちゃんが帰って来るとなると、恥ずかしかった、都会の匂いに加えて美人でした。

★ てい子ねえちゃんは、理容学校時代汽車に乗って山形に連れていってくれた。弁当売りから氷ったミカンを買ってくれて一緒に座席で食べました。

人形を作ってくれたり、宿題をやってくれたり、私にはいいねえちゃんでした。

左官屋さんと結婚して子供はいなくてもう二人とも亡くなりました。

山形に帰って戻るとき、駅のホーム迄来てくれて最後の最後迄気遣ってくれました。

若かった私は、山形の家族愛が濃密過ぎて息がつまりそうでした。

今は、ほんとにお父さん、おかあさん、六人のきょうだいにしっかりまもられていたんだ、としみじみとします。

★ あんつあ(長兄)が下の二人を寿司屋さんに連れて言ってくれて、弟と私は腹いっぱい食べまくったことがある。寿司屋さんが急いでご飯を炊いていたのを覚えています。

山形にきたばかりのころ、自転車の後ろに乗せて市内を案内してくれました。

このころはまだ私達が小さかったこともあり、家族きょうだいの絆があったな。

その後一番上の兄一家とは疎遠になりました。

★ 私は四女で姉3人にはよく面倒見てもらいました。

今でもお世話になっております。

★ えい子ねえちゃんは今は横浜で、娘の恵ちゃんの治療院の手伝いと

週一理容師もやってます。とても健康で元気です。

小学校の低学年のとき、登校途中に弁当の箸を一本落としてしまい昇降口で泣きそうになっていたら、えい子ねえちゃんが自分の箸の一本を私にくれて、二本の箸で食べることができた。あのとき、えい子ねえちゃんは一本箸だったんだとときどき思い出しては気になっています。

★ 次兄の賢ちゃんは、合格した高校に進学できず、私達を育てるために父と上の兄と一緒に大工として働いてくれました。

★ 弟の利明君はあの通り、小さいときからおどけて人前に出るのが好きでした。体格は小さいときそのまま全く変わっていません。

伴侶に恵まれました。なんとか元気にやっていってくれますように。

★ あれこれいろいろとある世の常のことは省略しておきます。

そのこと含めて、ま、いっかと思えるトシになりました。

書きながら、思い出がひとつ二つとよみがえり、懐かしくなんとも言えない気持ちになっています。

★ 実家にあった手紙、葉書、写真、ちゃんと保存して私達で保存しておけばよかったと思います。写真を見ながら父と母にエピソードを聞いておくべきでした。

利明くん、のり子ねえちゃん、えい子ねえちゃん、てい子ねえちゃん、南通りの親戚の姉さんに挟まれて私。小4のころ。