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毎週木曜日は、◆子どもらに寄せて
次の世代とわかちあいたいと願われることが浮かんでくるトシとなりました。
そのことをあらためてメモ書きしていきます。合い間に私の来し方、自分史も入れます。
今日は二人の息子たちの父ちゃんのことをちょっと話そう。前にも書いた気がする。重複するかもしれない。
今『しうこばーばの自分史講座』で、はじめに私の自己紹介をしている。その中で子育てのことに 父ちゃんに登場してもらわないと父ちゃんの立つ瀬がないのではないかとふと思われて 一冊詩集を持参して短いのを朗読して入れることにした。これがなかなかイケるのだ。
そう、ここ数年、時の恵みもあって、❝ああ、ナナオが言ってたのはこのことか!❞とはたと腑に落ちることがいくつかある。すぐにこれとは出て来ないものの。

そうだね、ナナオはこの列島ではまさに絶滅危惧種だった。
『俺のような人があと何人かいれば』とよく言っていた。
俺のような、とは何か? そのものと直に接する人である、世俗的な地位、階層、収入によって価値を判断するのでなく。
私はナナオのことをそれほど詳しいわけではない。亡くなった時は10年ぶりの再会だった。垣間見たいくつかのことをアトランダムに書いてみよう。
細かいことについてあれこれミーティングをすることはなかった。そういう場を極力避けていた。面倒でたるかったのだろう。細かいことをジャンプして言葉を発するので嫌われることもあったようだ。無理もない。
食い違いや行き違いに鈍感だったわけではないけれど、そこで時間とエネルギーを取られたくなかったのだ。
このう!とヒステリーをおこしても真に受けることはなく、逃げるが勝ちの必勝パターンだった。
身のまわり、愛用の道具の手入れ、メモの取り方は秩序正しく極めてマメだった。
英語での朗読はネイティブの人にお願いして真面目に練習にいそしんでいた。清水平の囲炉裏端でのシーンが目に浮かぶ。
ナナオは、目が覚めるような男だった。短い言葉でその場を圧倒した。新書なら一時間で読んだ。
一方、いたずらが大好き、ノンセンスと笑いが大好き、しんねり真面目一方はおよびでなく、グルとかカリスマは当然拒否した。ナナオ、といえばまずやれやれの表情が浮かぶなかまは少なくないと思う。
『ここでアメリカでは笑い声が起きるのだけれど、日本では誰も笑わないね』よく言っていた。
私は女で子育てと生活できりきり舞いしていたから、生活とは関係ない父ちゃんと遊ぶ気持ちの余裕はなかったけれど、ま、いっか。ごめんねしなくてもあれで十分だったと思える。
とにかく世の常の事に引き摺り降ろされることには警戒心を怠らなかった。
オーストラリアで先住民族のアボリジニと交流して一言メッセージを求められたとき
ひとこと言ったんだ、❝BE PROUD!❞ってね。
自分と気の合う人、サポートしてくれる人は本当に大切にした。一方嫌われたり迫害されたりすることがきっとあったのだろうけれど それをうじうじと口に出して嘆くことはなかった。
ナナオは幸せだ。天国に送る集いに大鹿村のボブとミドリさんのところに100人近くが駆けつけてきて、賑やかに歌い踊り手作り料理と酒が並んだ。『名前のない新聞』は追悼号を組み、10年後にはナナオ、三省さん、ポンと仲間たちをを偲び国分寺に200人?もの❝部族❞が終結した。集った私たちには一生のよすがである。
自身のことが思うようにならなくなったときすでにいつでも天国に引っ越すのを待っていたと思う。
あと10年もない、ナナオが天国に還ったトシに私も近づいていく。
❝あ、ナナオがいっていたのはこのことか!❞とハタと腑に落ちることがひとつふたつと増えていく。この世で間に合わなくてごめんね、する必要もない、そんなこと気にしなかったから。
母の真似をして欠点をあげつらったりせずに もちょっときりきり舞いせずにやって行けてたらな。もういい、過ぎたことだ。私たち3人と家族ははなんとか毎日を無事に過ごせている。
行き違いがあったとき、わが師に頂いた言葉が私の人生を決めたのだった。
『ユイさん(上の息子)を下さっただけでありがとう』

