『我が家の災難史』

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毎週木曜日は、◆子どもらに寄せて ①子どもたちに伝えたいこと ②私の来し方
の内今日は①と②にまたがります。

★「お前は帯広育ちだから台風も洪水も自然災害を知らないよねえ」
ある日下の息子が小学生のとき話しかけたら、
「僕知ってるよ、おかあさんと兄ちゃんの親子喧嘩。」
し、失礼しましたっ。
それはさておき、本人抜きでプライバシーに配慮した上で私が書きます。

★息子その1の場合
① 生後一か月で「90%ダメでしょう」と医師に言われた。どうしても母乳で育てたかった私は神経が立っていて母乳が出ていないのに気付けかった。わが人生の最大の失敗である。
→ お医者さんの手当はもちろん、宇野先生,佐々井先生、木村先生が「いのちの綱を切らないで」と寝ずに祈って下さり、生還させて頂いた。

② 中学の時、だめだこりゃと母は独断、「それならうちに来ればよい」とのねむの一言で父ちゃんと一緒に能登に向かった。途中音威子府の砂沢ビッキさん(父ちゃんと親友同士)を尋ねるというなかなかの旅であった。
→ ねむ一家と一緒に暮らし、その後宮さん一家にお世話になり、女性の長橋(?)校長先生と金沢の教育委員会の村井様の特別な配慮で能登の中学校に転校できてそこを卒業した。高校は全道一区の釧路へ。八木教頭先生、マシオン恵美香ちゃんのご配慮を忘れない。結婚式には担任の先生と同級生が何人もかけつけてくれた。このことだけで小冊子ができそうだ。今日は詳細略。

③ JRの運転士になりたてで人が飛び込んできた。おろおろしたのは母だった。
→ お客様のいのちをあずかる運転士仲間の結束は固い。「同じ釜の飯を食べてますから」とのこと。

★ 息子その②の場合
 子育てとは思い通りにならぬものと悟った私は手抜きでリラックスした上多忙で夏休み何をしていたか覚えていない。何事もないなあと間延びしていたら、
① 3.11のとき都心の飯田橋のビルの何階かにいた。歩いて板橋の赤塚のアパート迄帰った。
「どうする、引っ越す?」「4月から行く会社が決まっているから」
しょっちゅう東京を離れてもいるのでその分少し母は安心、でも何事もないようにと祈っている。

② 今年はコロナでテレワーク中。ここ帯広でも状況は変わらない。

★ 二人とも高校生のときからバイトしまくり、小遣いは勿論、学費、自動車免許取得料も自分で稼いだ。お金のことが下手だった私のおかげで逞しくなったかも(?)
信州の清水平にいたときは、一雨降ると小さな山崩れが何か所も発生して車道をふさいだ。これはたいしたことない。生まれ故郷では最上川の洪水が毎年だったから。

時代が変わる。あれやこれやあるのが当たり前だったのだと思う。
  ☆ 溢れるネガティブ情報は抑えつつ引き摺られないで、
    ポジティブ情報をキャッチするアンテナを磨いておこう。
  ☆ 既成の思考と技術では間に合わないのだから、頭は柔軟に保っておこう。
  ☆ 「目の前の人はあなたを生かそうとしているのか、
         あなたを殺そうとしているならあなたはどうするか?」
  ☆ それに、ウマいことかわすコツも大事だね。
  ひとり孫姫のみいちゃんといっしょに元気にやっていきましょう。
  私は遅まきながら「これからだ」と思っています。

冬枯れです。